「ああもぉ、なんか舌がおかしい」
「……大丈夫?」
「だいじょばないわよ。てか、アンタはなんでそんなにフツーのものばっか引くのかしら。もうちょっと祐恭センセに寄り添ってあげたって、バチ当たらないと思うわよ?」
「うぅ……そう言われても」
さっきから、絵里はずっとよく冷えたミネラルウォーターを飲んでいる。
これで何杯目だろう。
途中で珍しく炭酸を飲んでたけど、かれこれ4杯以上は飲んでる気がする。
この細い身体のいったいどこに、このお水は消えていくのかちょっと不思議だ。
「てか、純也も純也よね。なんでよりによって闇鍋なわけ? 馬鹿じゃないの?」
「いーだろ別に。なんつーか……ちょっとは刺激になるかな、と思ったんだから」
「刺激……」
「強すぎたかな。思い出してくれればーと思ったけど、やっぱりなかなかそんなドラマみたいにはいかないもんだね」
「……あ」
苦笑まじりの田代先生を見て、今日この会の趣旨をようやく理解した。
……そっか。
これ、私のために……ううん、私たちのために開いてくれたものだったんだ。
そう思ったら、ただ単純に楽しんでいただけの自分が、少し恥ずかしくなった。
でも、嬉しい気持ちと……もう半分は申し訳なさがあって。
絵里が注いだお水がグラスに入る様子を見ながら、唇が開く。
「えっと……私、もう別に思い出してもらいたい、とかそういう気持ちがないっていうか……」
「え?」
「その、今のままでもいいかなって思ってるんです。祐恭さんの隣にいられることに変わりはないから、だったら……今からまたひとつずつ思い出を作っていければそれで十分だ、って」
彼と一緒にいられるようになって、今が幸せなんだと思うことばかり。
過去は過去で、未来がどうなるかはわからない。
だから、“今”を精一杯後悔しないように、毎日をきちんと生きたいと思うようになった。
こう思えるようになったのは、あのことがあったから。
あんなに大きな変化がなければ、ぬくぬくと日々を過ごし、時間をただただ流し続けていた私のまま、気づくことなくいたはず。
後悔したくない。
“今”は“今”しかない。
同じような1日であっても、昨日とは何もかもが違い、同じ“今日”は二度と来ない。
そう気づいてから、自分なりに時間を大切に過ごすようになった。
今できることは今する。
明日できることも、なるべくなら今したい。
そうやって、時間の節約を自然とするようになっていた。
「……あの……私、何かヘンなこと言った、かな?」
そうだよね、と自分に言い聞かせるように言葉を反芻しかけていたら、絵里と田代先生が揃って少しだけ驚いたような顔をしていた。
……まずいこと、言ったのかな。もしかして。
でも、次の瞬間絵里が小さく吹き出し、けらけらと笑いながらうなずく。
「ほらみなさいよ。アンタと違うのよ羽織は。わかった?」
「ぁいて」
「ちゃんと前向いて歩いてるの。だから、外野は引っ込んでればいいってコトよ。ちゃーんと、ふたりはふたりの世界を作っていけてるんだから」
「あ、や、そんなつもりじゃ……!」
「いーのいーの。人の恋路の邪魔したら、蹴られるのよ?」
余計なことはしないの。
がぶがぶ、っとお水を飲み干した絵里が、田代先生の背中をいい音がするほど叩いてから笑った。
それを見て、田代先生も『そうだな』と笑う。
ああ、こんなふうにたくさんの人たちに気遣ってもらえるなんて、幸せだよね。私も……そして、祐恭さんも。
だって、何もかも変わってないんだもん。
笑い合えるのは、前も今も同じ。
「……っと。え?」
ふとあたりを見回すと、肝心の祐恭さんの姿がないことに気づいた。
トイレかな、って思ったんだけど……どうやら違うらしい。
私の視線に気づいてか、葉月がちょんちょんと指を向ける。
「……あ」
指さされた先には、ベランダがあった。
そして、手すりにもたれるようにして涼む、彼の姿も。
「大丈夫ですか?」
「ん? あ、ごめん。なんか、暑くて」
