これを最悪と呼ばずになんと呼べばいいんだ。
 きっと今なら、不機嫌な目つきは孝之と同程度というところか。
 いつもは何も感じない、駐車場から理学本館へのアスファルトの道も、やたら照り返しがきつく感じ、あたりのガラスの反射がわずらわしくてたまらなかった。
「おはようございます」
「っ……」
「? えと……」
「いやっ……その、ごめん。ちょっと……なんでもないんだけど」
 デジャヴ、まさにそれ。
 ひょっこりと図書館の角から姿を見せた羽織に、思わずのけぞったところをばっちり見られた。
 言うまでもなく、ばつが悪い。
 というかそもそも、彼女は何も悪くないし、こんな顔をさせてしまったこと自体が問題だと思うのだが、昨夜見た夢とあまりに酷似しすぎていて、まだ夢でも見ているのかと一瞬錯覚した。
「…………」
「…………」
 並んで歩きながらも、何も話題が考えつかなかった。
 本当は、今週末何か予定があるかとか、それこそもっと直近のどこかの昼休みは都合つくかとか、聞けばよかったのに。
 なのに――……ついつい、夢の中であらぬことをしでかした自分が気恥ずかしくもあり、そして妙な罪悪感めいたものもあるせいで、視線さえ彼女から逸れていた。
「……えっと……ヘンなこと聞いてもいいですか?」
「え?」
「昨日、何か嫌なこととか……起きませんでした?」
「な……」
 どうしてそれを。
 答えるより前に足を止め、目を丸くした俺を見た彼女が、小さく『やっぱり』と続ける。
「今までも、祐恭さん……そうだったんです。運がよくないというか、本当についてないというか……だから、昨日の朝もしかしてって思ったんですけれど……」
 彼女に対して何も言っていないにもかかわらず、どんどんと紐解かれてしまいそうな感覚に、正直焦りがあった。
 昨日のラスト。
 いや、正確には例のDVDのことが、彼女にバレてしまったんじゃないかという不安がふつふつと湧き上がる。
 アレが俺の根底にあるとしたら、どうすればいいんだ。
 教師と生徒。
 少なくとも俺と彼女は、去年までその関係にあった。
 あんなDVDが厳重に……と呼ぶにはぎこちないが、それでも、敢えて隠そうとしまわれていたのは事実で。
 ということは、“俺”が少なからずアレを封印したがったのは間違いないだろう。
 よもや、あれのせいで俺が彼女に手を出しのだとしたら、とんでもないことだ。
 それこそ、今のこの関係が覆ってしまうほどに。
 ……性別は逆だけど、ね。
 男子高校生が、女性教師に手を出すモノ。
 とはいえ、関係性がまったくないとは言い切れない。
 もしかして……いやしかし。
 想像できることを口にしていいものなのか………………いや、やはりアレは俺の中だけにとどめておくべきだろう。
 今日、帰宅してすべきことがまず決まった。
 アレをきちんと処分しなければ。
 だが彼女は、思いもよらないことを口にした。

