「ッ……」
朝から、久しぶりの駆け足。
こんなの、もしかしたら学生以来……いや、学生のときでさえしていなかったかもしれない。
基本、社会人になってから遅刻とは縁遠くなってもおり、急いでいるときであってもそうそう走ったりはしない。
だが、今日は違った。
……いや、つい先ほどは、と言うべきか。
なぜ、今日にも限って朝からこんな目に遭わなければならないものかと、本気で戸惑う。
だが思い返してみると、今日は本当に……家を出るときからおかしかったんだ。
駐車場では猫が俺の車の上であくびしているところで目が合い、真っ白い毛だらけのルーフで愕然とした。
昨日、泰兄の店から帰るとき、新しくできたスタンドで洗車したばかりだったのに……まさか、24時間もたないとは思いもしなかった。
その後も、バスやゴミ収集車といった車両に前を塞がれるわ、赤信号ばかりに引っかかるわ……そう。
赤信号。
なぜか今日は黄色から赤に変わる瞬間につかまることがやたらと多く、しかも、運転中になぜか歩行者とよく目が合った。
それだけでも違和感というよりは、なんとなく気分がよくないのだが、揚げ句の果てにはちらちらと俺を見ながら隣の人間へ耳打ち、といういちばん嫌いなパターンが続き、大学までの道のりがいつもの倍以上の遠さに感じたほど。
……が、それもすべては“序章”だったに違いない。
駐車場から学内へ入るまでの間も、主に女子学生らが物言いたげな顔で俺を見ながらこそこそ話す姿が目に入り、ここまでくると自分の顔に何かがついているか、はたまた服装がおかしいかとさえ思い始める……が、ぱっと見たところ違和感はない。
ない……からこそ、じゃあ今身の回りで起きていることは何か、と腑に落ちない。
時おり聞こえてくるのは“あの人って”という類のもの。
だからこそ、わけがわからず内心怖くもあった。
俺がなんだ、と。
俺がいったい何をしたんだ――……と。
だがすべてはアイツに会ってすぐ、理解した。
その点においては、今日くらい感謝してもいいかもしれない……とは思いつつも、理由がわかったところでまったく対策案が浮かばないのだから、どうしようもなかったわけだが。
「あ、祐恭く……ん?」
「え?」
走ってきたせいで若干まだ呼吸に乱れはあったが、だからといっていつまでも入り口に立っているわけにはいかない。
エレベーターホールへ向かい、ボタンを押したところで純也さんに声をかけられ、ふりかえった……のだが、なぜか彼はまばたきをしながらこちらへ伸ばしかけた手を引っ込めた。
「…………」
「……純也さん?」
「あ……あ、やっぱ祐恭君だよね。いや、なんかいつもと雰囲気違うから」
「……いや、その……髪を切ったんですが」
「ああ、なるほどねー」
眉を寄せて名前を呼んだところで、彼はぱっと表情を戻した。
ドアが開いたエレベーターへ乗り込み、階数ボタンを押す。
すると、『どうりで』とか『ふぅん』とか意味ありげにひとりうなずいていた彼が、小さく笑った。
「いやー、なんかデジャヴっていうかさ。昨日やってたドラマの主人公にすげー似てて」
「…………」
「誰だっけ。役名でしか出てこないなー。えーとほら、あの……昨日絵里にも言われたんだけどさー」
コンコン、と指先でこめかみを叩く彼を見ながら、ごくりと喉が動く。
……そう。
今朝、図書館脇で孝之に会ったとき、知ったんだ。
どうして今日に限って俺が、これほど注目を浴びることになったのかを。
「とにかく、それ。その主人公にすっげぇそっくり」
フロアに着いたことを知らせるベルが鳴った瞬間、純也さんは満面の笑みで俺を指さした。
「で? お前今日、何人に言われた?」
「……うるさい」
「てことは、相当数ってことか」
いつもと同じ、人がごった返す学生食堂。
その一角へいつもと同じように座って昼食を摂っているものの、周囲のざわつきはやはりいつもと違っていた。
時おり耳に入るのは、例の俳優の名前。
……くそ。
どうしてこんなことになった。
純也さんが今朝話していたのは、普段ドラマを見ない俺でさえ番組宣伝のCMや映画の告知などで作品名くらいは知っている、大学教授で探偵というよくわからない設定の主人公が難事件を解決していくというシリーズドラマ。
そもそも、大学教授と探偵という二足わらじは成り立つはずがないのだが、そのあたりはうまい具合にぼかすのがドラマらしい。
「てっきり、自分で意図的に似せたんだと思ったのに違うとはな。すげー物好きになったモンだと思ったのに」
「俺がそんなことするわけないだろ。……めんどくさい」
「でも、すごい似てるもんなー。祐恭君、今日の講義どうだった? すげぇ盛況だったんじゃない?」
「……聞かないでください」
あれはきっと夢だったんだと思いたい。
黄色い声も、ざわつきも、フラッシュの数も、そして……おびただしい野次馬の数も。
『カメラどこ!?』なんてあるはずのないものを探し出す学生まで出てきて、本当に収集がつかなかった。
……嫌だ。
いったい何度、俺はあんなまさに見世物の気分を味わわなければならないんだろう。
生まれて初めて、家にこもりたいとさえ思った瞬間だった。
「てか、あれだろ?」
「箸を人に向けるな」
「お前、眼鏡外せばいいんじゃね?」
「……何?」
「そのフレームの形と色がさ、余計似て見えるんだって」