カラカラと小さな音を立てながら大きな掃き出し窓を開けると、すぐに彼が振り返った。
部屋の明かりを受けた彼の顔が、ほんのり赤いような気がする。
……気のせいかもしれないけど。
でも、表情はいつもより緩い感じだ。
「少し酔ったかな、と思って」
「そうなんですか?」
「うん。ちょっと調子に乗りすぎたかな」
ひとりごちながら笑う彼の隣に立ち、手すりに両手を置く。
ひんやりして心地いいのと、街中だけにまだ熱の残っている風とが、いかにも夏だと告げられているみたいだ。
「……さっき、さ」
「え?」
「その……ごめん。聞いてもいい?」
「どうぞ」
言いかけたものの口ごもり、視線が外れる。
あ、何か言われる。
まだ少ししか同じ時間を共有できてないけれど、バツの悪そうな顔をするときは決まって少しだけ核心に迫ったようなことを言われることが多いから、なんとなくそう思えた。
それはきっと、喜んでいいこと。
私に遠慮なんてしないで、もっとたくさん知ってほしいし、聞いてもらいたいと思ってるんだから。
たとえそれが、どんなことであろうと。
彼が“知りたい”と思えることは、私の中に答えがあるはずだろうから。
「前も、って……いつのこと?」
「あ……」
一瞬言われたことが理解できなかったけれど、すぐに思いあたった。
きっと、その瞬間の顔を見られたんだ。
だけど彼は、何か言いかけた口を閉じ、苦笑へ変える。
「そのとき俺はどう反応したのかな、って思ったんだけど」
彼の髪を、風がさらりと撫でる。
月明かりよりもっと近くの外灯のせいで、やけに白く映ったのが印象的だった。
「え、と……すごく嫌がってました」
「その理由は、わかるかな」
「……トマト、嫌いですもんね?」
「だね」
小さく笑ってうなずいたのを見て、なぜか胸が少しだけ痛んだ。
なんでだろう。
こうして“彼”の話をするとき、決まって祐恭さんが見せる顔があるんだけど、その表情を見るたびにいつも苦しくなる。
まるで、違う誰かの話をしているみたいな錯角に陥る。
……やだな。
そんな顔してほしくないのに。
でも、彼にとってはそうなのかもしれない。
自分であっても記憶にない部分ということは、違う誰かの話を聞いているのと同じことになるのかもしれない。
モトカレとか、そんなんじゃないのに。
なのに、どこか寂しそうな表情に見えるから、いつもフクザツな気分になるんだよね。
「……そっか」
「あ。あのっ! でも、あの……!」
「ごめん」
「……え……?」
「ムリに笑わせた」
「っ……」
とても優しい顔だった。
柔らかく笑って……なのに、ごめん、って、困ったように笑ったの。
そんな顔されたら、私じゃなくても申し訳ない気持ちになるはず。
瞬間的に泣いてしまいそうになり、慌てて首を振るしかできなかった。
だって、疑問系じゃなかったのに、そう聞こえたんだもん。
ムリに笑ってくれたのは俺のせい? って。まるでそう言ってるみたいに。
なのに……違う、ってすぐ言えなかった。
「そんなんじゃ……」
慌てて作って笑ったのがいけなかったのかな。
彼に気遣われ、どうしようもなく申し訳ない気持ちになる。
彼が持っていたビールの缶が、少しだけ音を立てた。
くしゃりとひねられたわけじゃないけれど、乾いた音が耳に残る。
ほんのひとくち。
呷るほどもなく口に含んだらしい彼の喉元までしか視線が上がらず、そんな自分が悔しい。
「っ……」
「ごめん」
ふいに口づけられ、独特の香りと苦味がわずかに伝う。
ちょっとだけ驚いて目を丸くしたのがわかったらしく、離れぎわに彼が少しだけ申し訳なさそうな顔を見せた。
「前の俺は、強がったりしなかったんだね」
「え……?」
「トマト。嫌いなんだよな……ダメなんだ、あの青臭い感じ。加熱されたら平気なんて人間もいるけど、余計トマト臭さが強まって、俺は好きじゃない」
はぁ、と息をついた彼が手すりにもたれた。
両手で缶を弄り、わずかにへこませる。
その横顔は、いつも見ているスマートさが少しだけ消え、まるで小さな男の子みたいにも見えた。
