「…………」
 大学の講義は、ひとコマ90分で行われる。
 つまり、高校時代の50分のほぼ倍ということ。
 だから、1日には4コマしかないけれど、4時限目が終わるころにはすでに日も暮れ始める。
 ……5時限目なんて取るようになったら、18時だもんね。
 でも、これまでの生活とまったく違う学生生活に、戸惑いつつもやっぱり楽しくて。
 次はどんな講義なんだろう、ってわくわくして臨んでいる自分もいる。
 …………のに。
 ………………なのに……。
「…………」
 どうして、大学にまで来てこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
 正直、本気でそんなことを思った。
「――……というわけで、今日はみなさんに、図書館の使い方を学んでいただきます」
 にこにことした顔でそう告げたのは、この時間に講義を行うはずだった心理学概論の先生。
 淡い色のスーツを着込んでいるちょっとふっくらした女性で、優しい笑みが特徴だった。
 ……実は、この『心理学概論』というのは、1年生の前期で取れる唯一の心理学の講義。
 だから、いったいどんな講義なんだろうってずっと楽しみにしていた。
 ちゃんと教科書も買って、まさに準備万端。
 それなのに、いきなり講義が潰れてしまって……挙句の果てには、図書館の使い方だなんて。
 楽しみにしていた分反動が大きくて、ほかのみんなとは違って聞いたときから素直に喜べなかった。
 ……だって、図書館だよ? 図書館。
 ということはつまり――……というか、言うまでもなく。
「それでは、今日はこちらの司書さんにお話を伺います」
 にこにこと手のひらで示された先には、案の定やっぱり、イヤというほど見慣れたウチのお兄ちゃんが立っていた。
「……?」
 ……かと思いきや。
 そこへ現れた、眼鏡をしている女性。
 何やら、こそこそとふたりで話しているのが所々だけ聞こえてくる。
「っ……。……だから……」
「……ふふふ……で、……じゃないですか」
「あのな……」
 眉を寄せている彼と、何やらすごく楽しそうな女性。
 どう見ても、お兄ちゃんが押されているのは明らか。
「……あのぉ……?」
「あ。ごめんなさいねー、おほほほほほ」
「は……はぁ……」
 そんな様子を私たちと一緒に見ていた先生が、恐る恐る声をかけた。
 途端、ぱっとふたりが離れ、女性がお兄ちゃんの背中をぐいっとこちらへ押す。
「それではみなさーん。今から、このお兄さんがちゃーんと説明してくれますからねー。よーっく、聞きましょぉ!」
「うわ!」
「それじゃ、あとはよろしくお願いしますねー」
「くっ……きったね……!」
 飄々とした人だなぁ、というのが印象的。
 ……うーん。
 それにしてもお兄ちゃんって、どんな場所にいても……誰かに使われてるんだなぁ。
 奥の執務室へ逃げていった彼女を恨めしそうに見ている彼を見て、苦笑が浮かんだ。
「あー……えー……」
 軽く咳払いをして、やけにかったるそうに私たちへ向き直った彼が、改めてあたりを見回した。
 ……途端。
 当然とも言うべきか、真ん中に並んでいた私と目が合って。
「…………」
「…………」
 お互い、なんともいえない微妙な沈黙。
 その顔は、『なんでお前がここにいるんだ』と、やっぱり非難めいていた。
 ……私だって別に、好きでここにいるんじゃないのに。
 できることなら、それこそお兄ちゃんじゃなくて祐恭さんに教えてもらいたいのに。
 だもん、そんな顔しないでよね。
「…………」
 お兄ちゃんって、葉月のときもこんななのかな……。
 お昼に『明日が楽しみ』と言っていた葉月の嬉しそうな顔が浮かんで、なんとも切なくなる。

 なんで俺がお前なんかのために、イチイチ時間割かなきゃなんねーんだよ。
 しょうがないでしょ? 私だって、別に好きでここにいるんじゃないもん。
 めんどくせーこと、この上ねーんだっつーの。……ったく。なんで俺が。
 お仕事なんでしょ? ……もぅ。私に文句言わないでよね?

