「羽織、今日はお出かけ?」
「うん。……えへへ」
 翌朝。
 洗面所で鏡と睨めっこをしていたら、葉月がひょっこり顔を出した。
 今日の洗濯当番は私。
 いつもよりもずっとずっと早起きして干したので、今日のお天気ならもうじき乾いてしまうかもしれない。
「……瀬尋先生とデート」
「っ……」
「かな?」
 くす、と笑った彼女が鏡越しに目を合わせてわずかに首をかしげた。
 思いきり反応してしまったのも、もちろん見られたよね。
 ……うぅ。
 葉月、最近いたずらっぽく私をからかってくるのは、絵里の影響なのかな。
 それとも、お兄ちゃん?
 どっちとも言えないけれど、でも……もしかしなくても、どっちもの影響なんだろうな。
 くすくす笑っている彼女の後ろにふたりが見えた気がして、思わず乾いた笑いが漏れる。
「お天気もいいし、今日は絶好の日ね」
「えへへ」
 ふふ、と笑った彼女へ鏡越しに笑い、振り返って直接目を合わせる。
 昨日、葉月はお兄ちゃんとデートだった……はず。
 一昨日の夜、祐恭さんに湯河原への行き方を聞いていたから、多分間違いないとは思うんだけれど。
 確かに昨日はお兄ちゃん仕事だったけれど……ふたり揃って帰ってきたの、結構遅かったんだよね。
 夕飯は済ませるって電話も途中であったし、てっきりそうだと思ったんだけど……。
 違うのかな。
「ねぇ、葉月はデートしないの?」
「え?」
「せっかくのお天気なんだし。お兄ちゃん、起こしたらいいのに」
 畳んであったタオルを1枚手にした彼女を見ると、一瞬、2階を気遣うように目線を移してから、にっこりと微笑んだ。
 その顔はすごく優しくて、穏やかで。
 なんだか、いつもよりもずっと大人びて見えた気がした。
「昨日ね、たーくん遅くまで付き合ってくれて……家に着いたの、夜遅くだったから」
「あ、うん。それは……知ってる、けど……」
「実はね、湯河原まで行ってくれたの。仕事が終わってからなのに……嬉しかった」
 ふふ、と笑った葉月の顔はいつもと同じはずなのに、1度目を伏せてから見られたとき、どきりとした。
 色っぽいっていうか、艶っぽいっていうか。
 なんだか、雰囲気が昨日までと違う気がして少しだけ目が丸くなる。
「どうだった? 湯河原」
「……よかったよ、すごく」
「すごく?」
「ん。嬉しかった」
 『嬉しかった』
 楽しかった、じゃなくてそう何度か口にした葉月は、やっぱりいつもと違った。
 でも、どうしてかな。
 その笑顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってしまうのは。
「……よかったね」
 そう言った私の顔にも、葉月と同じくらいの笑みがあった。
 だって、なんだか話を聞いているうちに、すごく嬉しくなっちゃったんだもん。
 まるで、葉月の気持ちが伝わってきたみたいに。
 ……よっぽどいいことがあったんだろうな。
 にこにこと絶えない笑みがいつもよりきれいで、まじまじ見つめていたら『なぁに?』って不思議がられちゃったけれど。
「だから、今日は1日お家でゆっくり」
「……そっか」
「ケーキでも焼こうかな」
「えっ。ホント?」
「うん」
 誰のためのケーキか……なんてことはもちろんわかってるけれど、さすがにワンホールをひとりで食べるようなことはしない……はず。
 だから、つい反応していた。
 葉月の作る料理って、全部おいしいんだもん。
 ごはんもそうだけど、お菓子系は格別。
 いい匂いが家中に充満して、私もお兄ちゃんも、できあがる前からキッチンへ降りて待ってること何度かあったんだよね。
「……いいなぁ」
「大丈夫。ちゃんと、羽織の分は取っておいてあげるから」
「ホント?」
「ん。だから、安心して遅くまで瀬尋先生と一緒にいていいからね」
「っ……葉月……」
「ふふ」
 やっぱり、絵里みたいな色が若干出てきた気がする。
 それとも、絵里の影響を大いに受けちゃったからなのかな。
 大学に入ってから、ずっと3人で行動してたから。