「……わかった。じゃあ、今度からはヘンにカッコつけないようにするよ」
苦笑交じりに見られ、改めて驚いた。
だって……なんだろう、なんか、違うんだもん。
いつもはあんなにカッコいいのに、嫌いなモノのせいで悩んでるみたいな彼が、あまりにもかわいくて。
「もぉ……嫌いなものは、嫌いって言ってください」
「いや、なんか……かっこ悪いな、と思って」
「っ……ふ……あはは、もぉ……やだ、祐恭さん。……かわいいです」
「……かわいくはないと思うけど」
「ううん、とってもかわいいですよ?」
ほんの少しだけ不服そうな顔をされたせいで、さっきの顔がついつい強調されて蘇る。
だって、なんだかもう本当にかわいかったんだもん。
ギャップっていうのかな。
普段スマートに接してくれる人だけに、まるで男の子みたいな口ぶりがちょっとだけおかしかった。
「あ……」
「そういう言葉は、俺が言うべきでしょ」
くすくす笑っていたら、大きな手のひらが肩を寄せた。
わずかに香るアルコールの香りに、どきりとする。
……もしかして酔ってる、のかな。
うん、かもしれない。
だって、心なしかいつもより体温が高い気もする。
「……かわいいよ。いつも」
「や、あの……やだもぉ……そんな顔で見られたら、もぅ……どきどきするじゃないですか」
「してくれていいのに」
「っ……祐恭さん!」
耳元で囁かれ、ぞくりと身体が反応する。
小さく声が漏れてしまいそうになり、慌てて顔をそらすのが精一杯。
どきどきするだけじゃ済まない。
絶対今、ヘンな顔をしてるし、赤くなってるに違いないから。
「う、祐恭さん……っ……あの、わた――……っきゃあ!?」
「……ち。バレたか」
「お前、見すぎだろ」
「何よ。そーゆー純也だっていい勝負じゃない」
「いや、久しぶりだなーと思って」
「だよねー! わかるわかる」
「わっ……わかるわかるじゃないでしょっ!!」
かぁっと顔が熱くなるのを感じた。
だって、だって!
窓からばっちり首を出しながら、絵里と田代先生がまるで『ぐっじょぶ』と言わんばかりに親指を立てたんだもん。
しかも、それを見た祐恭さんは笑い始めるし。
うぅう……なんだか、ものすごく恥ずかしいんですけれど!
「うん。やっぱり祐恭君はそうじゃなくちゃ」
「そーそ。それでこそ祐恭センセよね」
「それは……どうもと言うべきなのか、それとももっと酷かったのか……いろいろ想像しますね」
「まぁ、そのあたりはご想像にお任せってことで」
「そうね。ま、しいて言えばもっといろいろどーかと思うようなことも平気で――」
「絵里っ!!」
苦笑まじりに笑う祐恭さんには、とてもじゃないけれど聞かせるわけには――……ていうか、聞かれたくない、のかな……もしかして。
それはさっきも感じた“違う誰か”のことみたいだからっていう気持ちと同じなのか、それとも単純に今の彼は今のままでいてほしいという願望からなのか、どっちだと言われてもそれはわからないけれど。
……うぅ。
『大丈夫だよ』なんてなだめられて、よりいっそうどうしたらいいかわからない気分なんですけれど。私。
「てか、たっきゅんと葉月ちゃんはなんで参加しないかなー。こんなにおもしろいの、めったに見られないですよ?」
「いや、別に見たかねーし。ンなベったべたしてーなら、よそでやれよ。馬鹿が」
「もう、たーくん。そんなふうに言わなくてもいいでしょう? でも……ふふ。ごちそうさま」
「うっ……葉月っ……!」
にっこり笑って肩をすくめられ、言葉で言われるよりももっとずっと恥ずかしい感じがするのはなんでかな。
かぁっと身体まで一瞬で熱くなり、ぱくぱくと唇が動く。
……うぅ、恥ずかしい。
お兄ちゃんの前っていうのが、もっと恥ずかしい。
このまま倒れてしまえたらどれだけいいだろう……なんて不謹慎なことが一瞬よぎり、改めて今の自分はダメだと思った。
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