「…………」
 日本国憲法。
 それはもちろん、言うまでもなくみんなが知っていること。
 名前くらいは……きっと。
「……はふ……」
 一瞬、遠くにある黒板が揺らいだ気がした。
 ……ううん。
 事実、揺れたんだと思う。
 うぅ……眠たいよぅ……。
 欠伸が漏れて、案の定瞳に涙が溢れて。
「……ぁ……ふ」
 再び欠伸が出た。
 こういうのって、我慢すればする程無理なんだよね……きっと。
 とっても眠い。
 それだけじゃなくて、どうしても瞼が下がってくる。
 ……眠たい……。
 すごく……眠……。

「……もしもし?」

「っひゃわぁ!?」
 すぅっと引き込まれるように瞳を閉じた瞬間、とんとん、と誰かが肩をつついた。
 びくっと背を伸ばし、慌てて後ろを振り返る。
 ――……と。
「えっ……あ……え!? せ、先生……!?」
「……コラ」
「はうっ。……う……祐恭さ、ん……」
 そこには、眉を寄せた彼が居た。
「まだまだ、だな」
「……え?」
「咄嗟のときには、まだ『先生』って出るんだろ?」
「……ぅ」
 ちくり、とものすごく痛い眼差しに、文字通り言葉に詰まる。
 冷ややかな視線。
 そこには、『なんで』という言葉がちらほらと。
「ごめんなさい……」
 小さな声しか、出なかった。
 隣に座ってお風呂上りの紅茶を飲む彼を、ただただ見る。
 ……うー……。
 なんか、視線を合わせてもらえないんですけれど……。
 居心地がよくないというよりは、やっぱり不安な気持ち。
 それだけが、身体に満ちる。
「……ま、いいけどね」
「あ……」
「お疲れさま。……よっぽど疲れてるな」
 どうしよう、なんて考えていたとき。
 ようやくこちらを振り向いてくれた彼が、柔らかく頭を撫でた。
 と同時に、もちろん笑みをくれて。
 ……よかった……。
 心底ほっとしたからか、こちらにも笑みが漏れる。
「高校と違って、結構大変だろ?」
「……です」
「特に今はまだ、慣れてないしね。……俺も昔はそうだったよ」
 苦笑を浮かべた彼が、テレビのチャンネルを変えながら懐かしむように言った。
 ……昔。
 年月でいうと、そこまで昔じゃないかもしれない。
 でも、不思議。
 やっぱり、今の彼を見ていると本当に『昔』のように思えてくる。
 祐恭さんも、私と同じように何もかもが初めてだったときもあったんだ。
 当たり前なのに、なんとも想像ができない。
「でも、高校までと違って大学はそれこそ『やろう』と思ったらなんでもできる場所だからね」
「え?」
「遊ぼうと思えば幾らでも遊べる。……もちろん、そこには責任が必ず付いてくるけど」
 私に対しての言葉であろうに、間違いない。
 でも、彼はどこか遠くを見ているかのように、私と視線を合わせることはなかった。
 テレビを見ているようにも見える。
 だけど、その横顔はもっとずっと遠くを……それこそ、まるで彼自身の昔の姿を見ているかのようでもあった。
「だからこそ、勉強したいと思えば幾らでもできる場所だよ。……ここは」
 笑いながらうなずいた彼に、『大学』という場所の本当の意味を教えられたような気がした。
「……そうだ」
「え?」
 そんな彼が、しばらくして小さく呟いた。
 と同時に、こちらへ身体ごと向き直る。
 ……まじまじと見つめてしまう、顔。
 だって、そこにはものすごく嬉しそうで……楽しそうな、笑みがあったから。
「な……んですか……?」
 若干、笑みがひきつった気がする。
 でも彼は、見ていないのか気付いてないふりをしているのかわからないけれど、よしよしとまるで小さな子をあやすかのように、頭を撫でた。

「癒してあげよう」

「……え……?」
「俺が。この手で」
「っ……!?」
 びくっと思いきり反応して、そのままソファに深くもたれる。
 ……ううぅ。
 き……気のせいじゃないよね。
 祐恭さんの瞳、明らかに笑ってないのは。
「っわ……!」
「ほら。おいで」
「あ、あのっ……ちょ……っ……う、祐恭さんっ!?」
 ぐいっと手を引かれて、そのまま強引に立ち上がらされる。
 もちろん、躓きかけたところで彼が待ってくれるはずもなく。
「……ま、まっ……!?」
 結局はあたふたと手を引かれるまま、寝室へ連れて行かれてしまった。

