「教習、順調に進んでる?」
「う」
その日の夜、久しぶりに祐恭さんのおうちでごはんを食べることができた。
ここのところ……というか、テスト明けからずっと忙しそうで、なかなか連絡もできず。
何人か追試の学生が出た、っていうのもあったんだろうけれど、久しぶりに見た彼は少し痩せたような気もした。
ふたりきりで会ったの、映画以来だもんね。
かれこれ1週間以上経っていることに、改めて驚く。
今まで、こんなことなかったんだもん。
それこそ、高校生だったときは毎日学校で会えたし、ちょこっとだけど話すこともできた。
でも、大学生になった途端、同じ場所に毎日通ってはいるものの、場所はまるで違う。
広すぎる学内ゆえに、すれ違うことはもちろん、話すことだってままならない。
学食で見かけることができるのも、本当に稀になってしまった。
「…………難しいです」
「まだ2週間だっけ? 仕方ないよ。慣れるまで、少しは時間かかるからね」
「うぅ」
赤信号でスムーズに停車させた彼を見ながら、改めて『すごい』と思う。
減速するために必要なことは、クラッチワークとギア操作。
もちろん、忘れちゃいけないブレーキ。
ええと……ギアを3から2にして、最終的に1にして……そのたびにクラッチを踏んで……。
「……え?」
「あんまり難しく考えないほうがいいよ?」
「でも……」
「まぁ、ここまで考えられるようになったって意味じゃ、俺としては楽しくもあるけれどね」
「え? ……あ」
すい、と持ち上げるように私の手を取った彼が、ギアに重ねて置いた。
信号が変わる。
ぐ、と力を込めてギアをトップへ入れると、クラッチから少しずつ足が離れる。
こうして、見てると楽しいなぁ。
少なくとも、『どうやったら車が動くか』の仕組みがわかるようになった今だから。
「クラッチは、いきなり離さなければエンストもしないし。最初は難しいかもしれないけど、だんだんわかるよ。みんな最初はそうなんだから」
「……うぅ。半クラ半クラってみんなが言う理由が、ようやくわかってきました」
「そうだね、大事だよ。まぁ、こればっかりは目に見えないから、感覚で掴むしかないけどね」
「ですよね」
車はこれまでも好きだったけど、こんなふうに共通理解での話をしたことがなかった。
だから……素直に嬉しい。
たとえ、ミスをしてエンストしてしまった話であっても、彼が笑って聞いてくれるだけじゃなくて、どうしてそうなったかの意味がわかるから。
「……でも、正直……」
「え?」
ギアがセカンドへ落ちたとき、ちょうど自宅への曲がり角が目に入った。
今日は月が出ていないからか、外灯のオレンジの光がやけにめだって見える。
でも、きっとそれだけじゃない。
彼の横顔が、いつもと違って見えたのは。
「運転ができるとカッコよく見える?」
「え?」
「というか……正確には、自分にできないことができると、かな」
ゆっくりと減速した車が、角を曲がる。
たちまち車幅が狭まり、いかにも住宅街めいた静かな雰囲気に変わった。
「でも、それは心理学的なマジックにかかってるだけなんだよ」
「……マジックですか?」
「うん。だから正直、いい気はしない」
「…………え?」
自宅前のいつもの場所。
焚かれたハザードがあちこちに反射して、なんだか不思議な感じだ。
明滅するオレンジの光を見ていると、それだけでちょっとした催眠にでもかかってしまいそう。
「俺が教えて俺が許可できるなら、そうしたい」
「祐恭さん……?」
「密室だよ? 路上教習が始まったら、さらにね。人目につかない場所へ誘導されたらどうする?
そんな場所に男とふたりきりとか、ホントに勘弁してほしい」
シートへ身体を預け、私を見てはいない状態。
なのに、なんでだろう。
横顔がちょっとだけいつもより幼く見えて、そのせいか、口元が緩みそうになっちゃう。
……祐恭さん、かわいいんですけれど。
うっかりそう口走ってしまったら、彼はどんな反応をするだろうか。
「だから。なるべくなら、女性教官で取ってもらいたいね」
「……えへへ。そうします」
「…………なんでそんな顔してるのかな?」
「だって……もぉ、祐恭さん、いつもと違うんですもん」
ちらりと見られ、たちまち笑いが漏れた。
不服そうに眉を寄せられたけれど、やっぱり止まりそうにない。
祐恭さん、もしかして妬いてくれてるのかな。
えへへ。こんな気持ち、すごく久しぶり。
どうしようもなく嬉しくて、たまらず頬に両手を当てる。
「っ……」
「……あんまりかわいい顔、したらダメだよ」
「わかって、ます」
手首を引かれ、口づけられた。
濡れた音が一瞬。
顔が離れてから、ようやく今起きたことを把握する。
「えっと……でも今もまだ大井出さんメインで教わってますから」
「あぁ。それなら平気かな。あの人なら、ね。でも、どうしても指名できなかったらほかの教官でしょ?」
「それは……はい」
「そのときは――」
「女性の教官にお願いします」
「ん。よろしい」
くすくすと笑う吐息がくすぐったくて目を閉じると、改めて頬を大きな手のひらが撫でる。
なんて優しく触れてくるんだろう。
祐恭さんは、いつまで経っても私をどきどきさせる名人だ。
「……それじゃ、また明日」
おやすみと、じゃあね、のキスはいつも優しい。
けれど、それ以上欲しいと願うのはいけないこと……なんだよね、まだ。
……なのかな。
どうしたって名残惜しくて彼を見つめたままでいると、毎回困ったように笑われて、少しだけ苦しい。
『明日、会えますか?』
今日みたいにふたりきりで、という意味じゃない。
学内で会うことができれば、それだけでいいの。
でも、これを口にしてしまうのはあまりにも幼いような気がして、いつも思うだけ。
実行したことは、今のところまだない。
「……あ」
「だから……そういう顔しない」
バッグを持ったまま下りるに下りれない私を気づきでもしたかのように、祐恭さんが片手で抱き寄せた。
ふわりと香るのは、昔から変わらない。
洗剤ともシャンプーとも違う、彼自身の香りだ。
「……またね」
「それじゃあ……明日」
「うん」
ちゅ、と頬のあと唇にも口づけられ、たちまち笑みが浮かんだ。
ああ、私はやっぱりゲンキンな人間だ。
なのにこんな私を、彼は素直だと言ってくれる。
「おやすみなさい」
「ん。おやすみ」
ぐるりと運転席へ回ったところで、窓を下げてくれた彼に改めて手を伸ばす。
指先だけの、あいさつ。
それでも、温もりが伝わるのが特別だと思う。
軽く手を挙げてから、ゆっくりと車が滑るように動き始めた。
徐々に加速を始め、いつもと同じタイミングで角を曲がる。
車が走り去ったあと、ざぁっと流れる風が好き……だけど、嫌い。
……でも好きかな、やっぱり。
「…………」
落としたままだった手を握り、改めて階段を上る。
あのとき、一瞬聞こえた言葉は本物だったのかな。
『帰したくなくなるだろ』
ほんの少しだけ苦しげで、声が掠れていたように思えて。
いつも以上にどきどきと苦しい胸に手を当てると、つい頬が緩んだ。
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