「うぅ、そんなわけで僕、もう3日もまともに眠れてないんです」
「……いや、6時間も眠れていれば十分なんじゃ……」
「僕は8時間寝ないとだめな人なんですよぉう!」
「…………はあ」
 かれこれ20分は経っただろうか。
 朝にもかかわらず混雑を見せる学食の、角。
 ちなみに、ほとんどのテーブルがまばらながらも埋まっている中、ここの隣の4人がけテーブルには誰も座ろうとしなかった。
 まあ、当然だろうな。
 俺だって、こんないわくつきがありそうな男4人の隣には、決して座りたいと思わない。
「……なんで俺まで」
「いや、おもしろ……孝之君なら大丈夫かなと思って」
「純也さん、今さらりと本音出ましたよ」
「まさか、気のせいだよ」
 俺の隣には、相変わらず罰ゲームにでもあっているかのような顔の孝之がいた。
 この時期にもかかわらずネクタイを締めているのは、コイツだけ。
 真夏ともなれば、正直大変だなとは思いもするが、職場の慣例だと言われればどうしようもないんだろう。
 そういう点、俺なんて楽なほうだ。
 いや、むしろ上が自由すぎる格好をしているせいで、逆に困るが。
 ……アロハにビーサンはまずいと思うんだけどな。
 いい加減、あれだけはせめて直してもらいたい。
「で? 山中先生は何に困ってるんですか?」
 ふー、と重たいため息をついた純也さんが隣の彼を見ると、ぐずぐず鼻を鳴らしながら、今にも倒れそうな顔で俺たちをそれぞれ見た。
 山中先生。
 去年は同じ冬瀬女子高等学校の同僚だった、生物教諭。
 俺が知っているのはその程度だったが、純也さんからざっと説明されたのは、彼もまた生徒と付き合っている……いや、“いた”教師だったらしい。
 そう考えると、あの学校はある意味恐ろしい場所だな。
 アンダー過ぎて、正直ここまでくるとなんでもありそうな気になる。
「実は、付き合って1年経つんですけれど……」
 1年というと、俺と羽織もほぼ同時期だったらしいことは知っているためか、なんとなく他人事には思えない。
 この1年、彼女はどんな思いをしてきたのか。
 楽しいことばかりじゃなかっただろうが、それでも、“俺”といることを望んでくれた。
 なのに起きた、あの春の出来事。
 そこで揺らいだはずなのに、俺を改めて受け入れてくれて。
 ……ああ、あれからもう数ヶ月経つのか。
 などとしみじみ思っていたら、とんでもないセリフが聞こえた。
「その……最近、ゴブサタなんです」
「…………」
「…………」
「…………」
「あっ、ええと……具体的に言ったほうがいいでしょうか?」
「いやいやいやいや、結構です」
 すごいな。
 これだけザワついている場所なのに、まさに水を打ったような静けさが広がるとは。
 恐るべしというか、はたまたこれが常なのかわからないが、どう反応していいのかわかない俺と孝之とは違い、純也さんが頭を抱えたのが印象的だった。
「その、なんというか……最近マンネリとでも言いましょうか。いろいろな策を講じてはみたんですけれど、いまいち不発でして」
「……はあ」
「あっ、以前教えていただいたラブホテル巡りなんかはしてみたんですけれど、それもほぼ行きつくしたと言いますか……」
「え。行きつくしたんですか?」
「はい。なので、車の中でもがんばってはみたんですけれど……だめですね。僕の車は狭いというか小さいので、ハンドルが当たってしまって、うまくできなくて」
「……は、あ」
「ああいうのは、それこそ8人乗りとかの大きな車をレンタルしてチャレンジしたほうがいいんでしょうか」
「いや、そもそもレンタル云々の前に……あー、つっこみどころが多すぎて頭痛いなー」
 真剣な顔で、山中先生は語っている。
 だが、内容があまりにも飛びすぎていて、開いた口に気づいたのはつい今しがた。
 普段ならば『馬鹿じゃねーの』と嘲笑する孝之でさえ、茶化してはいけない雰囲気でも感じとったのか、こめかみに指を当てて目を閉じた。
「瀬尋先生、お知恵をお借りできませんか!」
「え」
 がばっと顔を上げられ、たまらず口ごもる。
 いや、そもそも……ですね。
 今の俺にそんなことを求められても、まったく返答できないんですが。
 恐らく、彼はこの春の出来事を知らないんだろう。
 というか、彼にこうも期待を抱かせていた“俺”は、彼女にどんなことをしでかしてきたのか、わかったようなわからないような、ある意味で恐ろしくもなる。
 きっと、純也さんの反応から察するに、山中先生の相談とやらはこれまでも何度かあったんだろう。
 なのに……まさか、俺に聞かれるとは。
 さすがに孝之と純也さんはわかってくれてでもいるのか、カワイソウな目で見ている。
 いや、待ってくれ。
 そんな哀れみの表情を向けられるのは、なんだかとてもツライ。
「ええと……すみませんが、俺にはちょっと」
「……そうですか」
 そもそも、知恵云々の前にだ。
 先日、ようやく彼女へ直接触れることができるようになったばかりであり、回数なんて数えるほどしかない。
 って、そういうのはどうでもいいんだが。
 まずいだろう。この時間に反芻なんて、いろいろな意味で。
 ここにいるのが男だけで、ある意味よかったのか。
「こうなったらやっぱり、ちまたで噂の赤マムシとか飲んだほうがいいんでしょうか」
 真剣な眼差しで顔を上げた山中先生を見た瞬間、三者三様に噴き出していた。
 幸いなのは、誰も飲み物を飲んでいなかったという点か。
「どう思う?」
「……なんで俺に聞くんすか」
「いや、この中じゃベストかなと思って」
 これまた真剣な顔で、純也さんが孝之を見つめた。
 だが、彼の選択は間違っていないと思う。
 今回、この場に孝之がいてくれて素直に助かったと思った。
「……はー。そーゆーのは、それこそ優人にでも聞いたら、ほいほいくれんじゃないすか?」
「本当ですか!?」
「うわ!?」
 孝之がため息をついてから頭に手をやった途端、身を乗り出して山中先生が彼の両腕をつかんだ。
 まずい、目が本気だ。
 それどころか、今まで意気消沈していた顔つきではなく、ひと筋の光を見出したかのように瞳がキラキラし始めている。
「いやっ……多分、すけど」
「うわあああ、優人ってあの、菊池先生ですよね!? 聞いていただけますか!? いいんですか!? 本当に助かります僕!!」
「うっ……!」
 ぐらんぐらんと前後に揺さぶられながら、孝之が困惑の表情で純也さんを見た。
 だが、彼は当然とも言わんばかりに親指を立て、深くうなずく。
 あー、今回ばかりは孝之に同情してもいい。
 とはいえ、心の中では『助かった』と思っている割合のほうが大きいのも事実だが。
「うわああああ、よろしくお願いしますぅうう!!」
「は……はぁ」
 会ったときとは比べものにならない、きらっきらした表情で孝之に頭を下げた山中先生を見ながら、一堂深いため息をつきつつも、交わした視線は『どうするよコレ』と物語っていた。


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