「はい。じゃあ、エンジンかけてみよっか」
「え!? い……いいんですか?」
「もちろん。じゃなきゃ練習にならないでしょー」
あははははは。
豪快に助手席で笑い飛ばした教官を見ながらも、つい不安から乾いた笑いが出そうになる。
実技教習1限目の、今。
教本と教官、そして車の手配書をファイルごと持って車にきてすぐ、『じゃ、そっち乗って』と運転席を指差された。
普通の車と違って、この教習所のステッカーが大きく貼られているセダン。
ミラーも見慣れた乗用車とは違い、数が多い。
……でも、車は車。
当たり前のように運転席を示され、当たり前のように指示されながらも、まだちょっと頭がついていけない。
え、だって、あの……いいの?
というか、いいもなにもこれが教習なんだから、そのためにきたっていうのはわかるんだけど……。
てっきり、前段階の知識としてもっといろいろするんだとばかり思っていたから、鍵を渡されて『じゃ、エンジンスタート』と言われ、少しだけパニックになっていたのかもしれない。
「…………ふわ」
通常の車同様、セルを回すとエンジン音が響いた。
かか、った。
これだけでもどきどきしているんだけど、そんなことには気づかないのかはたまた知らんふりをしているのかわからない教官は、どっかりシートへもたれてファイルに何か記入を始める。
「はい。じゃあ、まずはクラッチ踏み抜いてー」
「……はい」
「ね。だんだんエンジンの音が変わったでしょ。わかった? あと、振動ね。これは身体で覚えるしかないから、ちゃんと覚えてよー」
「はい」
ぺしぺしとボールペンでハンドルやギアを叩きながらの説明は、わかりやすいといえばそう。
でも、改めて噂どおりの人なんだなーと思った。
ここの教習所は、教官を自分で選ぶ指名制。
だから、最初は誰にしようか迷ったんだけど、見知った名前があってつい選んでしまった。
といっても、面識はまったくなくて、私が一方的に知っているだけ。
かなり短く刈り上げられている頭は、形がわかるほど。
でも、よく焼けた顔にはしわが深くきざまれていて、何よりも目元のわらいじわが印象的だった。
『大井出』
名札に書かれている名前は、これまで何度も聞いたことのある苗字。
そう。
今から数年前、お兄ちゃんがこの教習所でお世話になった人だ。
「で? どーだった? 大井出さん。相変わらず面倒見のいいおっちゃんだろ」
「面倒見っていうか……うん。優しい先生だね」
「ま、しょっぱなはそんなもんだろ。仮免取ったら、多分近所のうまい店とか、安い店とかあちこち教えてくれんぜ」
「そうなんだ」
「最近会ってねーけど、たまに会うんだよ。教学科とかへ、ひょっこりきてたりしてな。……禿げ上がった頭ですぐわかる、とかつったら蹴られたけど」
いつもと同じ夕食時。
でも、今日は私だけ気持ちが昂ぶっていたせいか、いつもと違って感じる。
お父さんとお母さんはもう食べ終わってリビングにいるから、目の前にはお兄ちゃんと葉月だけ。
今日の夕食は、筑前煮とほうれん草の胡麻和え、そしてあじのお刺身にしじみのお味噌汁。
夕食は当番制にしたから私が作る日もあるんだけど、やっぱり葉月が作ってくれる日がいちばん好きかもしれない。
ヘルシーだし、身体にもすごくいい。
昔から夕飯になると『肉は?』って聞いてきたお兄ちゃんも、葉月が作るときは何も言わないで食べるしね。
って、そのことを絵里に言ったら『そりゃ葉月ちゃんが作るものにケチつけないでしょ』って笑ってたけど、それだけの理由じゃないことは知ってる。
だって、おいしいもん。
まぁさすがに、筑前煮を『もうねぇの?』っておかわり希望したときは、ちょっとびっくりしたけど。
お兄ちゃんが煮物を好んで食べるとか、想像もできなかったから。
「それで、初めての運転の感想は?」
「え?」
最近、葉月もきちんと夕食を食べるようになった。
少しずつだけど、何か変わってきたものがあるのかなぁとは感じる。
事実、以前までは避けるようにしていた郷中美和が出ている番組を、『顔見るだけでイライラする』って言ってたお兄ちゃんと一緒に見てたし。
でも『この人、大嫌いなんじゃなかった?』って聞いたら、『だいぶマシになった』だって。
……よくわかんない。
お兄ちゃんの好みは、特に。
「んー……難しいね」
冷茶のグラスを持って視線を逸らすと、頬杖をついたお兄ちゃんが意地悪そうな顔をした。
「エンスト何回した? お前」
「っ……なんでわかったの……!?」
「やっぱりな。ま、最初はしょーがねーだろ。誰もが通る道だ」
「そうなのかなぁ……」
日中のできごとは、どうしたって引きずっちゃうよね。
がっくん、とそれこそすごい勢いで車体が揺れ、シートベルトをしてなかったらハンドルにぶつかってたんじゃないかと思うほどの衝撃。
『スピードが出てないからよかったけど、これが路上だったら事故だぞー』
笑いながら言われた言葉だけど、中身が中身だけに冷や汗は出た。
……事故。
車を運転するようになったら、自分が気をつけなければ誰かを傷つけることになるかもしれないんだ。
改めてそう強く思うと同時に、学科の授業もひとつひとつを真剣に受けなきゃいけないんだと実感した。
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