始まりはある、晴れた朝だった。
 起床した6時の時点でじりじりと熱い日ざしを感じ、さすが夏だなとは思ったものの、『ああ、嫌な日だ』と若干思ったせいか、妙な意識をした。
 もしかしたら1日のスタートにそう感じた時点で、すでに“今日”を予感していたのかもしれない。
 やけに眩しすぎる光と、焼け付くような日差しと、何よりも精神的に参る要素が詰め込まれた1日を。

「ん?」
 いつものように簡単な朝食で済ませ、いつものようにほどほどに混雑を見せる道を通って大学へ。
 教員駐車場へ降りた途端、むっとするアスファルトの焼けた匂いと熱風に、眉が寄った。
 が、それはいつものことと言えばそう。
 大学の入り口にある大きな門のそばを所在なさげにうろうろしている人物に違和感は覚えたが、当然自分に関係のない人間だと思っていたため、まったく見るつもりもなく通り過ぎる。
 学生がうろつくならわかるが、後ろから見ても社会人と思しき格好。
 あまり関わりたくない、という思いもあってチラリとも視線は向けなかった。
「あぁあっ!!」
「っ……」
 だが、通り過ぎた瞬間とんでもなく大きな反応をされ、嫌でも足が止まる。
 驚いてそちらを見――。
「……あ」
「う、うぅうぅあああっ……うわぁあああん!! 瀬尋先生ぇぇえええ!!」
「ッ……な……!」
「会えてよかったですよぉぉおう!!」
「ちょっ……」
 驚いたなんてモノじゃない。
 俺の名を大きく呼んだ彼が、ばっちり顔を指さしてくれたまま大きな声をあげ、顔をくしゃくしゃにして今にも泣きそうな顔をした。
 朝からこれは正直ツラい。
 いや、キツい。たまらない。
 なんだなんだ、と学生や職員らが視線を向けるが、どれもこれもが『ヘンなモノ』を見ているようで、困惑の表情が張りつく。
 だが、わんわんと声をあげて両手をこちらへ伸ばした彼は、周りのことなどまったく気にも留めずに俺の両腕へしがみついた。
「瀬尋せんせぇえええ助けてくださいぃいい!!」
「いや、あの……ちょ、待ってください」
「待てませんよぉぉおお!! 僕、もう3日眠れてないんですからぁああ!!」
 ああ、ダメだ。本当に泣いてる。
 顔を上げた彼の頬が濡れていて、口元がひくついた。
 この状況はなんだ。どういうことだ。
 いったい、今自分の身に何が起きているのかさっぱりわからないが、少なくとも、彼が誰かはわかる。
 だが、だからこそどうして俺の名を呼んで、こうも助けを求められているのかがわからない。
 ……ああ、誰かどうにかしてくれ。
 わんわんと大きな声をあげながら、半径3メートル四方に人を寄せ付けない雰囲気を生み出した彼を見ながら、少しだけ頭が痛くなった。
「……え、祐恭君?」
「あ」
 ちょうど、門から入ってきた純也さんと目が合ったものの、当然のように訝られた。
 まあ、そうだ。当然だろう。
 もしも俺と彼の立ち位置が逆だったら、当然同じ反応をしている。
「何? どうし――」
「はっ! 田代先生ぇえ!?」
「ッ……!」
 泣くじゃくっていた彼が純也さんを振り向いた瞬間、その表情が凍りついた。
「あっ!? 純也さん!?」
 見事なダッシュだった。
 それこそ、まったく迷いのない走りで俺の1m隣を駆け抜け、学食の方向へ走り去る。
 いやいやいや、ちょっと待ってほしい!
 というか、どうして彼を認識した上でそんな反応をするのか、俺にはまったく理解できない。
 それとも、純也さんには何かわかっていることがあるんだろうか。
 “俺”の記憶にない、彼についての何かを。
「わあぁあっ!?」
「ちょっ……! 待ってくださいよ、純也さん! なんで逃げるんですか!」
「はははやだなー、祐恭君人聞きの悪い。逃げるわけないじゃないか俺が」
「ものすごく、たどたどしいですけど! というか、これを逃げると言わずになんと言うんですか!」