「瀬尋先生、迎えに来てくれるの?」
「うん。……そろそろかな?」
 一緒にリビングまで戻って来て、ソファに腰かける。
 そのまま壁かけ時計を見ると、約束の時間まであと10分ちょっと。
 ……どうしよう。なんだか、どきどきしてきた。
 デート、だよね。これって。
 さっき葉月に言われた言葉で実感したけれど、やっぱりそう。
 デート、なんだ。
 ふたりきりのお出かけ。
「…………」
 じわじわと実感が身体中を巡って、顔が独りでににやけてしまう。
 嬉しくて、どきどきして、たまらなくて。
 また、あの車で出かけることができる。
 大好きな人の隣に乗せてもらえて、大好きな人の姿を眺めながら。
 ……祐恭さん、運転中もカッコいいんだもん。
 きっと、ほかの誰もが知らないことを、自分だけが知っている。
 これを優越感と呼ばずになんと呼ぼう。
「っ……」
 両手を頬に当ててにまにましていたら、チャイムが響いた。
 反射的に立ち上がり、キッチンから顔を出した葉月に訊ね――……る前に、くすっと笑った彼女が玄関に手のひらを向ける。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
 えへへ、と笑ったまま足早に玄関へ向かい、サンダルを引っかけるような形でドアを開ける。
 途端、眩しい光で一瞬目が眩んだ。
「……あ……」
「おはよう」
「……おはようございます」
 近い距離だった。
 優しい眼差しが降りて来て、一瞬どきりと胸が音を立てる。
「もう、支度とかは平気?」
「あ、はいっ」
「それじゃあ……行こうか」
「……はい」
 ドアを大きく開いてくれた彼が、にっこり笑った。
 そのまま迎えるように私を導いてくれて、外に出る。
 ……と、私ではなく玄関から奥のほうへ顔を覗かせた。
「しばらくの間、お預かりします」
「どーぞどーぞ。好きにしていいからね」
「っ……! お母さっ……!!」
「若いっていいわねー」
「ッ……」
 聞こえたのは、お母さんの声。
 だけど、ひゅーひゅー、とわざとらしい声援まで送られ、かぁっと顔だけじゃなくて身体まで熱くなった。
 もーーーー。
 何考えてるの、お母さんってば!
 くすくすと祐恭さんが笑うのが聞こえて、恥ずかしくて顔が俯いた。
「それじゃ、行こうか」
「……はい」
「いいお母さんだね」
「っ……もー……恥ずかしいです」
 失礼します、と軽く頭を下げてからドアを閉めた彼が、隣に並んで小さく笑った。
 階段を一緒に下りながらも、ちょっぴり唇は尖ったまま。
 だって、あんなふうにされるなんて……。
 ……小学生じゃないんだから、もぅ。
 ぱたぱたと顔を手で仰ぎながら階段を下り、る……と。
「……きれいですね」
「そうかな?」
「きれいです」
 夏の日差しを浴びていっぱいに照り返してくる、赤い車。
 きれいなラインに、頬が緩む。
「……あ」
「どうぞ」
 階段からちょうど正面にある、助手席。
 そこを開けてくれた彼が、先ほどの葉月と同じように手のひらで示してくれた。
 ……なんだか、くすぐったい。
 彼にこんなふうにしてもらうと、エスコートという言葉しか浮かばないから。
「……ありがとうございます」
 言いながらシートに座り、両足を揃えて置く。
 それを見て小さく笑ってからドアを閉めた彼が、フロントを回って運転席へ来た。
「…………」
「……ん? 何?」
「あ、いえ……っと……あの……なんか、嬉しくて」
「そう?」
「はい」
 彼が乗り込んだ途端、車がわずかに揺れた。
 それだけじゃない。
 彼の匂いがする。
 普段、香水なんかは付けない人だけれど、なんだろう。匂いがするんだよね。
 ……言うなれば、彼の部屋と同じ匂い。
 私の大好きな、モノ。
「それじゃ」
「はいっ」
 ギアに手を置いた彼が、こちらを見て笑う。
 日差しが眩しい夏の光を受けて、彼がエンジンをかけた。


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