「ごちそうさまでした」
「こっちこそ、ごちそうさまー。……いろいろとね」
「田代先生……っ!」
「やー、ごめんごめん。なんか、絵里の病気がうつったかも」
「失礼ね。誰が病気よ!」
 べちん、という音のあとでものすごく痛そうな声が聞こえたけれど、絵里はにこにことそれはもう愛想のいい顔を崩そうとしなかった。
 楽しそうなのはすごくよくわかる。
 だから……やっぱりありがたいと思うし、当然私だって嬉しい。
 今まで、絵里もどこか祐恭さんに対して思うところがあるみたいな態度を崩していなかったから、間にあったように感じたわだかまりみたいなものも、今日で消えたようにすら感じたし。
「……ありがとね」
「いーえ。こっちこそ、おもしろいモノが見れて楽しかったわ」
「ぅ。絵里……その顔、すごい意地悪な感じ……」
「あらそお? くふー。だって、ちょー楽しかったんだもーん」
 くふふと笑ったあと、おーほほほと続けられ、たまらず口がへの字になる。
 絵里……確かに素直でストレートなのは好きだし嬉しいんだけど……なんでだろう、こう、心から喜べないのは。
「あー、おもしろかった。またぜひ」
「もちろん。次はもっと楽しい企画にしたいね」
「あはは。待ってます」
 少しだけ声が低い気がするお兄ちゃんは、多分酔ってるからだと思う。
 けらけら笑いながら靴を履いたかと思いきや、壁に手をつく。
 ……酔ってる。絶対。
「葉月、大丈夫? なんか……酔っ払いが……」
「ん、大丈夫。まだそんなに酔ってないよ?」
「えぇ……!? いつもどれだけ酔ってるの!?」
「ふふ。大丈夫だから」
 くすくす笑いながらお兄ちゃんの隣に立った葉月は、いつもとおんなじ優しい顔で首を振る。
 いやあのでも……結構酔ってるよ?
 そのうち、『うぇ吐きそう』とか言い出しそうな雰囲気でつい眉が寄った。
「羽織は……お願いしていいですか?」
「もちろん。ちゃんと送――……あ。ごめん、飲んじゃったな」
「あ。そういえば」
 そうでしたね。
 確かに、今日は祐恭さんと一緒に来たけれど、彼のマンションから歩いてきたんだよね。
 さすがに飲んでしまった以上、車で送ってもらうわけにはいかない。
 けれど……じゃあここでさよなら、とするだけの気持ちになっていなかったから、つい返事をためらう。
 するとその気持ちを察してくれたのか、葉月がぽんと手を打った。
「たーくんがコンビニに行きたいって言ってたの。だから、ちょっと買い物してから……ご自宅までお迎えに行ってもいいですか?」
「え……いいの?」
「うん。20分くらいかかっちゃうと思うけれど、それでもいい?」
「もちろんっ!! ……あ……平気、ですか?」
「俺は、もちろん。むしろ助かるよ。ありがとう」
「いいえ」
 大きく返事をしてしまい、慌てて彼にたずねると、同じくうなずいてくれてほっとする。
 ……でも……まさか、こんなふうに気を回してくれるなんて思わなかった。
 明日改めて、葉月の好きな和菓子屋さんでふたりぶんのおやつを買って帰ろう。
 そこで『あーねみー』と葉月に絡んでる酔っ払いのぶんはないんだからね。
「そんじゃーまーたねー」
「あ、うん。ありがとね」
「ごちそうさまでした」
「いーえ。ふたりとも気をつけてね」
「食べられちゃわないのよー」
「っ……絵里!」
 大きく手を振る彼女を軽くにらみつつも、自然と笑ってしまった以上仕方がない。
 やっぱり、絵里の人柄があってこそだし、助かっている面のほうがずっと多いこともわかってるから。
 起きてるのか寝てるのかわからないお兄ちゃんを、苦笑しながら小突く祐恭さんと……楽しそうに笑う葉月。
 それぞれの顔を見ながら改めて笑みが漏れ、エレベーターへと続く道もなんだかまださっきまでの雰囲気そのもののようだった。

「やっぱりまだ暑いね」
「ほんと……ムシムシしますね」
 葉月たちと別れてから、ふたりきりの家路。
 ただでさえ霞む夏の夜空は、外灯と車のヘッドライトのせいで星は見えないけれど、それでも夏空は好きだ。
「……あ」
 ふいに掴まれた手が熱い。
 反射的に彼を見上げると目が合い、柔らかく笑われてまたどきりとする。
 触れた腕が熱い。
 でも、手首のごつごつした時計は冷たくて、今、彼に触れていることがとても嬉しい。
「本当のこと言ってもいいかな」
「なんですか?」
 繋がれた指を弄るように彼の親指が動く。
 かと思いきや、その手が肩へと回った。

