「言っとくけど、私が言ったんじゃないわよ?」
「……え?」
 ようやく訪れた、昼休み。
 少し早めに席へ着いたからか、私たちが食べ始めてしばらくしてから周りが混雑を見せ始めた。
 ここは、中庭に隣接されている大学の学食。
 天気は悪くないんだけど、絵里が学食のランチだということもあって、お弁当持ちの私と葉月も一緒にここで食べている。
 もしかしたら、大学とかもやっぱり各学部とか専攻とかで固まるのかな……なんて思ってたんだけど、実際はそうでもないみたい。
 現に、私たちも学部やら学科やら違えど、この学食が大学の中心にあるのもあって毎日顔を合わせている。
「どういうこと?」
 小さめの丸テーブルを陣取っての、ランチ。
 こじんまりとしているこの席が、実は結構好きだったりする。
 1番の窓際で、明るいっていうのも理由のひとつではあるんだけど。
「だから、純也よ。純也!」
 首を軽くかしげた私に、今日のメインである鳥のから揚げをお箸でつまみながら、絵里がまくし立てた。
「私が入学するって決まった途端、お祖母様が独断で決めちゃったのよね。……向こうの先生と、こっちの先生と。なんでも、緊急教授会を開いたとかなんとかって……」
「……ふぇー」
 眉を寄せて『違ったかな』とか首をひねる絵里を見たまま、情けない声が出た。
 で、でも、これって仕方ないと思う。
 だって、話してる内容がものすごく私には身近じゃなくて。
 ……そういう世界もあるんだ。
 まるで、ドラマに出てくる御令嬢の姿そのもののように思えて、絵里ってば実はすごい人なんだと改めて実感した。
「婿たるもの、嫁の身を案じ第一に考えてやるのがその務めー……なんてことも言ってた気がするけど」
 苦笑を浮かべた姿に、思わずイメージがぽんっと浮かぶ。
 ……お婿さん。
 ってことは、勿論田代先生を示している言葉で。
「……ふふ」
「っ……何よ羽織」
「え? んー、なんか……えへへ。幸せものだなぁー絵里ってば」
「うわっ!? ちょ、ちょっとコラ! やめなさい!」
 ぐりぐり、と手を伸ばして絵里を突くと、困ったような嬉しそうな、なんともいえない表情で手を払った。
 ……えへへ。
 でも、おばあさまにそう言われても別に訂正したりしないっていうことは、イコールやっぱり……絵里だってまんざらじゃない、ってことだよね。
 幸せの証拠。
 それ以外に、なんと言おう。
「あ。そういや、結局羽織はどうしたの?」
「あー……六法のこと?」
「そそ」
 思い出したような顔の絵里を見て、ぴんと来た。
 六法。
 それはもちろん、六法全書のこと。
 法学部でもない私がどうしてそんなものが必要なのかというと……なんとまぁ、必修科目だというのだ。教育学部の。
 全然関係ないし、必要もないんじゃないかとは思うんだけど、大学側から必修と言われている以上取らないわけにはいかない。
 それで、本格的じゃないお手軽な物を買おうかどうしようか最後まで悩んでたんだけど……。
「あれね、結局やめたの」
「あ。やっぱり? だってさー、もったいないわよね。どうせ、前期しか使わないんだし」
「そうなんだよね」
 ため息混じりに呟いた絵里に、こちらも苦笑が漏れた。
 今日でようやく、入学式から1週間。
 慌しかったオリエンテーションから、パソコンでの受講講義の登録、そして教科書購入。
 数えあげればキリがないほど、本当に慌しかった。
 考えてみれば、高校のときはすべて学校で決めてくれていたから、ここまで経験することってなかったんだよね。
 授業だって時間割があったし、教科書だってみんなと同じ学校指定のものを購入すればよかった。
 ……でも、今は違う。
 自分で受講する講義を決めるから、時間割も教科書ももちろん人と違う。
 すべて、責任は自分に。
 それが高校生との1番大きな違いじゃないだろうか。
 『大人』なんだよね、大学生は。
 なんて、そんなことをしみじみ実感する。

