「ごめんね、待たせちゃって」
「とんでもない! 大丈夫です」
 月曜日の2時限目が終わってすぐ、いてもたってもいられなくて、足早にここ理学1号館へ向かった。
 だって、今日は待ちに待った……どころじゃない。
 ずっとずっと“そうなったらいいな”って思っていたことが、実現する日なんだもん。
 ただ単に、一緒にお昼を食べられるだけじゃない。
 彼の研究室、ふたりきりで……というのが、何よりとても嬉しい。
 どうしよう。
 今日、朝からずっとにまにましてるんだよね。私。
 葉月に指摘されたあと、お兄ちゃんに『気色悪い』と言われ、朝から喧嘩してきたけどそれももうチャラでいい。
 だって、講義を終えたばかりできっと忙しかっただろう祐恭さんが、息を切らせながら研究室へ戻ってきてくれたんだから。
「…………」
 『専任講師 瀬尋祐恭』
 きらりと光るシルバーのプレートに刻まれている名前を見るたび、ついつい指でなぞりたくなる。
 さすがに今それをしたら、間違いなく怪しい子でしかないからやめておくけれど、なんかこう……嬉しいんだもん。
 まだ、片手ほどしかきたことのない部屋。
 いわゆる、学内での彼のプライベートルーム。
 前回入ったのは――……そう、彼が私を受け入れてくれたあの日。
 すごく嬉しかったし、今でもひとつひとつをはっきり覚えている。
 声も、表情も、仕草も……体温も。
 パタン、と小さな音とともに閉まったドアを見ながら、ついあの日のことが浮かんでまた頬が緩んだ。
「コーヒーしかないんだけど、いい? ごめん、お茶とか用意しておけばよかったんだけど」
「大丈夫です! あ、私やりますよ」
「いいよ、そんな。コーヒーくらいなら、淹れられるから」
「……ごちそうさまです」
 仕切りの手前にあるテーブルへバッグを置き、ついたての向こうにいる彼の隣へ並ぶ。
 インスタントとはいえ、コーヒーの香りは独特。
 なんだかこうオトナっぽいんだよね、なんて言ったら笑われるだろうけど、ブラックじゃとてもじゃないけど飲めないんだもん。
 苦くてムリ。
 そういえば、お兄ちゃんもコーヒーはあんまりブラックで飲んでるところを見ないんだよね。
 葉月が差し出すのはいつも、ミルクとお砂糖たっぷりめのカフェオレ……というより、ミルクコーヒーだから。
「祐恭さんって、几帳面ですよね」
「……俺が?」
「だって、ここにお邪魔するとき、いつもキレイになってるんですもん」
 一瞬お湯を注ぐ手を止めた彼が、なぜか笑った。
 そして、スプーンでカップをかきまぜながら、改めて私を見つめる。
「掃除なんて、滅多にしないよ」
「そうなんですか?」
「基本、ほこりで困りはしないからね。……でもまぁ、がんばって掃除はしたよ? 今回は」
「今回は……?」
「うん。かわいい彼女が遊びにくる、ってわかってるからね。なにごとも、第一印象が肝心でしょ?」
 どことなくいたずらっぽい顔をした彼が、テーブルへカップをふたつ運んだ。
 ……かわいい彼女、って言われた。
 彼の背中を見たまま、ついつい今のセリフを心の中で復唱してしまい、またにやけそうになる。
 ていうか、にやけたところをばっちり見られて、さすがにバツが悪い。
「ほら、かわいい」
「っ……うぅ……恥ずかしいんですけど」
「どうして? ホントのことだし、俺がそう思ってるんだから間違いないよ」
「…………うー……」
 どうしよう。顔どころか、身体全部が赤い気がするんですけど。
「どうぞ。座って」
「ありがとうございます。……あ。えと、じゃあ……これを」
「すごい……え、こんなに作ってくれたの?」
「や、あの、そんな大したものは作れてないので、見てから言ってもらえないと……!」
「いや、十分すぎるよ。……うわ、嬉しいな。俺、好きなんだ。羽織の味付け」