 バチバチと火花が飛び散りそうな、無言の圧力。
 暗雲が間違いなく漂っていることがほかのみんなにもわかったのか、ぼそぼそとした話し声が聞こえ始めた。
 ……うぅ。
 どうして私まで、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう……。
 明らかに、めんどくさそーに私を睨んでいる彼を見たままで、ため息が漏れた。
 ――……とはいえ。
 いつまでも、こんな微妙に険悪ムードを漂わせているわけになんか、もちろんいかなくて。
「……?」
 なんて思っていたら、軽く背を正した彼が大きく息を吐いた。
 ……そして、短く吸う。
 と同時に、顔を上げた。
「新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。ここは、学内だけでなく一般にも開放されている図書館で、建物としては5階建ての規模の大きなものになります」
 …………え。
「このフロアは実質上2階部分になりますが、図書館でいうと1階部分。この下には購買を含めた学生会館が入っているので、ご存知の方も多いでしょう。それでは、今からこの図書館の利用方法を説明したいと思います」
 にっこりと。
 それはもう、これでもかというほどの笑みを浮かべた彼が、手のひらを上に向けて私たちをパソコンの前に案内してくれた。
 今までの態度とは、雲泥の差。
 月とすっぽん。
 ……そういえばこの前、お兄ちゃんが『提灯(ちょうちん)釣鐘(つりがね)』 って言ってたっけ。
 と……とにかく!
 それほどまでに、違いすぎる。
「っ……」
 …………怖い。
 何かあるんじゃないかと、とてつもなく。
 だけど、みんなは彼に惹きつけられてしまったらしく、そちらへと行ってしまった。
 でも、私だけはやっぱり……その場に固まったまま。
 ……うわぁ……。
 パソコンを操作しながら、聞かれたことに対してそれはそれは晴れやかににこやかに対応している彼を見ていたら、いろんな意味でぞくっとした。
 ……うぅうう。
 なんか、鳥肌が……!
「………………」
 微妙な表情から直らない顔を撫でつつ、じりじりと1番後方へ並ぶ。
 ……別に、お兄ちゃんは見えなくていい。
 というより、むしろ見えないほうがちょうどいいから。
 こそこそとパソコンの画面が見える最後列へ移動しながら、声だけで説明を聞くことに専念。
 普段どころか、正直言ってこれが初めて。
 ……こんな態度するなんて、思いもしなかった。
 声も微妙に違うし。
 何よりも、その顔!
 にこやかでかつ、さわやか。
 …………うわぁ。
 ああもう、思い出すだけで、だめ。
「…………」
 葉月がこれを見たら、どんな顔するんだろうなぁ。
 そう考えるだけで、思わずごくりと喉が鳴った。
「――……というわけで、もし検索しても目的の本が出て来なかった場合は、カウンターで申し出ていただければ、我々もお手伝いいたしますので遠慮なくどうぞ」
 まるで、小学校の先生さながら。
 『いいですかー?』
 『はーい』
 思わず、そんな光景が頭に浮かぶ。
 ……所変われば品変わる、じゃないけれど……。
 お兄ちゃんって、仕事中はいつもこうなのかな。
 だとすると、ある意味うなずる部分もまぁ……あるにはあるんだけど。
 でも、こんなに愛想のいい彼を見るのは、なんだか落ち着かなくて困る。
 気持ち悪い……なんて言ったら、『あァ? ナメてんのかお前』なんて叩かれそうだけど。
「瀬那君、ありがとうね」
「いえ、これが仕事なんで」
「いつ聞いても、すっきりした説明だわー」
「はは。それはどうも」
 最後に、質問がどうのということで時間を取ってくれたけれど、頃合を見て先生が先に頭を下げた。
 それに伴い、ほかのみんなも彼へまっすぐ向き直る。
「それじゃ、みなさんでお礼を言いましょうか」
「えぇ……っ!?」
 小学生みたい、じゃなくてこれじゃ本当に小学生そのもの。
 社会科見学みたいで、切なくなる。
 ……そ……それは確かにまぁ、お礼を言うって言うのはいいことだと思うけれど……だけど、ねぇ。
 どうして、こんな嘘をうまく身につけた彼に感謝の言葉を……?
「ありがとうございましたー」
「どういたしまして」
 でも、結局みんなは彼に頭を下げてあいさつをした。
 ……うぅ。
 まさか、ひとりだけしないわけにもいかず、当然私もしたけれど。
「それじゃ瀬那君、また何かあったらよろしくね」
「わかりました」
 どやどやと図書館から出て行くときに、また先生が彼へ向き直った。
 ……ここでも、もちろんお兄ちゃんは笑顔。
 うーん。
 お兄ちゃんの印象が、いろんな意味で変わった気がする。
「……ね、ね、あの人カッコイイよねー」
「ホントだよー! ちょーどきどきした!」
「私……これから図書館通おうかなぁ」
「あはは。気持ちわかるー!」
 ……ごめん。私にはちっともわからないんだけれど……。
 こそこそと彼を盗み見ながらドアへ向かう同じクラスの子たちを眺めながら、苦笑というよりも、妙に疲れた笑みが漏れた。
「…………」
 そのとき、どうにもこうにも気になってというか、怖いもの見たさというかで……ふと彼へと振り返る。
 ……まだあの笑顔なのかな。
 ――……と、思ったら。
「……あれ?」
 カウンターに入った彼は、先ほど楽しそうに絡んでいた、眼鏡の女性と一緒にいた。
 手には、何やら数枚の紙が。
 ……うん。
 やっぱり、顔はいつも通りの不機嫌そうな彼そのものに戻っていた。
「あらっ。早速、瀬那さんにお客様かしらっ」
「……え?」
 まじまじと見ていたつもりはなかったものの、ふと目が合った途端、『きゃ』と彼女が両手を顎元に当てた。
 ……か……かわいい。
 いくつなのかはまったくわからないけれど、その仕草に思わず顔が緩――……みそうになったけれど、振り返った彼と目が合った途端、これまでにないほどイヤそうな顔を見せられ、一瞬で凍りついた。
「なんだ」
 声も、それこそ不機嫌全開モード。
 さっきまでの雰囲気は、微塵もない。
「……いや、すごいなぁと思って。あんなに変わるなんて思わなかった」
「しょーがねーだろ。一応、マニュアルっつーのがあるからな」
 ……やっぱり。
 面倒臭そうに頭を掻いた彼は、『毎度のことだし』と小さく付け加える。
 でも、意外に仕事は仕事できちんとこなすんだなぁ、なんて思いも浮かんだ。
「そういや、さっき祐恭が来たぞ」
「っえ……!」
 思い出したかのように宙を一瞬見上げた彼が、次の瞬間やたらいたずらっぽく笑った。
 ……う。
 思いきり反応してしまった自分が悲しいものの、でも、当然の反応だから何も言えない。
 眉を寄せてひたすら見返していたら、くっくと笑ってから相変わらず性格の悪そうな目で見られた。
「研究室になかった宮代先生の論文を探してるんだとよ」
「……へぇ……」
「就任早々、ご苦労なこったな」
「っえ……! お兄ちゃん、知ってたの?」
「何が?」
「だから! 祐恭さんが……大学に勤めてる、ってこと……」
 私は当然、彼に何も言っていない。
 絵里との会話でもまだ出てこなかったから、葉月が知ってるとも思えない。
 なのに彼は……さも当然という顔でうなずいた。
 …………。
 ……まぁ……お兄ちゃんもここで働いてるんだし、普通にそういう情報が入ってくるのかもしれないけれど。
「いつから知ってたの?」
 当然といえば当然の質問。
 でも、彼にとってはそれ以上に『当たり前』のことだったのかもしれない。
 大して考える様子もなく、すぐに口を開いた。