「それにね、祐恭さんが……貸してくれるって言うから」

 ふたりの前では、もしかしたら初めてじゃなかっただろうか。
 彼のことを、『先生』じゃなく、名前できちんと呼んだのは。
「…………え?」
 しばらく、妙な沈黙があった。
 ……かと思いきや、にんまりと音を立てたかのように絵里と葉月の顔が変わる。
「……ほほぅ」
「え……絵里……?」
「そうかそうかー。いよいよ羽織も、そんな年になったかー」
「えぇ……!?」
 にやにやと頬杖をついて笑われ、眉が寄った。
 だけど、そんな絵里の向かいに座っている葉月も、くすくすと楽しそうに笑う。
「……ふふ」
「葉月までっ……?」
「だって、羽織ってばすごく嬉しそうなんだもん」
「っ……!」
 う、と思わず言葉が詰まる。
 ……そ……そこを言われると、実は何も言えない。
 だって、自分でもちゃんとわかってるから。
 もしかしたら……今は、意識して彼の名前を口にしたのかもしれない。
 『言おう』と決めたとき、妙にどきどきしていたから。
「あーあ、なんかもー、ゴチソウサマって感じ?」
「あはは。そうだね」
「えぇえっ……!? ちょ、ちょっとそんな!?」
 一気に『やってらんないわムード』をかもし出した絵里に、慌てて手を振る。
 ……うぅ。
 まさか、正直ここまでの騒動になるなんて……!
 …………う。
 ……でも……まぁ……嬉しいという気持ちに変わりはないんだけどね、実を言うと。
「それじゃ、教科書も結構助かったでしょ?」
「んー……それが、やっぱり学部がまったく違うから、一緒になったのはふたつだけだったんだけどね」
「そうなの?」
「うん。だって、祐恭さんは理学部だもん」
 そう。
 今喋っている、絵里と同じ学部。
 ……後輩、になるのかな。
 なんとなくふたりが同じことについて話しているイメージがあまり湧かないからか、少しだけ不思議な感じがした。
「私よりも、葉月のほうが助かったんじゃない?」
「え?」
 これまで聞き役に徹していた葉月が、そこで顔を上げた。
 手元には、きちんといろいろな食材が詰められた、お弁当――……が半分。
 時間も時間なだけに、今はもうほとんど残っていない。
「んー……そうだね。たーくんに結構貰ったよ」
「やっぱり?」
「うん。専攻も一緒だからね」
 にっこりと笑みを浮かべてうなずいた彼女に、つい笑みが浮かぶ。
 ……そう。
 今度は、葉月も一緒なんだ。
 今まで私や絵里がそうだったように、『学校も彼氏と会える環境』という条件は。
 ましてや、葉月の場合は図書館という決まった場所に行けば必ず会えるという、絶対条件付。
 ……もちろん、お昼はやっぱりこの学食で食べてるみたいだけど。
「でも、たーくんの教科書は、元々誰かのお下がりなんだよ」
「え!?」
「そうなの!?」
「うん」
 さらりと告げられた、すごい言葉。
 ……ある意味衝撃かもしれない。
「元々ね、同じ専攻の先輩に言って、貰ったものが大半らしいの。だから……やっぱり、たーくんも使わなくなった途端に誰かへあげちゃったみたいだけど」
「……へぇ」
「さすが孝之さんね。……相変わらず、しっかりしてるというか、オープンというか……」
 ふむ、と腕を組んだ絵里に私もうなずく。
 ……でも。
「お兄ちゃん、教科書代って言って……お小遣い貰ってた気がしたんだけど……」
「そうなの?」
「んー……確か……。違ったかなぁ」
 ふと頭をよぎる、光景。
 リビングで、お母さんに教科書代がどうのって話をしているお兄ちゃんの姿を、見たような見なかったような……。
 それで当時『教科書ってそんなにするの!?』ってびっくりしたんだったと思うんだけど。
 …………。
 ……まぁ、いっか。
「じゃあ、祐恭先生も誰かに貰ったの?」
「え? ……あー……違うと思うよ。教科書の話したとき、『高いから覚悟して』って言ってたし」
「……なるほど」
 絵里に首を振って見せると、組んでいた腕をそのままに、うーんと小さく呻った。
「……ふたりの性格の違いが出たわね」
「だね」
「…………私も思う」
 ぽつりと囁かれた言葉に、ただただ苦笑を浮かべる。
 ……まぁもともと、不思議に思ってることではあるんだけどね。
 どうして、ああも性格の違うお兄ちゃんと祐恭さんが、長年友人でいるのかってことは。
 ……何か、見えない因縁のようなものでもあるのかな……。
 じゃなければ、ちょっと考えられない。
 だって、本当に対照的だと思うから。
「……あーあ。純也もウチの学生だったらよかったのに」
「もぅ。そう言わないの」
「でもま、私もふたりのこと言えないんだけどね」
「え?」
「……フフ」
 意味ありげなところで、意味ありげに笑った絵里の笑みが気にはなる。
 だけど、首をかしげて見せたところで、それ以上は何も言わなかった。
「……ったく。教科書も馬鹿みたいに高いし……ホント、今月は早くもピンチなんだけど」
「だよね」
「それに、なんか新歓コンパがあるとかって話だし……」
「コンパ?」
「そ。……あれ? 何よ。羽織んトコはしないの?」
 うんうん、と目の前でうなずきあうふたりを見ていたら、思わず目が丸くなった。
 ……コンパ。
 その言葉の意味は、もちろんわからないわけじゃない。
 そうじゃ……ないんだけど。
「えっと……私はまだ、聞いてないかな」
「そうなの? ……まぁ、クラスによって違うだろうしね」
 ふぅん、とだけ小さく呟いた絵里は、そのままパックのジュースに口をつけた。
 ……ほ。
 いろいろ細かいところを突っ込まれなかったので、ちょっぴり息をついてから私も紅茶に口付ける。
 ほのかに広がる、レモンの香り。
 ……うん。
 やっぱり、アイスティーならレモンがいいよね。
「あ。そろそろ行かなきゃ。次の教室、結構遠いのよね。ここから」
「え? もうそんな時間?」
 ひとり幸福感に浸っていたら、慌しく絵里が動いた。
 そんな彼女を見て、釣られたように葉月も時計を見て立ち上がる。
「羽織は次、何やるの?」
「え?」
 同じように時間を見てから、バッグにお弁当の包みをしまおうとしたとき。
 普通の顔で、絵里が私を見た。
 まさに、『普通』に聞いただけのこと。
 きっと私が先に気付いていたら、絵里に同じことを聞いたと思うし。
「ええと……」
 でも、立ち上がって私を見つめているふたりを見たまま、思わず口ごもった。
 ……だって。
 うぅ、そんなに期待に満ちた眼差しを向けられても、困るよぅ。
 なんて言っても次の時限は――……物珍しくもなんでもない、絵里がすでに経験した講義だから。
 ……でも、葉月はやっぱり楽しみなのかな。
 不思議そうな顔を見ながら、ため息が漏れる。

「……ガイダンス……」

 言った瞬間、目の前のふたりは同じような表情を見せた。
 曖昧な……なんとも言えない、微妙な笑み。
「……はぁ」
 聞くまでもなくその顔は、『がんばってね』という無言のメッセージを伴ってのものだった。


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