「祐恭さんも、どうですか?」
 涼しげなガラスの器に、真っ赤ないちご。
 ああ、なるほど。
 どうりで嬉しそうなはずだ。
 そういえば、これをもらって帰ってきたあのときも、羽織はかなり喜んでいたし。
「それよりも、俺はこっちのほうがいいんだけど」
「え?」
 風呂あがりとあって、ソファの隣へ腰を下ろした瞬間甘い香りがした。
 いちごとは違う、もっと香料的な甘さだが、それでも俺にとっては羽織の匂いに違いない。
 今はもう、先ほどまでの浴衣ではなく、何度も見ているので少しずつだが慣れもした、パジャマ姿。
 服よりももっと肌の露出が低いにもかかわらず、“素”そのものだからか、妙にどきりとする。
 慣れはした。が、だから平気なわけじゃない。
 小さなフォークでひとつ口元へ運んだのを見ていたら、不思議そうに羽織が首をかしげた。
「甘い?」
「ん、甘いですよ。どうですか?」
 もぐもぐと口元へ手を当てながら、フォークに刺したいちごを差し出され、それと羽織とをつい見比べてしまう。
 どうやら、さっきの俺の言葉はなかったことにでもなってるらしい。
 いや、正確には『なんのことかな?』で流れた、ってほうが正しいか。
「祐恭さん……?」
 フォークを受け取るも、そっと器へ戻すと、やはり不思議そうにまばたいた。
 すでに21時は目前。
 珍しくこの時間に風呂も済ませ、あとは――何をする?
 羽織に敢えて聞いてみたら、それこそ頬を染めるだろうな。
「う、ん……っ」
 名前を呼ぼうとしたような気がした。
 だから、口づける瞬間少しだけ笑みが浮かんだ。
 唇を舐め、歯列をなぞるように味わう。
 濡れた音をわざと響かせるように吸い、舌を絡める。
 喉から漏れる声が、それさえも逃したくないほど甘くて。
 きゅ、とパジャマの上着をつかまれたことでようやく解放すると、吐息をもらしながらうっすら目を開けた羽織がすぐここにいた。
「甘いね」
「っ、う、きょうさ……っ」
「これなら食べてもいいかな、って思う」
 わずかに残った、いちごの香り。
 甘酸っぱさを勝手に感じ、フォークをつまむ。
 そういえば、好んで果物を食べることなんてしなかったな。
 こうして、自宅でいちごを食べるなんて、いったいいつぶりか……いや、もしかしてこれが初めてなのか。
 ケーキに添えられてる果物でいえば、まだ回数は多いかもしれないが。
「もぅ」
 頬を染めた羽織が、小さく唇を尖らせた。
 が、その顔は当然不服そうでないから、いけない。
 余計手が伸びる要因でしかないって、気づかないものかな。
「え?」
「はい」
 フォークではなく、直接いちごをつまんで差し出すと、それと俺とを見比べながら小さく笑われたが、そこは素直さの勝利か。
 ためらうことなく口を開くのを見て、笑みが浮かぶ。
「おいしい?」
 いちごを食べさせてやりながら、どうしたって唇へ敢えて触れようとしたあたり、すでに下心しかないんだなと我ながら思った。
 ああ、やっぱりだめだな。タガなんてものは、今はもう存在しない。
 それでも、羽織はきっと知らない。
 そんな思いのせいで、羽織を見る自分の視線がまるで縋りつくようなものへ変わったことを。
「人にものを食べさせるって、なんか……マズいな」
「え?」
「なんか、すごいエロい」
「っ……」
 テーブルへ頬杖をつきながら、さらりととんでもないセリフが漏れた。
 いつもより、ずっと低い声なのを羽織は気づいただろう。
 目を見張り、こくんと白い喉が動いたのも見え、気づいたときにはじわりと彼女へ身体を寄せていた。
「きっとこの先何年経っても、見るたびにこの組み合わせを思い出すよ」
 味わうたびに、とうっかり言いそうになり、さすがにやめる。
 いや、どちらかというと、言えなかったというほうが正しい。
 うっすら唇を開いたまま潤んだ瞳を向けられ、気づいたときには口づけていたから。
「ん……ん、んっ……」
 ゆっくりとソファへ倒しながら、角度を変えて口づける。
 そのたびに濡れた音が響き、自身が煽られるようだ。
「……は……ぁ」
 どこまで触れていいか。どこまでなら許されるか。
 考えるのはやめ、いっそ行動してしまおうと思ったあたり、限界だったんだろう。
 一度触れたら、次も欲しくなる。
 あのとき、事故とはいえ羽織の胸に触れ、先を求めそうになった。
 が、今は違う。
 『送らない』
 あんなふうに宣言までするようになったとは、相当ヤられてるんだな。
 欲しくてほしくて、どうしようもないほど羽織を求めてる証拠。
「ん……っ」
 当たり前のように唇を重ね、舌を割り入れる。
 もうそこにいちごはないはずなのに、人の記憶は割と単純なんだな。
 甘酸っぱい香りがした気がして、ああやっぱり俺の中でいちごと彼女が完全に結びついたらしい。
「やっぱり……羽織のほうがうまいな」
「……え……?」
「いちごより、よっぽど甘い」
 はらりと頬へ戻った髪を撫でてやりながら再度唇を重ねると、離れてすぐ、羽織が困ったように笑った。
 その顔があまりにもかわくて、素直だと改めて思える表情で、思わず笑みが浮かぶ。

