「お前、暇なんだな」
「……失礼だぞ。付き合ってやってるのに」
「いや、そーなんだけど。……あぁ、そういや羽織のヤツ葉月になんか頼んでたな」
「レポート提出期限が来週の水曜だって言ってたからな。学生も休んでばかりじゃいられないし」
 夏らしい、ぎらりとした日差しがアスファルトを照りつけ、薄いもやのようなものが遠くに立ちのぼっている。
 普段なら、土曜も仕事。
 だが、幸いにも今は世間と同じお盆休みで、自身も名目上は月曜まで自由な時間を過ごせる……はずと思いたい。
 一応、今は宮代先生もバカンスとか言って日本を離れているが、いつ帰国して俺に『見せたいものがあるからおいで』と言い出すやら予想できない。
 そういう意味でなら休みではないのでストレスもあるが、まぁもう慣れたとも言えるか。
「…………」
 泊まりにおいで、と言って以来、何度か彼女がそうしてくれることがあった。
 が、手が届く距離にいてくれることが素直に喜べるかといえば、そうじゃないんだとなってみてわかった。
 一度触れれば、離れられなくなる。
 柔らかさを知ってしまった以上、実際に触れてしまいたい。
 すやすやとあどけなく眠っている顔を見ていると、かわいいとは思うものの、いつの間にか近づいて“手”を出そうとしてるんだから、危険で。
 嬉しいんだけど、なんかこう……悶々とするというか。
 あー……俺、わがままなんだろうな。間違いなく。
 ていうか実際、どこまでなら手を出して平気なのかとか、そういうのも許してもらえるんじゃないかとか、そういう下世話なことを考えていないとはいえないわけで。
 動機が不純すぎるんだよな、俺は。
 なのに彼女は、とても嬉しそうだし、しあわせそうだし、何よりも甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれるからこそ、かえって申し訳ない気持ちもある。
 こういうことを考えて悩んでるのは俺だけなんだろうな、って。
 ……危険というより、いつまでもつかな。俺自身。
 ふたりきりの閉鎖空間だからこそ、きっと一度でもタガが外れれば求めないわけがない。
 そうなったとき、羽織はどういう顔をするか。
 それが、少し怖くて怖気づいてるというのも、きっと内心どこかではある。
「……あれ?」
 ため息をついてから顔を上げると、そこにいたはずの孝之の姿がなかった。
 とはいえ、ごった返すほどの人通りがあるわけでもない場所。
 あちこち見れば、少し離れた店のショーウィンドウを覗いているのが目に入る。
 今日、孝之が俺に声をかけたのは、葉月ちゃんのためなんだろう。
 いろいろと歯切れの悪いセリフも聞いたし、挙句のはてには『羽織も欲しがるんじゃね?』なんてダメ押しのようなひとこと。
 別に、付き合ってやらない理由もないし、羽織の名前を出すまでもなく、葉月ちゃんのためだと素直に言えばいいのにな。
 コイツ、そういうところ素直じゃないっていうか、天邪鬼気質っていうか。
 まぁ、葉月ちゃんが好きなものは羽織も好きだろうと思ってもいるから、そのひとことでさらに『じゃあ付き合ってやる』と思ったふしもあるけど。
「いいのあったか?」
「あ? ああ、まぁ……やっぱアレだな。季節でモノも変わるんだな」
 黒いビル壁がギラリと日差しを反射させ、近づく前に一瞬目を閉じる。
 こんなに照り返し強かったんだな、ここ。
 …………と、思ったところで言おうとした言葉が消える。
 気のせいかもしれない。
 だが、腕を組んでショーウィンドウを覗きこむ孝之の後ろ姿に、既視感を覚えた。
 この角度。この感じ。
 ああ、なんか……夢で見たのか。それとも何かの錯覚か。
 どうやら妙な顔をしていたのが孝之もわかったらしく、振り返ると『どうしたお前』なんて小さく噴き出した。
「なんか……見たことあるんだよな」
 ぽつりとつぶやいたのは、完全にひとりごとだった。
 なのに、突然孝之が目を見張る。
「? なんだ?」
「これ。見覚えあるのか?」
 そう言って指差したのは、すぐここのショーウィンドウに飾られているネックレス。
 淡いピンク色の宝石が使われていて、桜をかたどっているらしくすぐそばに“SAKURA”と刻まれたクリスタルがあった。
 ああ、宝石と勘違いしたのか。
 見たことあると言ったのは具体的にそれじゃなかったが、まぁいい。
 四角く写真のように切り取った風景という意味で言えば、宝石も含まれる。
「なんか、前にも来た気がするんだよな。ここ」
「ッ……!」
「いっ……なん、だよだから……!」
 ネックレスを見ていたつもりだったのに、いつの間にかガラスに映る景色を見ていたらしい。
 幹線道路とクリーム色の歩道橋へいつしか意識が向き、当たり前のように振り返ったところで、いきなり孝之が腕をつかんだ。
 普段の茶化すようなときとはまるで違う、真剣ささえ感じられるような顔つきに、ただただ訝るしかできない。
「思い出したのかお前」
 いつもより低い声で言われ、『何言ってんだよ』と笑うことさえできない雰囲気に口を結ぶ。
 が、どうやらそれで理解したらしい。
「違うか……まぁそうだよな」
 小さくちいさくつぶやいてから手を離したが、その横顔はまるで悔しいことがあったときにでも見せるようなモノだった。
「なんだよ、急に」
「いや、別に。なんでもねーし」
 そういう顔じゃないくせに。
 ひらひら手を振り、改めてショーウィンドウをのぞきこんだが、らしくないというよりは、これまでの付き合い上よくわかる態度すぎて何も言わないでおく。
 “思い出したのか”
 あのセリフからしても、この店にコイツと来たのは今日が初めてじゃないんだろう。
 歩道橋、か。
 そういえば、俺が落ちたのも歩道橋だったらしいな。
「…………」
 駅前の通りには、いくつも歩道橋がある。
 実際、どこから落ちたのかなんて聞きもしなかったし、確認したいとも思わなかったが、実際“見た”ところで何かが変わるでもないんだな、なんて振り返って歩道橋を目にしてから、小さくため息が漏れる。
 それが安堵か落胆かは、正直俺にはわからない。


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