一緒の車で、一緒の家を出て、一緒の場所に向かう。
 ほかの誰と比べても、これはとてつもないほど幸せで、ものすごく恵まれている証。
「……それじゃあ……いってきます」
 彼に笑うと、軽くうなずいてからやっぱり笑みをくれた。
「いってらっしゃい」
 こうして何度送り出してもらっただろう。
 ……何度、優しく見届けてもらっただろう。
 一緒に過ごせるようになって、まだ数えられるほどしか過ぎてないのに、もう溢れそうなほど沢山に感じる。
 幸せ。
 肩を並べて同じ場所へ歩き出すと、自然に顔がほころぶ。
 ――……でも。
「……それじゃ」
 いつも決まって、同じ場所で彼は足を止めた。
「いってくるよ」
 心なしか、このときの彼の言葉はいつも静かすぎる。
 ……そして、その表情も。
「いってらっしゃい」
 並んでいた肩が離れ、距離を大きくしながら……その姿を小さくする。
 だから……振る手をいつしか弱く握ってしまう。
 それが、クセ。
 同じ場所に違いないのに、決して『同じ』ではない場所。
 それが、ここ。
 ずっと目指して走って来た、七ヶ瀬の大学。
「…………」
 同じ、なんだよ。
 ……なのに、それはここまで。
 ここから先、彼は右に。
 私は、左に。
 それぞれ、目指す場所がまるで違う。
 唯一の共通である――……学食。
 そこでも、会える確立はすごく低かった。
 ……ううん。
 『会える』んじゃなくて、『見かける』が正しい。
 だって、これまでも何度か彼を見たことはあったけれど、ただ『見る』だけであって、決して声をかけたりしなかったから。
「…………はぁ……」
 すっかり彼の姿が見えなくなったあと、独り教室へと足を向ける。
 今日は、見られるだろうか。
 ……せめて……ひとことでも、あいさつができれば全然違うのに。
 伏せがちにした顔を上げることができないまま、重たい足を動かす。
 学食で彼に会える確率は、わからない。
 ……それでも。
 やっぱり、期待はするから。
「……………」
 あの場所に行けるのは――……今から、3時間20分先。
 それまでの時間、今日こそはせめて集中しなければと改めて自分を律するのが、最近の日課になってしまっていた。

「あ」
 まさに、『今思い出した』と言わんばかりの顔。
 絵里とは違い、ゆっくりと緑茶のペットボトルをテーブルに置いた葉月が、まっすぐ私を見つめた。
「羽織、明日の3限って……休講になったの、知ってる?」
「え!?」
 まったく、予想してなかった内容。
 それだけに、お箸でつまんだご飯がお弁当箱の中に落ちる。
「えっと……教育学概論だったかな」
「だね、その時間は」
「朝、メール来なかった? 休講の案内って」
「えぇ!? ううん、なかったよ!?」
 きょとんとした葉月を見たまま、慌てて首を振る。
 と同時に、テーブルへ置いたままの携帯へ。
「…………ん?」
 ぱか、と開いてそこで止まる。
「…………」
「…………」
「……羽織……?」
 画面を見たまま固まること、数秒。
 不審そうな絵里の声でそちらを向くと、少しだけ首が軋んだ音を立てた。
「……えっと……携帯の電池、切れてるみたいなんだけど……」
 そのときの私の顔は、笑っていただろうか。
 ……それともやっぱり、情けない顔だったのかな。
 どっちにしても、目の前のふたりは同じように瞳を丸くしたけれど。
「えぇええぇえ!?」
 まるで、心底『シンジラレナイ』とばかりに叫んだのは、絵里。
「そうなの……?」
 そんな彼女とは逆に、どこか心配そうな顔をしてくれたのが、葉月。
 ……うーん。
 こうも毎日のように一緒に居て、割と相性とかもいいみたいなんだけど……なんだかんだ言って、やっぱり性格は違うらしい。
「ありえない! マジで、ありえないわよ! そんなん!! えぇ!? アンタねぇ、女子大生にあるまじき行為よ! あるまじき!!」
「……そこまで言わなくても……」
「ったく。……どーりで電話しても通じないと思ったわよ」
「え、ごめん!」
 どんだけ、電波の悪いトコに居るのかと思えば。
 やれやれとばかりに両手のひらを肩の高さまで上げて首を振った絵里を見て、何も言えなかった。
 一気にまくし立てるだけまくし立てた絵里は、どっかりと椅子に座り直して腕を組む。
 ……うぅ。
 何もそこまで、ジト目を向けてくれなくても。
 眉を寄せてそんな絵里を見ていると、やっぱりまたぽつりと『信じらんない』と呟いた。
「ふっつー、朝出て来るときに気づかない? ……っていうか確認しない? その辺」
「……そう……なんだけど」
「だいたい、前の日の夜に気づくわよ? 充電くらい。ねぇ、葉月ちゃん?」
「え? ……んー……そう、かな」
 苦笑を浮かべて微かにうなずいた葉月を見て、またため息が漏れる。
 ……うぅ。
 どうせ、抜けてますよぅだ。
 頼みの綱である葉月にそこを肯定されたとあっては、正直、何も言えない。
 ……とほほ。
「…………それともぉ」
「え?」
 一瞬、きらりと絵里の瞳が光った気がした。
 見間違いなんかで感じることのない、ぞくっとした鋭い感じ。
 ……これは間違いなく、何かよからぬことを言われる前触れ。
 『も』の部分が少しだけ伸びたのも、そのひとつだろう。

