「……最悪だ」
 ひとりごとがこれほど出ることもそうだが、この、じっとりと暑い室内が不快すぎてつらい。
 風呂上りにクーラーでしっかり冷えたリビングで作業でも……と思ってはいたんだ、さっきまでは。
 だが、すべてはエアコンのリモコンの電池切れという不測の事態で打ち砕かれた。
 今朝まではまったく問題なかったのに。
 どうして、今なんだ。
 しかも、そう都合よく電池の買い置きなどあるはずもなく。
 コンビニまで行けばいいのだろうが、それすら面倒だと判断してしまい、結局は窓を開けて最低限の風の流れを確保するしかなかった。
 ……こんな蒸し暑い中、はたして眠れるのか。
 ぬるいベッドを考えただけで、疲労感が増す。
「…………」
 本当は、違うことをする予定だった。
 が、こんな湿度も温度も高い部屋でパソコンを起動したら、どうなるかは目に見えている。
 それどころか、これほどの面倒なことが立て続けに起きている本日、ヘタしたらデータがすべて吹き飛ぶ可能性がなきにしもあらずで。
 これでパソコンが壊れたら、泣くかもしれない。
 あまりにもテンションが落ちすぎている今、ふとそんな恐怖さえ感じた。
 ソファではなく、せめて少しでも涼しい場所をと選んで座ったフローリングから、テレビ台まで中途半端な格好で向かう。
 いくつものDVDケース。
 そういえば、ここもそろそろ片付ける必要があるかもしれない。
 昔、それこそ学生のころにハマって見ていたシリーズものの海外ドラマから、今では名前も聞かなくなった洋画、そして車関係のものなど、テレビ下の雑多な空間。
 うっすら埃も積もっており、少なくとも年末前に一度整理の必要性を感じた。
「……ん?」
 手前からいくつかをまとめて外へ出していたら、まるで封じ込めてでもあったかのように、最奥でひっそりたたずむモノが見えた。
 いかにも“異物”と判断してしまうような、梱包具合。
 エアパッキンにガムテープで巻かれている……不審物そのものだな。
 当然身にも記憶にも覚えがないが、こんないでたちということは、過去の自分が不要だと判断したものなんだろう。
 だが、ここまで厳重管理されると中身も当然気になるわけで。
「…………」
 少しだけ粘着の落ちたガムテープをはがし、確認作業に移る。
 出てきたのは、どこにでもありそうなただの無機質なDVD−R。
 ……これはなんだ。
 データであればこんな場所に置いてないだろうから、恐らくは映像媒体なんだろう。
 が、このテのディスクでふと思い浮かぶのは、どうしたって性的なソレ。
 優人や孝之やらがザラザラ持っていそうで、どうしたって眉が寄る。
 とはいえ、さすがに中身を確認せず処分というのも若干気が引ける。
 あとあとになって『アレどうした?』なんて誰かに言われても困るし。
「…………」
 誰に対する後ろめたさからか、俺以外の人間がいるはずはないのだが、つい後ろを振り返っていた。
 大丈夫。今なら何が起きても、問題にはならない。
 怪しげなモノだろうと、あからさまなモノだろうと、特に問題になるはずがない。
 俺が何より恐れているのは、彼女にこの姿を見られて幻滅されることだけ。
 だが幸か不幸か、今、そばに彼女はいない。
「…………」
 デッキにDVDを入れ、リモコンを操作する。
 が、これこそがきっとすべての間違いだった。
 もしこのときの俺を数分未来の俺が止めることができたならば、リモコンの電池を抜いてエアコンに使え、と教えてやればよかったのに。


「おはようございます」
「ッ……」
 にこやかにあいさつされた。
 それは、とても嬉しいことだし、素直に喜んでいいはずなのに、今朝だけはどうもぎこちなくなる。
 理由なんてモノは明らか。
 呪うなら昨夜の自分をそうすればいい。
 ……いや、そもそもの元凶である“俺を”か。
「……大丈夫ですか? なんだか、顔色があまり……」
「いや、全然、大丈夫。……気にしないで」
 心配そうな羽織を正面から見ることができず、かぶりを振って視線を斜め下へ。
 まだ1時限目も始まっていない本当の“朝”にもかかわらず、彼女とこうして会えたことは何よりの幸せであるべきなのに、後ろめたさというよりは……申し訳なさが先に立ち、どうしても彼女の優しさが眩しすぎてたまらない。
 ごめん、本当に。
 そう口に出したら、きっとすべてが壊れる。
 だが――……どうしたらいい。
 すべてを知ってしまった今、彼女に対しての俺はずっと真面目で誠実な関係を望んでいなかった、とわかってしまったのに。
「……もしかして……あのことが原因ですか?」
「ッ……え……?」
 顎元に指を置いた彼女が、不安そうな顔を見せた。
 いや、まさかそんなはずはない。
 彼女の言う“あのこと”と、昨夜の“アレ”が一致するはずない。
 そんなこと、あってたまるか。
 だが、俺が黙ったままなのを違う意味に捉えたのか、彼女は足を止め俺を見上げた。
「私が昨日……拒んだから……」
「な……っ」
 うる、と俺を見つめている瞳がじんわり潤んだ。
 わずかに唇を開いたこのあまりにも艶やかな表情に、唾を飲み込む。
「ごめんなさい……祐恭さんと、せっかくふたりきりになれたのに……」
「いや、それは違う、から。別にそんなんじゃ――」
「けどっ……私もちゃんと言わなかったからいけないんです。だって、本当は……本当は、すごく嬉しかったんですもん」
「っ……」
 そっ、と音も立てずに、彼女が俺の右手を包む。
 温かな両手から、まるで脈が伝わってくるかのような気にもなる。
 とくん、とくん。
 規則正しい拍動が、彼女の中にも見えた。
「……祐恭さん」
 紡がれる名前が、いつもとは違う。
 甘い響きが頭から全身へと伝わり、ごくりと喉が鳴る。
 まだ朝。
 いや、時間は関係ないだろう。
 今、目の前に彼女がいる事実。
 それだけで十分だ。
「ん……っ」
 指先で頬に触れると、たったそれだけのことなのに、敏感な反応を見せた。
 吐息が漏れる。甘く、響く。
 いとおしそうに、ねだるかのように見られ、気づいたら口づけていた。
 柔らかく、確かに自分を受け入れてくれる心地よさ。
 反応を返しながら、なおも欲しがるかのように彼女は背中へと手を回す。
「……部屋へ行こうか」
「ん……」
 耳元で囁くと、くすぐったように身をよじりながらも、確かに頷いてくれた。
 ふわりと髪が動き、甘く香る。

