「……はー」
大学の図書館の1階部分は学生会館になっているためか、3時限目が始まった今も学生の姿がかなり見られた。
ちょっとしたカフェと生協、自販機が並んでおり、自分と同じようにベンチに座っている彼らの手にも、紙のカップが握られている。
この時間、当然俺の居場所はここじゃない。
本来ならば研究室で学生らの指導にあたるべきなのだが、つい先ほど宮代先生に教学課への書類を預かったのを理由に、ほんの少しだけコーヒーでも飲もうかと足を向けてしまった。
どうしたって、考えがうまくまとまらない。
どころか、ほんの少しでも気を抜くと、さっきの光景がありありと戻ってしまう。
彼女の柔らかさもそうならば、ぬくもりもそう。
窓から入る光がやたら白くて、目の前の彼女だけがくっきりと浮き彫りになる。
……もっと違う場所で、同じことが起きていたら。
果たしてそのとき、俺は自制できただろうか。
あのとき彼女にしたように、『ごめん』と反射的に謝れただろうか。
あわよくばそのまま――……なんてこと微塵も考えなかった、とは言い切れない。
自分のことは、誰よりもよくわかる。
どうしたいか、なんてことは考えるまでもなく。
「…………」
とはいえ、いつまでも空のカップを持っていても仕方ない。
やるべきことは多い。
それを終えないであの部屋を出るなんてことも、まずありえないこと。
仕方なく立ち上がり、カップをゴミ箱へ――……と身体をひねった途端、こちらに背を向けていた学生とぶつかった。
ほんの少し。
だが、学生が振り返ってみると、少しの被害では済んでいなかった。
「うわ!」
「わ、あの、大丈夫です!」
「いや、大丈夫じゃないから!」
ぽたぽたと胸元についているリボンから落ちる滴からは、とてもじゃないがそんなふうには見えない。
慌ててペットボトルのキャップを閉めた彼女が手を振るも、どうしたってデジャヴを感じずにはいられなかった。
本日2度目の、彼女への謝罪。
……そう。
どの彼女かと言うまでもなく、俺のかわいい最愛の“彼女”。
「っ……」
飲んでいたのは天然水のようだから、服に染みなどは付かないだろう。
が、それ以前の問題。
かなりの勢いでかかってしまったらしく、ハンカチで拭われている胸元につい目が行くと、うっすら下着の色が透けてしまっていた。
ま……ずい、どころじゃない。
こんな格好で構内を歩かれたら、なんてことを想像するまでもなく、最悪の事態に息を呑む。
「……え?」
「ちょっと、いい?」
咄嗟に、右手首をつかむ。
驚いたような羽織を見つめたまま、考えるよりも先に言葉が出る。
こんなふうに意向をたずねるような言い方をしたが、有無を言わせるつもりなんてハナからないのは、恐らく彼女もわかっているんだろう。
そのまま手を引いて学生会館を出たにもかかわらず、特に文句も疑問も背中にかかることはなかった。
「服、脱いでくれる?」
「っ……え」
自分の研究室へ戻ってすぐ、振り返って手を出す。
そこまでしてしまってから、今の俺は彼女にどう映っているのかと少しだけ心配にもなった。
いきなりふたりきりになったくせに、こんなセリフはなしだったか……。
我ながら、結論が先走りすぎだろう。
「いや、その……風邪ひいたら困るし、乾かすから」
「あ、でも……」
「これでもいい?」
「……わかりました」
手近にあった自分の白衣を手渡すと、困ったように眉を寄せていたものの、ようやくうなずいてくれた。
……て、見てるわけにはいかないだろ。
いちおう、ついたての後ろへまわり、彼女を見ないように自制する。
こんな場所であらぬことを少しでも想像したら最後、間違いなく歯止めがきかなくなる。
ましてや、彼女には一度触れてしまっているわけで。
知ってしまった以上、どうしたって次は欲しい。
「えっと……これ、お借りしてもいいですか?」
「あ、いや。俺がやるよ」
「そんな、いいんですよ?」
「いや、俺の責任だから」
きっちりとボタンの閉まった白衣だけを着ている彼女が、隣にいる。
どうしたって身長差があるぶん、覗くつもりがなくても見えてしまいそうで不安だが、あえて視線が向かないように気をつけながら、ドライヤーのスイッチを入れる。
細い鎖骨。白い肌。
普段は服に隠れてしまっていてほとんど目にすることのない箇所が目に入り、ごくりと人知れず喉を鳴らす。
今だけは、この音にも感謝だな。
いろんなものをかき消してくれるのには、役立つ。
「…………」
少しずつ、濡れて濃くなった色が戻っていく様子を見ながら、よせばいいのに……いや、止められない、というほうが正しいな。
すぐ隣で、見守るように立っている彼女の、柔らかさを知ってしまった。