「……帰したくない」

「っ……」
「ワガママかな」
 これはもう、彼のクセみたいなものなんだろう。
 語尾がほんの少しだけ上がって、疑問系に聞こえる。
 前まではなかった。……ううん、覚えてないだけかもしれない。
 少なくとも記憶に残るほど聞いた覚えはなくて、むしろどちらかといえばもっとハッキリ聞こえた。
 だから……まるで少しだけ遠慮しているような態度が伝わってくるからこそ、私に主導権があるんだと言われているようで、これまで味わったことのない感覚からかどきりとする。
「私も、帰りたくない……です」
 言っていいのかな、ってずっと考えてた。
 でも、彼が一歩踏み出してくれたから、素直に応えることができる。
 試すような顔も、言い方もしない。
 だからこそ、ストレートに伝わってきて、私も応えなきゃって気持ちになる。
 動かされる。
 ……どうしよう。
 私、あんまり我慢できない子なのかもしれない。
「まいったな……」
「え?」
「ホントに、何がなんでも帰したくない」
「っ……」
 マンションのエントランスはすぐそこ。
 ポーチライトの白い光が見えたものの、マンションのちょうど裏手の道へ引き寄せられ、見えなくなった。
「ん……っ」
 両手で頬に触れられ、顎が上がる。
 丹念に口づけられる音が響き、身体から力が抜けた。
 濡れた音。
 舌が唇を舐め、割るように入ってくる。
 ……声が……出ちゃう。
 完全に人通りがないわけじゃない。
 一応建物の陰ではあるけれど、外……なわけで。
 でも――……やめちゃ、やだ。
「ん、ん……っ……ふ……」
 ねだるように彼へ抱きつき、シャツを握る。
 好き、なんだもん。
 離れたくないなんて言ったら、わがままに映るかもしれない。
 でも……好きな人だから。
 ずっとずっと一緒にいたいと思うことくらい、許してほしい。
「は……ぁ……」
 ちゅ、と唇が離れ、すぐここにある彼の頬へ指先で触れてみる。
 目が合う、この瞬間が好き。
 双方の瞳をちゃんと見てくれるとき、すごくすごく大事そうに……愛しげに、見てもらえる。
「……葉月ちゃんは正解だな」
「え?」
「20分って、ちょうどいい時間だと思うよ。それ以上一緒にいたら俺が帰せなくなる、ってわかってたのかな」
 髪に触れてくれる指先が優しい。
 微笑みが柔らかい。
 声があたたかい。
 くすくすと笑いあう互いの雰囲気が、なにものにも代えられないほど、たまらない時間。
 家で過ごす時間も好き。
 だけど、限られた時間を過ごすのも好きなんだよね。
 もちろんそれは、相手が彼だから。
 絵里や葉月と過ごす時間も好きだけど、彼との時間は特別な感じがする。
 きっとそれは“好きな人”といるときの自分が、ほかの人には見せないような顔をしているからだろう。
 すごくかわい子ぶってるんだろうな、私。
 誰かに見られたら笑われちゃうくらい、精一杯、彼に好かれようとして。
「……寂しかったのかもしれない」
「え?」
「こんなふうに、なかなかふたりきりで会うことができなくて。ほら、週末は会えるけど……学内じゃ、見かけてもこんなふうに触れないしね」
 さらりと髪を弄られたかと思いきや、そのまま耳を指先で触れる。
 長い指。
 だけど、首筋をかすめられ、ぞくりと身体が震えそうになった。
「本当は、一緒に昼飯とか食べれたらな、とも思うんだけど……なかなかね。わがままだな、って思うよ。自分はこんなに弱かったのか、って」
「そんな! だって、その……私も、おんなじこと思ってて……」
「本当に?」
「はい」
 彼を見かけることができても、話しかけるのを躊躇してしまう。
 それは、私のほう……ううん、きっと私だけなんだと思ってた。
 意気地なしで、今なら! ってときでも、周りを気にしすぎて行動ができなくて。
 高校生じゃないんだから、今なら少しだけ許してもらえることもあるはずなのに、って自分に言い聞かせはするものの、やっぱり一歩踏み出せなかった。
 でも、私だけじゃなかったんだ。
 そう思ったら、胸の奥がきゅっと掴まれたようになる。
「じゃあ……月曜日、研究室にこない?」
「え? いい、んですか?」
「もちろん。あまり綺麗な部屋じゃないけど、一緒に昼飯食べようか」
「っ……嬉しい……!」
 心底から嬉しさが瞬間的に湧き、ぱっと笑顔になる。
 それを見た祐恭さんも、いつもみたいに柔らかく笑ってくれて……えへへ、嬉しい。
 どうしよう。お願いごと、叶っちゃった。
「あ、えと、じゃあ……約束ですよ?」
「……懐かしいな」
「えへへ」
 指きりげんまん。
 小指をそっと差し出すと、応えてくれながら彼が小さく笑った。
 これ、結構見かけるんだよね。
 どこでって……もちろん、我が家で。
 葉月とお兄ちゃんがよくやってるのを見るんだけど、最初見たときは確かに私も祐恭さんとおんなじことを思った。
 でも……ちょっとだけ、楽しそうだなぁって思ったのも正直なところ。
 もしかしたら、そのときの葉月の顔がすごくすごく嬉しそうだからかもしれない。
「じゃあ、月曜の12時……そうだな、20分くらいには戻れると思うから」
「わかりました」
 待ってますね。
 しっかりと小指を絡ませながらうなずくと、ふいに目の前がかげった。
 キス、される瞬間の顔が好き。
 ……ううん、正確にはすごくすごくどきりとする。
 あたたかい唇を感じながらゆっくり目を閉じると、ちょっと離れたところから聞きなれたエンジン音が聞こえてきた気がした。


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