つまんだままだった鶏の竜田揚げをひと口で頬ばりながら、孝之が勝手に納得したかのようにうなずく。
……フレーム。
眼鏡は変えていない。変わったのは髪形。
それでも、まぁ一理あるといえばあるのかもしれない。
――……正直、そこまでよくは覚えてないんだが。
ドラマを詳しく見たことはないし、番組のCMを見かけたとはいえそんな細かなことをいちいち覚えてもない。
それでも、容易に変化をもたらすことのできるアイテムを外せば騒ぎが鎮まるのなら、いくらでもそうしたい。
……まあ、世の中そううまくはいかないんだろうが。
「…………」
「眼鏡してねーと、どんくらいまで見える? あの字とかか?」
「いや……字? そもそも、そんなの書いてあるのか?」
「……そのレベルか。んじゃ、うっかり外せとか言えねーな。日常生活にがっつり支障出るだろ」
眼鏡を外した途端、視界がぼやける。
色と明るさはもちろん識別できるが、目の前に座っている孝之の顔でさえ輪郭が曖昧になる。
……度が結構進んでるんだな。
普段、寝るとき以外かけているため気にもしなかったが、改めて日中に外すと途端に視力の悪さが浮き彫りになる。
学食の受け渡し口を指差されるも、白い紙のようなものこそわかれど、そこに字が書いてあるのかどうかは判別不能。
真っ白いぼやけた四角としか認識できず、目を細めても字とおぼしき黒の色は見えないまま。
「…………」
「……お前、目つき悪いな」
「仕方ないだろ。見えないんだから」
「あ、でもそうやってると明らかに『睨んでます』オーラが出てて、周りも引くんじゃね?」
「それは……どうなんだ」
人として。
俺だって、よく知りもしない人間に、通りすがり睨まれたら嫌な気分になる。
ただでさえ人目が集中してしまっている、今。
見えないという理由で眉間に皺を寄せているものの、はたからすれば『迷惑そうに睨んでいる』ともとられかねない。
……妙な誤解は生みたくないんだが。
これ以上の火種を作るわけにもいかないし。
「…………」
ぼんやりした視界と今の状況とで疲れた目元を、ほぐそうと不意に指を当てたとき。
少し離れた場所に立つ、女性とおぼしき人影がこちらへ近づいてきたように感じた。
眼鏡を外しても、結局は何も変わらないということなのか。
声こそ聞こえないが、また妙なことでも言われているのだろうか。
そう思うと、どっと疲れが出てくる。
別に、泰兄に文句を言うことはない。
ことはないが……もし意図的にいつもとは違う髪形にしたのであれば、文句のひとつは言っていいだろう。
そういえば、終わったときやたらと『いやー、俺ってホント素材を生かすわー』などと妙なことを口走っていたが、ひょっとしたら途中からそのつもりがあったんじゃないのか。
思い返せば返すほど、疑わしいセリフをぽつぽつ言っていたような気がしてきた。
「…………」
ふと落ちていた視線を戻すと、人影は特にその場から動かずにいた。
どうやら気のせいだったらしい。
しばらく見つめるもそれ以上近づいてくることもなかったので、恐らく俺ではなく、俺の後ろにある掲示物か何かを見ているんだろう。
「っ……」
「え?」
「ごめん、気づかなかった」
「あ、いえ、いいんです! というか、その……ごめんなさい、私何かしました……?」
「全然!!」
テーブルに置いたままだった眼鏡をかけなおすと、周囲がクリアになるよりも先に、立ったまま困ったように俺を見ている羽織と目が合った。
ま……さか、とは。
今日、彼女に会うのはこれが初めて。
服こそ見覚えはあったが、ぼんやりとした視界の中、色だけで判別できなかったことを後悔する。
「ごめん」
「いいんです、全然! あの、本当に気にしないでください」
でも、よかった。何か怒らせちゃったのかと思って……。
ふるふると笑いながら首を振る彼女の、そんなセリフが耳に入り、申し訳なさでため息が漏れた。
「ホント、ごめん。その……今朝からずっと、いろいろ――ッ……!」
「っ……あぶな……!」
眼鏡を直しながら立ち上がったのが、まずかったのかもしれない。
一瞬視界がブレた瞬間、つま先が隣の椅子の足に引っかかり、がくんと身体が傾く。
正面に、彼女。
改めてそう認識したものの、つい、手を伸ばしたのがマズかった。
ふに
「っ……」
「……ッ……!!」
柔らかい感触だろう、当然だ。
間違いなく自分の右手が、彼女の胸に触れているどころか、わしづかんでいるんだから。
「うわっ……うわ! ごめん!!」
「や、あの、え……ええと、その……」
「いや、ホントに。本当にごめん!」
「だ、だいじょうぶですっ……平気、ですから」
血の気が引くとはまさにこのこと。
一瞬何が起きたのかわからず、あたりの喧騒も消えうせる。
が、手のひらの感触だけは本物で。
……まずいだろ、これは。
モラル的な意味と、自制的な意味とで。
まさか、彼女に手を出すのがこんなかたちになるなんて……。
嬉しいような切ないような、なんともいえない感情がぐるぐると渦巻く中、赤い顔をしながら『大丈夫です』と苦笑する彼女に、申し訳ないと思いながらも、どこかではその顔がかわいいなとも思う自分がいた。
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