 欲しかった、ずっと。

 彼女に言ってもらいたかった言葉を聞くことができて、昨夜のことなど当然のように吹き飛んでいた。
理学本館エレベーターへ乗り込み、人気のない廊下を進む。
 その間もずっと彼女は俺へ寄り添い、とてもしあわせそうな顔を見せてくれていた。
「……ん、ぅ……」
 研究室へ入ると同時に、彼女を引き寄せ口づける。
 柔らかな唇の感触、漏れる吐息、何もかもがいとおしくてたまらない。
 時間なんて関係ないな、当然だ。
 今、欲しかった彼女が腕の中にいる。
 この状況で考えるべきは、それ以外のなにものでもない。
「ぁ……ど、しよ……」
「……ん?」
「私……へんに、なっちゃうかも……」
「っ……」
 白いブラウスをたくしあげるように、素肌に手のひらを滑らせた途端、彼女が甘く喘いだ。
 滑らかな肌の感触もさることながら、この、目の前の彼女の表情が何よりも甘美で。
「んんっ……ふ……」
 ドアへもたれさせながら、強引に口づけていた。
 何度も、何度も。
 歯列をなぞり、唇を吸い、舌をからめる。
 ふわりと香る彼女の甘い香りが鼻先をかすめるせいか、やけに彼女自身が甘く感じられた。
「あぁ……だ、めぇ……祐恭さぁ、ん……っ」
 下着をずらし、指先で胸の先をつまびいた途端、ひくん、と身体全体を震わせた。
 たちまち変わった声が、淫らで。
 だが、何よりも“俺のせい”でそうなったことに、ひどく満足感を得る。
 潤んだ瞳、しどけなく開いた唇、何もかもが淫靡で甘美。

 欲しかった、ずっと。

 ぺろりと首筋を舐めてから耳元へ囁くと、身体を震わせた彼女も俺の背へと腕を回した。
「ん……祐恭さん……」
 甘く、俺を呼ぶ彼女が、上目遣いで視線を合わせてきた。
 わずかに染まった頬のせいで、彼女自身になんともいえない雰囲気を帯びさせる。
「……きて……」
「っ……」
 一度視線を外したものの、まじまじと見つめながら、しっかりと唇が言葉をつむぐ。
 吐息交じりのセリフは、いかにもすぎて。
 思わず、喉が鳴った。
「いい……よね?」
「……ん」
 疑問ではなく、念押し。
 ここまできたんだ、当然だろう。
 ちゅ、と頬へ口づけると、心底嬉しそうに彼女が笑った。

「起きてください」

「……え?」
「起きましょう?」
「………………ん?」
 にっこり微笑んだ彼女が、目の前でそうはっきり口にした。
 だが、意味がわからずどころか、今の状況とまったくそぐわないセリフすぎて、眉が寄る。
 何を意図してのものなのか、さっぱりわからない。
 しかし、そんな俺とは異なり、頬へ触れた彼女は首をかしげる。
「私、立ったままはちょっと……」
「……え」
 てへ、と困ったように笑いながら、彼女が抱きついてきた。
 苦しいほどに抱きしめられ、わずかではあるが、背中が痛む。
 ……いや、おかしいだろう。
 いつからこれほどの力を持つように――……って、そうじゃなくて。
 この、痛みはなんだ。
 軋むように、ずきずきと明らかに痛みを帯びる背中。というか、わき腹というか。
 ……おかしい。これは――……。
「ッ……」
 目を開けると、すぐ目の前にテーブルの足が見えた。
 一瞬、異様な光景すぎて認知が遅れたが、間違いない、これはテーブルだ。
 リビングにある、あのガラステーブル。
「……って……」
 床に手をついて起き上がると、恐ろしいほどの汗をかいているのに気づいた。
 それだけじゃない。
 妙な格好でもしていたのか、背中と腰がひどく痛む。
 開け放したままだった窓からは白い光が伸び、同時に熱も室内へと送り込んでいた。
「…………」
 付けっぱなし、何もかも。
 煌々と照明とテレビがついており、画面左上には『5:13』という数字も見える。
 朝。
 ああ、そうか。今が朝か。
 それじゃあ何か。さっきまでのアレはすべて――……。
「………………」
 元来、寝起きは機嫌がよくない。
 自分のことは、誰よりも自分が把握している。
 マンションの周りに木はないはずなのに、やたらと響いてくるセミの鳴き声を聞きながら、1点を見つめたまま危うくリモコンを握りつぶすところだった。
 

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