「……赤い丸……ですか?」
「うん」
ハヤシライスを、スプーンですくってひとくち。
そこで、彼がうなずいた。
「カレンダーにさ、印が付いてたんだ。ほかになかったから、それだけ目立つっていうか……気になって」
言いながら立ち上がって、パソコンラックのそばにかかっていたカレンダーを外した。
そのカレンダーは、1月からずっと使われていたもの。
……そう。
しばらくの間見てないうちに7月まで進んでしまったけれど、私も見覚えのあるものに変わりない。
「コレなんだけど」
「……ッ……あ……」
ぺら、と音を立てて戻された、時。
4月。
その数字を見て、少しだけ目が丸くなる。
「…………」
大丈夫。大丈夫。
……もう、大丈夫だから。
そう自分に言い聞かせるように頭の中で呟いてから、ゆっくりと息を吸う。
4月。
それはもう、過ぎた日。
……過去の、記憶。
今は、今。
だって、今、私の前には彼がいてくれるんだから。
……独りじゃないんだから。
だけど、やっぱりどこかでまだ引きずっている自分もいる。
「……この、丸は……」
差し出されたカレンダーを見つめながら、そっと指でなぞる赤い丸印。
サインペンで付けたもの。
……そう。
これは、私自身が付けた印だ。
「約束したんです」
「……約束?」
「はい。……江の島に行こう、って」
――……あの日。
洗車スペースで車を洗い、ぴかぴかになったきれいな車を正面から見ながら、彼が私にくれた約束だった。
『明日はそれじゃ、江の島行こうか』
耳に残っている言葉。
彼の声は今と同じはずなのに、同じじゃないように思える。
……喋り方が違うからかな。
あのときのほうが、ほんのわずかだけど今の彼より声が高い。
「前の日に、たまたまテレビで江の島水族館の特集を見たんです。それで、新しくなってから行ってないから、って話をしたら……それじゃあ行こうか、って言ってくれて……」
彼のことを話しているんだけれど、でも、どこかではほかの人の話をしているようにも思えて、少しだけ……ほんの少しだけ、後ろめたさがある。
そのせいか、語尾は小さな声になってしまった。
「そうだったんだ」
カレンダーを同じように見つめたまま、彼が小さく呟いた。
伏せ目がちな横顔に、小さく胸が痛む。
彼が落ちた、翌日。
その日についている印は、彼の目にはどう映るんだろう。
……どんな気持ちでいるんだろう。
しばらくあった沈黙が、少しだけやっぱりいづらくて。
「……え?」
だけど、顔を上げた彼の表情は柔らかかった。
「明日、一緒に出かけようか」
「っ……え……」
「……今からでも……いや、随分遅くなっちゃったけど。江の島。行かない?」
さらりと告げられたセリフに、目が丸くなった。
彼と行く江の島。
その日が来るとは思わなかったし、まさか、彼から約束を果たしたいなんて言葉を貰えるとも思わなかった。
それに……このカレンダーだってそう。
もう7月なんだし、まさか4月のことを覚えていてくれるなんて。
私とは違ったんだ。
ずっと気にかけてくれていた。
この、赤い丸印を。
いったい、なんの印なのか、と。
「約束は守るよ」
「……祐恭さん……」
「俺がした約束なら、なおさら。……ダメかな? 今からじゃ」
「っ……そんなことないです! 一緒に行けたら……嬉しい、し」
慌てて首を振ってから彼を見ると、ふっと表情を緩めてくれた。
途端、自分の身体からも力が抜ける。
「それじゃ、明日。江の島に行こう」
「……はい……っ!!」
どうしよう。
すごく、すごく嬉しい。
だって、まさか叶う日が来るなんて。
……ううん。
それを言ったら、今、こうして彼の隣にいられること自体が、何よりも奇跡で何よりも信じがたいことだけど。
――……あの日の私には『絶対に』信じられないようなことが起きている。
これを幸せと言わずに、なんと呼ぼう。
「ありがとうございます。……嬉しい」
「そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ」
に、と笑った彼に笑みを返し、ありあまってしまった気持ちが言葉にも滲む。
「それじゃあ……明日の約束は明日として、今日の約束は今日果たそうか」
「今日の約束……ですか?」
「うん。……食べにおいでって言ったよね?」
「っ……あ……!」
サラダを完食。
ハヤシライスもあと数口まで平らげてくれた彼が、スプーンを握ったまま小さく笑った。
そう、だった。
今日……彼がロールケーキがあるからって誘ってくれたんだよね。
……昨日のことなのに、彼の部屋へまたこうして来ることができたのが嬉しくて、すっかり忘れていた。
デザート、かぁ。
えへへ。嬉しい。
「っ……え……?」
「いや。かわいいなと思って」
「ッ……そ、そんな……こと、ないです」
「あると思うけど」
にまにましてたのを見られてしまったらしく、彼がくすっと笑った。
顔が熱くなるのがわかり、なんとも言えない気分になる。
……うぅ。
でも、嬉しいのはもちろん言うまでもない。
彼に優しい顔で見てもらえるのは、やっぱり特別だと思うから。
「……その前に、お代わり貰おうかな」
「あ、はいっ」
最後のひとくちをスプーンですくった彼が、にっこり笑った。
それを見て大きくうなずき、笑みを浮かべる。
この場所でまた彼と一緒に食べる、ごはん。
これ以上のスパイスは、ないと思う。
……彼にとっても、そうだといいな。
自分が作った食事を食べてもらえた上の、お代わり。
これが、やっぱりすごくすごく嬉しかった。
|