「っ……!」
 ぐいっと1度手を強く引かれたかと思ったら、ベッドへ放られるような形になった。
 反動で深くベッドに沈みこみ、両手をついてようやく倒れた身体を起こす。
「……祐恭さ、ん……?」
 恐る恐る口にすると、リビングの明かりを背負っているからか、表情がはっきりと見えなかった。
 ……怖い、んですけれども。
 光っている眼鏡と、上がっている口角。
 その2点が見間違えないほどはっきりと見えていて、ごくりと喉が動いた。
「まずは、横に――……あぁ、もうなってるのか」
「わぁ!?」
 ころんっ、とまるで簡単に転がされるかのようにして、彼が私を半回転させた。
 ……な……なんて鮮やか。
 一瞬しか触れられなかったのに、こうもあっさりと動かされてしまうなんて。
 …………うぅ。
 うつ伏せの状態って、それだけで妙に怖いんですけれど……。
 何をされるのか見えないから、余計にいろいろ考えてしまって。
 ……はぅ。
 ギシ、と沈んだ足元から、やけに圧迫感がくる気がするのは、果たして思いすごしなんだろうか。
「それじゃ、まずは……肩かな」
「ひゃんっ……!」
「……なんて声出すんだよ」
「だ、だって……! ……くすぐった……ぃ……っ」
 滑るように両肩へ手のひらが乗り、つつっと撫でながら左右に動く。
 っ……ここ、私が弱いって知ってるのに……!
 相変わらず『マッサージ』というものにはほど遠い気がする手の動きに、ぞくぞくと背中が反応した。
「……あー。凝ってるね」
「う! ……いっ……」
「よっぽど真面目に授業受けてるんだな。……孝之なんか、学生時代は肩凝りしたことなかったのに」
 ホント、兄妹とは思えないな。
 ぽつりと付け足した彼は、おかしそうに笑う。
「……ぁ……」
「気持ちいい?」
「…………です」
 ぐっと押された、背骨のライン。
 適度な力の入れ具合が、結構……気持ちいいかもしれない。
 ……それにしても、祐恭さんにこんな能力もあったなんて。
 ちょっと、意外だ。
「背骨に沿ってマッサージしてやると、結構気持ちいいんだよ」
「……ですね。……うー……ぅ、気持ちぃ……」
 ついつい、目を閉じてされるがままの状態。
 こう……なんて言うのかな。
 彼の手の動きが、ホントに気持ちよくて。
 マッサージって、こんなにいいものだったんだなぁ……なんて、改めて実感する。
 ……ううん。
 きっと、本当はそうじゃないっていうのも、わかってる。
 彼がしてくれている、という点が何よりも大きさを占めているに違いないから。

 ぷちん

「っ……ん!?」
 いきなり、なんの前触れもなく締め付けがなくなった。
 締め付け。
 それはもちろん――……胸のあたりに、ずっとあった……はずのもの。
「なっ……ななっ……!? あれ!? な、んで……!?」
 がばっと身を起こそうとするものの、当然、彼に押さえつけられているような状態。
 だからこそ、起きれるはずもない。
「何って?」
「だ、だって今! いまっ……う……その……っ」
 直接的な言葉を大声で言いそうになって、そんな自分をたしなめる。
 でも、完全にうつ伏せ状態なので、振り返ることもできない。
 ……うー。
 もしかしなくても、今ってものすごく不利な状況……なんだろうなぁ。

「邪魔だから」

「……え?」
「そこにあったら邪魔だろ? ほら、エステとかと同じ」
「や……そ……それはまぁ、その……そうかもしれません、けれど」
 どうして、こうもハキハキと滑舌のいい言葉が降ってくるんだろう。
 ……しかも、とっても楽しそうに。
 なんでかなぁ。
 なんか、とてつもなく重たいプレッシャーめいた雰囲気が、その言葉に纏わり付いている気がするのは。
「……祐恭さん……?」
 恐る恐る呟いたつもりはなかったんだけど、口に出したら声がすごく小さくなっていた。
 後ろを見れない。
 でも、せめて少しだけ。
 そんな思いから首を横に向けた――……とき。
 いきなり、彼の手が背中から肩へ回った。
「……何?」
「ひぁあっ……!?」
 ぼそり、と吐息を含んだ声がすぐ耳元で聞こえ、否応なしに息がかかる。
 当然のように身体がしなり、声が漏れた。
 ……ち……近いっ。
 背中全体に彼を感じて、ごくりと喉が動く。
「わ、わっ……!?」
 するすると彼の手のひらが滑り込み、シャツの上から――……胸へと近づく。

 まるで、このときを待っていたかのように。

「……動けないもんな?」
「っ……! 祐恭さっ……!」
 ぞくりと背中が粟立ち、執拗なまでに彼が耳元で囁く。
 低い、甘い声。
 ……力なんて全部溶けてなくなってしまいそうな、強い……媚薬にも似た、それ。
「さぁ……始めようか」
 くす、と小さく笑った彼の声は、やけに楽しそうに聞こえた。


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