「去年から」

「…………」
「…………」
「……え……」
「……なんだよ」
 言われた意味がよくわからず、しばらく沈黙してから眉を寄せたとき。
 やっぱり彼も、同じようにわけがわかってなさそうな顔をしていた。
「え、どういうこと……? 去年、って……え……?」
「だから、まんまだって。冬女に赴任したときから知ってたんだよ」
 面倒臭そうに呟いた彼と、その言葉。
 ……だけど。
「ッ……えぇえええぇ……!?」
「うるせ……!」
 当然のように、免疫の『め』の字も持ち合わせていない私には、とてつもなく大きすぎる発言だった。
「ちょっ……え!? どういうこと!?」
「だから、そのまんまだろーが! うるせーな、ったく。アイツは元々、去年の時点で大学に戻る予定だったんだよ。それが、冬女の管理職連中に頼まれて、仕方なく1年勤めたんだ。……まあ、ウチの親父のツテで頼まれたってのもあって、断れなかったみたいだけどな」
 これまで、彼からは一度も聞かされたことのない話。
 でも、考えるまでもなく、嘘か本当かなんてすぐにわかる。
「…………そう……だったんだ……」
 巡り合わせ、という言葉が浮かんだ。
 ……それと同時に、偶然という言葉も。
 聞き終えて、ぞくぞくっと鳥肌が立つのがわかった。
 だって、もしも去年そのまま祐恭さんが大学へ戻ってしまっていたら、きっと一生彼とこんなふうになるなんてなかったと思うから。
 彼がいたから私はこの大学を選んで、合格できるよう懸命に努力した。
 ……だけど。
 元々考えていたのは、まったく違う大学。
 とてもじゃないけれど、あのままの私だったらまずここには入れない。
 そして――……それは彼に会えないことも意味する。
「……そっか、ぁ……」
 ほっとしたような、なんともいえない気持ち。
 彼から視線を外して少し俯くと、笑みがこぼれる。
「アイツ、平日の夜はなるべく研究室にいていろいろやってたんだぜ。ヘタしたら、朝帰りなんてこともな」
「っ……そうなの……!?」
 朝帰り。
 ということはもちろんそのまま――……ほとんど眠らずに、学校へ来たこともあったんだろう。
 だけど、私には言ってくれなかったし、何よりも、学校にいるときの彼はいつだって元気に振舞っていたから。
 ……もしかしたら、私の前でだけだったのかもしれない。
 私が知らない場所では、疲れきっていたこともあったのかもしれない。
「っ……」
 そう思うと、まだまだ自分が彼のほんの一部分しか知らないんだな、なんて悲しくなる。