「がんばれの日、だそうです」

「…………」
「…………」
「……がん……ばれ?」
「はい」
 唐突なセリフに、眉が寄った。
 そういえば最近、誰かに『がんばれ』と言われたことはないな、なんて余計なことも浮かぶ。
「昨日の朝、ニュースで見たんですけれど……8月11日は『がんばれの日』だ、と……アナウンサーの人が」
「……がんばれの日……」
 それはアレだろうか。
 いわゆる、体育の日などのように国が制定したモノではなく、民間的なモノの類か。
 そういえば、365日すべてが何らかの記念日になっている、と以前聞いたことがある。
 ネクタイの日、バラの日、ごはんの日。
 そういえば学生のころ、とある菓子の日には授業中であっても11時11分になるとやらかすヤツが1人はいた。
「以前から気になってたんですけれど……祐恭さん、そういうことが結構多かったんですよ」
「……俺?」
「はい。去年の話ですけれど……たしか、ボーイスカウトの日とかにも、やっぱり『ツイてない』って言ってましたから」
 ボーイスカウト。
 自身はまったく経験はないのだが、活動内容はなんとなく知っている。
 ということは……アレか。
 昨日1日に起きた怒涛のイベントフラグは、どれもこれも“がんばれの日”にちなんだものだ、と。
「っ……」
 なんだそれは……!! という思いこそ起きれど、いやしかしと思い直す自分もいる。
 そういえば昔から、暦上特に運の悪い日には、嫌なことが必ず朝から起きていた。
 ……黒日、恐ろしい日だ。
 普段、占いの類はまったく信じていないのだが、この日だけは気をつけるようにしていたことを思い出す。
「じゃあ、あのDVDも……」
「え?」
「っ……」
 昨日のトドメをつい口にしてしまい、当然のように彼女が反応した。
 さいわい、ほかに人はいない。
 だがしかし、あの事実を彼女に伝えていいものだろうか。
 それとも、あそこまで恐らくは“俺自身”が隠しとおしていたのだから、ここは黙っていたほうがいいのか――……と逡巡したものの、『ああそうか』と思い直す。
 あれをしたのは過去の自分であり、俺じゃない。
 少なくとも今の俺は、彼女に好いてもらえるだけのことをすることができ、そして、今の彼女と結ばれることができた。
 ということは――……過去の俺の汚点を彼女に伝えたところで、何も支障ないのでは……?
 そう結論づいた途端、躊躇なく昨夜のアレについて話し始めていた。
「実は……昨日DVDのデッキ周りを片付けてたんだけど……そのとき、とんでもないモノを見つけたんだ」
「とんでもないもの……ですか?」
「……うん。恐らく、優人か誰かにもらったんだろうけれど…………その……高校教師めいた、シロモノというか」
 さすがにまっすぐ彼女を見たまま口には出せず、視線を逸らす。
 だがなぜか、言葉の続きを言う前にちらりと彼女を見ると、俺以上に口元をひきつらせていた。
「……羽織?」
「ひゃい!? ふあ、え、あ、ちっ……違うんです! あ、あれはっ……あれは私じゃなくって、あの、絵里がっ!」
「え……?」
「ち、ちち、違うんです!」
「もしかして……アレは俺のじゃなくて、羽織――」
「誤解ですーー!!」
 ぶんぶんと両手を耳に当てたまま首を振る彼女の頬は、明らかに染まっていて。
 そういう顔も十分かわいいけど、なんて言うかわりについ顔が緩んだ。
「待った」
「ッ……ひぁ……」
 小走りで離れようとした彼女の後ろ手を取り、引き寄せる。
 背中から抱きとめるかたちになり、鼻先で彼女の甘い香りがした。
「……その話も含めて……ちょっと、うちへこない?」
「っ……」
「ひとりで夕飯とか、寂しくてたまらないんだけど」
 ああ、しまった。
 ガラにもない本音が、ぽろりとこぼれた。
 返事こそないままだが、恐らく彼女に聞かれているだろう。
 ……まいったな。
 顔を見たいのに、見にくい状況にした。
「…………」
「っ……な、に?」
「…………嬉しい」
 うわ。
 おずおずと腕に触れ、振り返った彼女の顔があまりにもかわいくて。
 “嬉しい”の言葉どおりの表情に、口が開く。
 ……朝なんですが、まだ。
 さすがに、夢に見た状況をなぞることなどできず、だが半面で惜しいと思う自分がいるのも事実。
 ああ、今が夕方だったらよかったのに。
 そうすれば間違いなく、今度じゃなくて今からの約束をムリヤリにでもこじつけた。
「……我慢」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
 うっかりキスしてしまいそうになったが、人はいずとも公衆だと認知しなおす。
 ましてや、ただでさえ触れたい相手。
 キスなど、歯止めが利かないスイッチにもほどがある。
「……えへへ」
 身体を離し、代わりに右手を繋ぐ。
 絡まる指先が、妙に愛しくて。
 だけど、ほんの少し気恥ずかしくて。
 歩きながら思わず目を閉じたのは、眩しい光のせいにしておく。


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