「……はー……」
 これは一体、本日何度目のため息だろう。
 カウントしてくれている律儀な人間がいたら、聞いてみたいものだとさえ思うようになったあたり、そろそろマズいなと本気で思った。
 ようやくの我が家。
 まさに、ようやく、だ。
 駐車しようとしたら白猫がど真ん中におり、まるでそこにマタタビでも塗られているんじゃないかと思えるほどの執着を示した。
 妙な日だ、なんて悠長な感想では済ませないほどの奇妙さを覚えつつエントランスに向かうと、管理人の男性が今にも泣きそうな顔で必死に床と睨めっこをしていて、何事かとたずねれば『昨日新調したばかりのコンタクトがないんです』。
 さすがに、声を掛けた手前『それじゃ』なんて言えるはずもなく手伝いを申し出て、20分後にようやく見つかった――……ものの、なぜかエレベーター前には柵。
 『すみません、点検が重なってしまって……』と言われたら、それ以上俺にはどうすることもできず、結局階段で上がってきて、の今。
 まさにあれは、とどめのひとことだった。
「……疲れた」
 ドアへ鍵を差し込みながら、うっかり漏れたひとりごとは危険度が高いことを示す。
 普段、めったにひとりごとは出ないタチだ。
 お袋なんかは、テレビを見ながら相槌をうち、楽しそうに笑い、つっこみまで入れていたが、アレは今でも続いているのだろうか。
 と、どうでもいいことまで考える始末。
 今日の自分は本当に、手に負えない。
「…………」
 明かりもつけずにリビングまで壁伝いで行き、その場に鞄を置く。
 もう、疲れた。いろいろ。
 ここまで精神的に疲れると、いっそここで寝てしまってもいいとさえ思う。
 ……家が暗いのが、こんなにツラいと思わなかった。
 ひとり暮らしなのだから、当然誰かがいるはずもなく、真っ暗で当たり前だ。
 リビングに入っても当然、むっとした居心地の悪い空気が漂っているだけで、俺が求める涼しさと快適さは皆無。
 それどころか、日も落ちて相当経っているにもかかわらず、何もせずにいるのにじっとりと汗すらかく。
 夏の夜は嫌いじゃない。
 が、日中ずっと閉め切っていた室内ほど、息苦しく不快度の高いものもない。
「…………ッ……くそ」
 仕方なく立ち上がり、窓まで向かう。
 途中で、テーブルに足をぶつけた。
 普段なら、明かりなどつけずとも位置がわかるのに、今日はダメだ。
 いろいろな機能が、この時点ですでに麻痺している。
「……あっつ……」
 期待したのは涼しい風。
 だが、そうそうこの場所で俺が欲しい風など吹いてきたことはない。
 ましてや、今日は雨も降っていないのだから、窓を開けたところで吹き込むのは熱風以外の何ものでもないとわかっていたはずなのに。
 ……期待するから、つらいんだ。
 何もかも。
 そうわかっているはずなのに、どうしても欲しいと思ってしまった。
「…………」
 キスしたいとか、抱きしめたいとか、それ以上のコトをしたいと思うのは当然と言っていいのか。
 いいよな。
 ……欲しい、と思ったのは今日が初めてじゃないんだから。
 ずっとずっとそうだった。
 彼女が欲しくて、我慢を……していた、と言えばまだ格好いいか。
 実際には、どこまで踏み込んでいいのか悩んで、戸惑っていたのもある。
 彼女に求めてもらえたらどれだけいいか、と思ったこともある。
 ……格好悪いな。
 欲しくてほしくてたまらないのに、自分から動かず彼女に求めてほしいなんて。
 ずるい。情けない。卑怯。
 すべて当てはまる、とんだ意気地なしだ。
「……は」
 意気地がない、か。
 まるで子どもだな、俺は。
 窓を開けたままフローリングに足を投げて座り、両手を後ろにつく。
 ときおり吹き込む風は、べたりと重い。
 それでも、じわりと汗ばんだ背中は多少涼しさを覚える。
 時はすでに23時を回っている。
 彼女は……寝てる、だろうな。
 会いたいし、声だって聞きたい。
 本当の願いがそうじゃないのもわかってる。
 触れたい、欲しい。
 どこまで求めていい?
「あー……くそ」
 昼間感じた彼女の柔らかさと、香りと、心地よさとがフラッシュバックして、無性に悔しい。
 大き目にひとりごちて両腕も投げると、ぬるいフローリングが心地悪く身体を受け止めた。


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