「やー。私、結構センスあるかもしれないわ」
 人もまばらな学食の窓際の席。
 いつもとは違う、10時半に3人で集まっていたら、絵里がおもむろに口を開いた。
「今のところ、順当にクリアしてるしね。んー、なんか車の運転ってもっと難しいもんだと思ってたけど、楽勝かも」
 ほほほ、と口の前に手のひらを立てて笑う絵里を見ながら、思わず口がへの字に曲がる。
 入校してから、早1週間と少し。
 私は相変わらず、あまり進歩していない。

「アクセル踏んでる?」
「え? アクセル……ですか?」
「うん。MT車はまぁギア入れただけでも動いちゃうからナンだけど……もうちょっと、アクセル踏んで。このくらいまで」
「っわぁ!?」
 ぐん、と車が勢いよく前に進――……んだかと思いきや、すぐに止まった。
 止まった、のは教官がブレーキを踏んだから。
 つまりは、エンスト。
 し……心臓が……苦しいんですけど。
 ばくばくとうるさい心臓を服の上から押さえつけるようにして彼を見ると、それこそ小さな男の子みたいに笑って『な?』と白い歯を見せた。
 あれは昨日のこと。
 ギアの入れ方を何度も練習してから、ゆーーっくりとクラッチを戻し始めてすぐ、エンジンの音が変わって車体が滑るように動き始めた。
 私が運転してる……! っていうことにすごく嬉しくはなったものの、ギアを変えてもほとんどアクセルを踏まずにいたら、教官が笑い始めたのがキッカケ。
「じゃないと、なんかこう……あれだなぁ。教習の意味ないなぁ」
「……うぅ」
「もーちょっと。な? だいじょぶだって。事故ったりしないから」
「…………はい」
 ぽんぽん、と肩を叩かれるものの、いまだに鼓動は落ち着きそうにない。
 だって……困るもん。
 私、どうすればいいんですか。
「そんじゃ、最初から。エンジンかけてー」
「うぅ……はい」
 仕切りなおしとばかりに手を叩かれ、キーに手を伸ばす。
 と、からから笑った教官が腕を組んだ。
「しかしまー、兄貴とは随分違うなぁ」
「……え」
「いや、ほら。兄貴いるだろ? 兄貴。こないだばったり会ったとき言ってたんだよ。いやー、まさかあの彼の妹さんとはなぁ。ははは。君なら無茶なこと言い出しそうにないし、安心したわ。俺も」
 ええとあの、それは……どういうリアクションをすればいいんでしょうか。
 ばしばしと肩を叩かれながらも、どうすればいいのか正直よくわからない。
 だって……だって、あの…………きっと思ってるに違いないんだもん。
 『兄貴と違って運動神経がー』とかって。絶対。
「…………はぁ」
 今回ばかりはお兄ちゃんがらみの話を聞かないで済むと思ったのに、やっぱり甘かった。
 結局その日以降、お兄ちゃんの武勇伝と称したとんでもない話をあれこれ聞かされることになり、結果としては、どうしたって不甲斐ない自分と彼とを比べるはめになったんだから。
「私もATにすればよかった……」
「あら。そんなことしたら、祐恭センセが何言うかわかってるの?」
「……うぅ」
 だって、このままじゃ免許を取れるかどうかさえ怪しいんだもん。
 まさかの落第点を取ってしまうならば、いっそ今からでも踏めば動くAT車に変更したい。
「でも、流れを覚えちゃえばそんなに難しくないでしょう?」
「それは……そうかもしれないけど……今はまだ、そこまでできないもん」
「大丈夫。身体が覚えるから」
 自転車と一緒だよ。
 葉月ににっこり微笑まれ、一瞬『あ、そうか』と思った自分を悔やむ。
 身体が覚える前に、まだちょっと頭が覚えきれてないんだもん。
 いつになったら、当たり前のようにクラッチを使いこなせるようになるんだろう。
 このままじゃ、魔の坂道発進まで行きつきそうにない。
「でも、いいじゃない。テストの心配は消えたんだから、教習1本でいきなさいよ」
「それは……まぁ」
 そう。
 前期のテストの結果が、すべて戻ってきたのだ。
 ……ていうか……結果を張り出されるのって、どこの大学もそうなのかな。
 せめてもの救いは、名前じゃなくて学籍番号ってところだろうけれど、その横にはすべての教科の結果が見まごうことなく記されてるんだもん。
 あんな形で成績発表されるなんて思わなかったから、正直驚いた。
 同じ専攻の男の子は、『公開処刑だ!』なんて頭を抱えていたけれど。
「よかったじゃない。物理も無事にパスできて」
「それは……うーん。でも、いいのかな」
「いいに決まってるでしょ。不可じゃなきゃ問題なし」
 何よりも心配だった物理は、なんとか不可を免れた。
 といっても、ひとつ上の『可』。
 それでもやっぱり嬉しかったし、ほっとしたから、まっさきにメールで祐恭さんに報告をした。
 ……さすがに胸を張って『可でした』とは書けなかったけれど。
「で。今年の夏はどこへ行くか決まったの?」
「え?」
 待ちに待ってた夏休み、のはずなんだけど……いざそうなってみても、実はまだ何も決まってない。
 本当は、いろんなこともしたかったし、行ってみたい場所もあった。
 大学生の夏休みって、びっくりするくらい長いんだよね。
 2ヶ月もあるんだもん。お兄ちゃんが大学に行ってなかったら、知らなかったよ。
「絵里は?」
「さぁねー。とりあえず海に行こうって話はしたけど、それも具体的には決まってないし。葉月ちゃんは?」
「え? ふたりは、どこかに行くの?」
「そーゆー話しない? 孝之さんと」
「たーくん、忙しいから」
「あらやだ。そんなこと言ってちゃダメでしょ! せっかくの夏休みなんだから、行きたいところいくつか挙げれば、きっと連れてってくれるわよ?」
「そうかな?」
「そうそう! なんてったって、かわいい葉月ちゃんのためだもん」
 ぐっと拳を握り締めた絵里を見ながら、葉月が苦笑を浮かべる。
 でも、ほんとそのとおりだとは思うなぁ。
 お兄ちゃんって、葉月にはめっぽう甘い。
 ……というか、まぁ、比べる対象がどうしたって自分かお母さんしかいないから、まぁ……ね。
 身内とじゃ全然違って当たり前だけど。
「んー……それじゃあ、ふたりの話を参考にさせてね」
 にっこり笑われ、思わず絵里と顔を見合わせる。
 ……参考。
 絵里は、海に行くんだよね?
 私は……決まってないっていうか、そういう話をまだしてないんだけど。
「じゃあ、わかった。今度そういう機会作るわ!」
 絵里が、ぐぐっとパックのカフェオレを飲みきってから、満面の笑みを浮かべた。
 その顔があまりにも自信ありげでかつ楽しそうで、今度は葉月と顔を見合わせる。
「楽しみね」
 ……大丈夫かな。
 にこにこと笑う葉月を見ながら、内心ふとそんな心配が浮かんだ。


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