抱きしめたことはもちろんあるし、そのたびに自分とは違う、柔らかな感触がひどく心地いいのもわかっている。
だから、困るんだ。
きちんと乾いた服を渡したあと、の自分がどういうことをしでかすか、怖くて。
……やっぱり俺は、真っ当には生きられないかもしれない。
そもそも、こんなことばかり考えているようじゃ、とてもじゃないが実験の続きはできそうにない。
改めて、自分は思った以上にメンタルが弱いのかもしれない、と気づいてヘコみそうになる。
「っち……!」
「大丈夫ですか!?」
ずっと同じ場所を温めていたらしく、指先に熱がまわる。
反射的にドライヤーを落としそうになり、しゃがんで受け止めてスイッチオフ。
キンキン、と電熱線の放つ音を聞きながら、赤くなった指を見てため息が漏れた。
「痛そう……冷やしましょうか」
「いや、これくらいなら平気。それ――」
俺を心配してかがんでくれていたらしい彼女。
だが、振り返った視線の先には、白地にピンクの刺繍が施されている下着と、柔らかな胸の谷間があった。
……まずい、だろう。
身体が硬直し、彼女が心配そうに覗き込んでくれているのもわかっているにもかかわらず、視線が上がらない。
いや、これは……どうすべきだ。
人間、わかっていてもできないこともある。
そもそも理性に抗えるほど、俺はできた人間じゃない。
「祐恭さん……? …………うわわっ!?」
「っ……」
何度呼んでも反応がない俺を心配してくれたらしいが、ようやく視線の先を把握したようで、胸元を押さえながら姿勢を正した。
途端、柔らかそうな肌のかわりに、見慣れている無機質な白い布が広がる。
残念という思いと、安堵とが半々……とは言えない。
そう言えたら、俺は俗世を捨てられるかもな。
「……ごめん」
「え?」
「いや、なんか……ダメだな、本当に」
気まずいというよりも、もっと優しい雰囲気。
彼女が、胸元を押さえた手をすぐに解き、苦笑を浮かべたから。
……こうして、俺は何度も彼女に救われてきたんだろう。
優しい人柄というだけでなく、まさに俺を愛して許してくれる人だから。
「あ……」
すぐ目の前にある彼女の頬に、気づいたら手を伸ばしていた。
柔らかく温かな肌。
艶やかな、唇。
コンコン
「ッ……」
するり、と頬を撫でて唇を寄せようとした瞬間、まるで図ったかのようにノックが響く。
部屋の中から、外の様子はわかる造り。
反射的に視線を向けて、ぎくりと身体が固まる。
「……ぁ……」
どうやら彼女も気づいたらしく、小さく反応したものの慌てて口を手で押さえる。
宮代教授その人。
俺が、心底食えない人だと思った“先生”。
「もしもーし。瀬尋君ー?」
立て続けにノックが続く。
その様ももちろん見えてはいるが、当然反応は返さない。
彼女に触れたままの、この状態。
密着度はそこまで高くないものの、この格好を見られたら何を言われるものか。
「っ……」
「いないのー? 瀬尋くーん。休憩終わりだよー。始めちゃうよー」
ガタン、とポストに手を突っ込んだ彼が中を覗くかのようにかがんだ。
だが、中を覗ける造りではないことを、当然彼は知っているためか、ガタンと音を立てて背を正す。
……ああ、すごい面倒くさそうな顔してるな。
教授のあの顔は、あとで俺がロクな目に遭えないことを意味するが、今だけはどうにもできない。
いや、しない、のほうが正しいか。
「……は」
「ホントにいないの?」
「ッ……」
「みんな待ってるんだからねー。かわいい彼女連れこんでたら百叩きだからねー」
彼女が息をつこうとした瞬間、またしてもタイミングよく彼がノックした。
ぴくん、と身体が震え、勢いで俺にもたれる。
ふわりと香る、甘さ。
……悪くないな。
一瞬だけ、あの宮代先生にさえ感謝する。
「…………」
「…………」
ペタペタとサンダルの音を響かせながら、自分の研究室のほうへと戻っていくのを見て、ようやく身体から力が抜けた。
どくどく、と鼓動が速い。
のは、俺でなく彼女。
「え、と……あ、もう乾きました」
「え?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
持ったままだった彼女の服を取られ、ようやく我に返る。
距離は近い。
だが、先ほどまでの甘い雰囲気ではなく、いっぺんに……言うなればまるで日常にでも引き戻されたかのようだ。
「……うん」
まいったな。
そんな顔されたら、続きはできない。
「っ……」
「……じゃあ、またあとで」
悶々とした気持ちをどう処理すればいいか、なんて彼女に聞けるはずもなく、ぎゅうと強く抱きしめると、代わりにため息が漏れた。
|