「いやほら、犠牲者は少ないほうがいいからね!」
「っ……それ、どういう意味ですか!?」
「いっけね口が勝手に!」
 俺にしがみついていた彼を放置してダッシュ1本。
 だが、純也さんは俺とまったく目を合わせようとしないまま、食堂前から理学1号館の方向へと靴を鳴らす。
 とはいえ、聞き捨てならないセリフばかりが聞こえた以上、当然彼を逃がしたくない。
 こういう反応を取るということは間違いなく、“何か”を知っての反応だろうから。
「お願いですから、ひとりにしないでくださいよ!」
「いやほらあの、代々の言い伝えで『朝の面倒ごとは見捨てろ』って言われてるから!」
「どうして面倒ごとってわかるんですか!」
「うっ! だからそれはその、知恵と経験というか……!」
 防御のポーズを崩そうとしない彼の腕をつかみ、ぎりぎりと踏みとどまる。
 だが、当然純也さんとて“逃げたい”気持ちが依然として強いようで、ここにきてようやく俺と目を合わせるものの、口元は笑っていたが目はまったく笑っていなかった。
 『祐恭君ひとりでやりなよ』
 あたかもそう言われているようで、咄嗟に首を振る。
「純也さん、後生ですからせめてこの状況を説明してください!」
「いや、そんな時間はないんだって!」
「どういう意味ですか!」
「だからそのまんまの――」
 はたり。
 ちょうどそのとき頭上から物音が聞こえてそちらを見ると、図書館のテラスに出ている数人の姿があった。
 なんだなんだ、と恐らくはこの朝の珍事を聞きつけて見ているのだろうが――やはり。
 そこには、あたかも高みの見物とばかりにニヤニヤと人の悪そうな顔をしている人間が、ひとり。
「…………」
「…………」
 俺の視線に気づいた純也さんは、当然のごとくヤツを凝視した。
 その眼差しは、『生け贄は多いほうがいい』とでも語っているように見える。
 ……おかしいな。どうして今俺はそう考えたんだ。
 何が起きているのかわからないものの、なぜか過去に似たような体験をしている気がして、迷わずそう考えた。
「孝之君」
「純也さん、何してんすかそんなトコで。つーか、これって何? 事件沙汰?」
「いいからちょっと降りておいで」
「え?」
「いーから。……あのことバラされたくなかったら、5秒以内にダッシュ1本」
「……あのこと?」
 ひらひらと純也さんが孝之へ手を振ると、身を乗り出したままヤツは眉を寄せた。
 純也さんは、にっこり笑ってなどいない。
 どこか遠いところでも見ているかのようなまなざしでかつ、どちらかといえば無表情に近い。
 おいでおいでをする様は、それこそ三途の川でこちら側へと呼んでいる立場の者のようだ。
「キャンプのとき。ナイトウォーク楽しかった?」
「は?」
「葉月ちゃん、あちこち痛いって絵里に言ってたらしいねぇ」
「ッ……!」
 訝っていた孝之が、あからさまに表情を変えた。
 目を丸くし、口をきつく結ぶ。
 ……なんだか知らないが、どうやら弱みを握られているらしいのは確か。
 ああ、なるほど。
 お前も、痛いところをつかれると、そういう人並みの反応するんだな。
 そこからの孝之の行動は思いのほか早く、まさにここへ駆けつけるまで大した時間は要しなかった。
 昔から、逃げ足も早かったもんな。お前。
 どこか疲れたような顔をしている孝之と違い、にこにこと菩薩のような笑みを浮かべた純也さんとの対比が、個人的にはどこかおもしろいなと思い始めていた――そのとき。

「うわぁああああん田代せんせぇええ瀬尋せんせぇぇええ助けてくださいよぉおお!!」

 あたりの静寂どころかすべての音を掻き消すほどの、強い広がり。
 これまでにない、まさに大絶叫が建物の間のこの空間へ広がり、うわんうわんと妙な余韻を伴って響き渡った。
 

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