「でも、そうまでして費やしたのは、お前がそばにいたからなんだぞ」

「……え……?」
「お前と少しでも一緒に居られるように、って……アイツはアイツなりにがんばってたんだ」
 少しだけ、いつものお兄ちゃんと雰囲気が違った。
 ……私の知らない、彼のこと。
 でも、お兄ちゃんにとっては、当たり前の姿。
 だから……なのかな。
 口ではなんだかんだ言っていても、やっぱり大切な友達なんだろうな……なんて、ちょっぴり思えた。
「ありがとう」
「……何が」
「教えてくれて」
 怪訝そうな顔をした彼に、にっと笑みを見せる。
 これまでは、そんな話してくれたこともなかったのに。
 もしかしたら……ほんの少しは認めてもらえたのかもしれない。
 彼にとって大切な友達の、『彼女』という立場で。
「……ったく。終わったならとっとと行けって」
「わかってるってば!」
 しっし、と手で追いやった彼に、眉を寄せてからドアに向かう。
 ――……と、そのとき。
 また、彼に呼び止められた。
「え?」
「いいか? ……今日のことに関しては口外するな」
「……今日のこと……?」
「だから! さっきまでの、営業だよ営業!!」
 いちいち人差し指でびしばしと強調する彼に眉を寄せたところで、やっと意味がわかった。
 営業。
 ……そんなふうに言うんだ。
 でも、ある意味ぴったりだとは思う。
「言わないけど……でも、明日は葉月が見るんでしょ?」
「……うるせーな。だから、言うなっつってんだろ!」
 さも面倒臭そうであり、そして……居心地悪そうな顔そのもので、彼がまた私を払った。
 ……やっぱり、葉月には強く出れないんだなぁ。
 彼女の強さというか偉大さがわかって、やっぱりちょっとおかしかった。
「言うなよ!?」
「……もぅ。しつこいなぁ。わかったってば」
 ドアノブに手を当てて外に出ると、再度念を押された。
 どうやら、よほど言ってもらいたくないらしい。
 ……ある意味、弱点を手に入れた感じだ。
「えっと……瀬那さん、だよね?」
「え?」
 くすくす笑いながら外に出た途端、ふたりの女の子が駆け寄ってきた。
 手には、私と同じ心理学の教科書。
 どうやら、同じクラスの子らしい。
「あの人と知り合いなの?」
 ちらちらとふたりが私越しに伺っていたのは、やっぱり……お兄ちゃんだった。
 ……うーん。
 そんなに期待に満ちた眼差しを向けられると、ちょっと、申し訳ないんだけれど。
「えー……と……兄、なの」
「えーっ! そうなのー!?」
「うそー! すごい!」
 途端、これまでにない大きな声が湧いた。
 ……ど……どのへんがすごいのかは、よくわからないけれど。
 でも、きゃいきゃいと楽しそうに語り合っているふたりは、どうやらすっかりさっきの『営業』にしてやられたみたいだ。
「ねえねえ、いろいろ教えてくれないかなぁ?」
「え?」
「なんでもいいの! あ、私たちも同じ心理なんだー。よろしくね」
「よろしくねーっ」
「……あはは」
 正直、嘘ばかりの彼を信じているということもあってか、やっぱり内心は複雑。
 ……いつか、ホントのことを言って夢を壊しちゃいそうで……ね。
 ちょっとだけ、それがいいのか悪いのか悩むところ。
「……よろしくね」
 でも、同じ心理専攻である、大切な……クラスメイト。
 なるべくならば深く傷つけてしまわないように、違う方向へ導いてあげられるといいな。
 弱々しい笑みを浮かべてうなずくと、思わず小さなため息が漏れた。


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