「ごちそうさま」

 なんの気なしに出たセリフだったが、どうやらお気に召してはもらえなかったらしい。
 一瞬目を丸くした彼女が『もぅ』と唇を尖らし、そのすぐあとで苦笑を漏らす。
「祐恭さんの前で、いちご食べられなくなっちゃうじゃないですか」
 まるで拗ねたみたいなセリフがかわいくて、口づけてすぐ、言わなくてもいいセリフが出そうになる。

『そのときは、おいしく食べてあげるから』

 どうやら俺自身、思った以上に単純でタチの悪いヤツらしい。
「……羽織」
「っ……」
 明るい蛍光灯の下、こうする時間が好きだ。
 まじまじと見つめ返してくれるのは、期待、してくれてるから?
 だとしたら、これ以上嬉しいものはない。
 が――それじゃあ、手を出してもいいよね?
 聞くに聞けないセリフを、いったい何度飲み込んだことか。
 そういえば、アレを見つけたのはいつだったか。
 まだ彼女を受け入れられず、自身のあやふやな記憶がひどく苛立たしくて、何かないのかと家中を片付けながら探したとき、寝室で見つけてしまった使いかけの箱。
 自身の記憶には、この部屋で、家で誰かを抱いたことはなかったから、赤裸々すぎて一瞬目を背けそうになったほどだった。
 …………待てよ。
「……祐恭さん……?」
 頬を撫で、口づけようとしたまま意識が飛ぶ。
 近くて遠い、すぐそこの寝室へ。
「ッ……!」
「え?」
 身体で押さえこんでいた羽織から引き、当時の記憶をたぐりよせる……までもなく、鮮明に思い浮かぶ。
 あのとき。
 箱を見つけたあのとき、俺はどうした。
 手に取ったまでは確か。
 だが――そのあと、ひしゃげてゴミ箱へ放らなかったか?
「っ……あ」
「どうしたんですか?」
 おそらく、羽織には奇妙に映ったことだろう。
 今の今までと違い、やけに神妙そうな顔でいるんだから。
「…………」
「……祐恭さん? どうかしたんですか?」
 腕に触れた羽織は、ひどく不安そうな顔をしていた。
 こういう顔を見るのは、いつ以来だったか、と思えるようになったほどまで俺たちの関係は進んでいる。
 嬉しいことだし、素直に喜びたい……ところだが、今はそれができない。
 なぜなら――ああ、これも完全に俺の落ち度か。
 さすがに今ばかりは『怪我の功名』はなさそうだ。
「わっ!」
 ぎゅうっと羽織を抱きしめ、肩口へ盛大なため息をひとつ。
 あー。最悪だ。
 今日この日のことをずっと考えてもいたし、楽しみにもしていたどころか、絶対的な“予定”だったにもかかわらず、どうしてソコを確認しなかった。
 なければいけないわけじゃない――とは、さすがに言えない。
 大学へ入ったばかりで、今の俺との関係を許してもらえているのは、ご両親の寛大さが大きいんだから。
 たった一度のワガママな欲望を満たした時点で、すべては泡となって……いや、すべて失う以外ない。
 今、俺から羽織がいなくなったら。
 考えるまでもなく、それは自身を失うのと同じ。
 思い出せないのとはワケが違う。
 自身での喪失は、ある意味の死と同等じゃないのか。
「買い物行ってきてもいい?」
「買い物……ですか?」
 きょとんとした反応をされ、さすがに『アレを』とは言えない。
 が。
「えっと、明日じゃだめなんですか?」
「う」
「や、あのっ、ほら、出かけるじゃないですか。だから、まとめて買い物しようって言ってたから」
 不思議そうに返されて、あまりの素直さに何も言えなかった。
 いや、確かにそうなんだよ。明日でもまったく問題はない。
 問題はないし、そういえば今の彼女のセリフは俺自身が言ったモノでもあったから、否定するにできないのも事実。
 そう。
 明日から、最後の夏休みを満喫したいという女性陣の提案のもと、グループで出かけることになっていた。
 女性陣ということは、無論羽織だけじゃない。絵里ちゃんと、そして葉月ちゃんの参加は間違いないだろう。
 となれば必然的に純也さんと孝之もくるので、6人でのグループ行動。
 ……グループ。
「はぁ……」
「わっ! 祐恭さん……?」
 夜は長い。だからこそ、グループとなればまた過ごし方も変わってくる。
 それでも……できないことはない、と願いたい。
 いや、願うべきじゃないのか。
 やっぱりこういうのは、完全なるプライベートな時間に愉しむべきモノだろうから。
「……我慢します」
「え? えっ……? あの、え、何をですか?」
「…………」
「祐恭さんっ!?」
 こつん、と額を合わせたままつぶやくと、またもどストレートに問い返され、さすがに何も言えなかった。
 ごめん、やましいことしか考えてなくて。
 口に出せないほどの、下心しかなくて。
 改めて羽織をぎゅうと抱きしめたまま、ソファへもたれる。
 そのとき、視界の端に真っ赤ないちごが見え、思わなくてもいいのにあの考えが強調されることになったのは言うまでもない。
 羽織と、いちごと――残念な俺。
 いつか笑い話にできるだろうか。
 ……だいぶ遠い話になりそうだ。


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