「っ……」
「ありがとう」
「そ、んな……私こそ、そう言ってもらえて嬉しいです」
 心臓が、きゅうっとなりそう。
 嬉しい言葉をたくさんもらえて、とてつもなく幸せ。
 ていうか、お腹いっぱいな感じ。
 テーブルへ、ちょっとしたピクニックにも行けそうなランチボックスを取り出しながらも、ついつい気持ちがいっぱいすぎて『よかったら、全部食べていただけると』なんて思いも湧き始める。
 まさか、こんなに喜んでもらえるなんて。
 昨日の夜の思いつきとはいえ、提案してみて本当によかった。
 『よかったら、お弁当作らせてもらえませんか?』
 夜、寝る前に彼へ送ったメールの返事がくるまで、すごくどきどきしてたの。
 音のない部屋だから、自分の鼓動しか聞こえないんだもん。
 心臓ばくばくなんて、いつぶりかな。
 もしかしたら、受験のときもこんなに緊張しなかったかもしれない。
「うわ……すごいな。作るの大変だったんじゃない?」
「そんなことないですよー。……あの、全然、大したおかずじゃ……」
「とんでもない。全部うまそう」
「よかったです」
 角を挟んで座りながら、れっつおーぷん!
 お弁当って、なんで特有の匂いがするのかな。
 一瞬、中学生のころまでの運動会のお弁当を思い出し、我ながら苦笑が漏れる。
「じゃあ、早速。いただきます」
「どうぞ。召しあがってください」
 お箸を持った彼が、私に向かって軽く頭を下げてくれた。
 恐縮です、と心の中だけで思いながら、自分は彼が淹れてくれたコーヒーをひとくち。
 ……おいしい。
 でも、個人的にはもうあと1本くらい、スティックシュガーが入っていても問題ない甘さ。
 とはいえ、飲めないわけじゃないからこのまま。
 彼の味付けを、私もやっぱり楽しみたい。
「……あー、うまい」
「ホントですか? よかったぁ」
「うん、すごいうまい。なんか、やっぱり手作りでしか出せない味ってあるよね。学食と違って」
「ですか?」
「学食もうまいことはうまいんだけど、なんかこう、手作りのほうが柔らかいっていうか……優しい、って言ったほうがいいかな。ほっとするんだよね。食べると」
「っ……もぉ……なんか、最高の褒め言葉です。それ」
「そう? 俺としては、もっと褒めたいんだけど」
「うぇ!? い、いいですもう! 十分ですよぅ」
 これ以上そんなにこやかに褒められたら、うまく息が吸えなくなります。
 クーラーが効いていて決して暑くないはずなのに、ついつい両手で自身を仰ぐ。
 なんていうか、私の周りだけ気温が急上昇してるかもしれない。
 手の甲でほっぺたを触ってみると、やっぱり熱くなっていたし。
「……えへへ」
 ひとつひとつを食べるたび、きちんと感想を言ってくれるのがとても嬉しい。
 でも、今日は朝から早起きしたんです、なんて言ったら笑われちゃうかな。
 だって、なんだか眠れなかったんだもん。
 目覚ましが鳴る前に起きるなんて、いつ以来だろう。
 葉月よりも先に台所へ立っていたら、しっかり着替えてきた彼女に驚かれた。
 今日のお弁当と朝ごはん当番は、私が半ば強引にいただいたようなもの。
 いつも葉月が詰めていくお弁当箱は、もちろん自分と同じおかず。
 ううん、正確にはあとひとり。
 祐恭さんも、今日は同じお弁当だもんね。
「……マズイな」
「え?」
「ごめん、俺ひとりで食べつくすかも」
 かわいすぎるかな、とは思いながらもついクセで作ってしまった、たこさんウィンナー。
 黒塗りのお箸でそれをつまんだ彼が、あまりにも真面目な顔で言うから、ついつい吹き出しそうになった。


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