「昨日の夜は、彼氏ぃに忙しくてそれどころじゃなかった?」

「ごほっ!?」
 顎に指を当ててちらりと視線を向けた絵里は、ものすごく楽しそうだった。
 お茶を飲みながら聞いたのが、まずかったのかもしれない。
 そして『いったい何を言い出すのか』と、彼女をまじまじ見ていたことも。
「あらあら。……図星なのかしらん?」
「ちがっ……! もう、絵里! ヘンなこと言わないで! っ……そんなんじゃないんだから!」
「ムキになっちゃって。……かーうぁーいーいー」
「っ……! 絵里!」
 にやにやと頬杖をつく絵里を見ながら、私は怒ってる。
 ……と、思う。
 なのに絵里は、赤くなった顔を見て確信したかのようにさらに瞳を細くして『いいわねー』なんて笑い出した。
「もう! そんなんじゃないの!」
「そぉ?」
 にまにま。
 ぶんぶん首を振りながら精一杯否定しても、やっぱりダメ。
 ……ダメ。
 …………うぅ……。
 その、真正面からにまにま笑うの、少しだけやめてくれないかなぁ。
 なんだか、恥ずかしくてたまらない。
 やっ、そ、そのね?
 もちろん、あの携帯の充電を忘れた理由は、そんなことじゃないんだけど。
「……ま。コトの真相は、せっかくだし本人に聞いてみましょ」
「え?」
 視線を逸らして、自身を落ち着かせるべく紅茶に口づけたとき。
 がたん、と音を立ててテーブルに両手をつきながら絵里が立ち上がった。
「……?」
「……??」
 だけど、顔を見合わせた私と葉月はまったくわけがわかっていない。
 ……相変わらず、一挙一動というか、すべてにおいてというか……。
 絵里のすることは、まだ掴めないときがある。
「っ……!?」
 ――……のも、束の間。
 カツカツとヒールを高らかに鳴らせて歩いて行った先を見て、慌てて私も彼女のあとを追っていた。
「せ――」
「すとっぷ……!!」
 にこやかに手を上げて声をかけようとした絵里を、すんでで捕まえる。
 決して、相手方に気づかれないように、声には細心の注意を払いながら。
「ちょっ……ちょっと待って! ねぇ、何するつもり?」
 ひそひそ声のこちらに対して、彼女はあっけらかんとした態度。
 もしかしたら、なんで私が止めたのかさえも気づいてくれてないかもしれない。
「だって、ちょうどいいじゃない」
「……なんで?」
「すぐそこで、ごはん食べてるんだもん」
 けろり。さらり。
 ぱっちりした瞳でまばたきした絵里は、さも当然と言う顔で『なんで?』と首をかしげてみせた。
 おまけのおまけに、そちらをしっかり指差しながら。
「そ……っそうじゃないでしょ……!」
 ごしょごしょごしょ。
 慌てて手を握って下ろし、首を横に振る。
 あまりにも小ざっぱりした言い分なだけに、危うく手を離してしまうところだった。
 ……なんて迷いのない発言なんだろう。
 いつも思うけど、絵里ほど純粋にストレートな人はこれまで会ったことがない。
 …………と、思う。
 ぅ……。
 祐恭さんも……似てないこともないんだけど……。
「ってなワケだから、聞いてみましょ」
「だっ……だめだったら! ねぇっ!」
「いーじゃない、別に、減るモンでもなし」
「そうじゃなくて!」
 あっけらかんというか、なんというか。
 まったく私の制止なんて聞いてないかのように、すたすたと絵里は歩き出した。
 そんな彼女の手を掴み、引き寄せるように力を込める。
 ……でも。
「…………あーもー、しつこいわね。邪魔しないの!」
「っわ!?」
「いいじゃない、別に! どーせ、一緒にいるのは純也と孝之さんなんだから」
 何か問題でもあるの?
 ぴたっと止まったかと思いきや、くるりと私を振り返りながらため息混じりに手を振り払われた。
 ……すべてが問題だと思うのは、私だけなんだろうか。
 どう言葉をついだらいいのか迷って葉月を見ると、苦笑を浮かべたまま、絵里の動向を見守っていた。
 ある意味、一瞬ではあったと思う。
 だけど、体感時間としたら……彼女が祐恭さんのところへ歩いていくまで、随分と長くスローモーションめいて見えた。
「こっんにっちは」
 にこにこにっこり。
 両手をかわいらしく組んでいそいそとテーブルに近づいた絵里は、弾んだ声で笑みを浮かべた。
 すぐ隣のテーブルにいるほかの先生方なんて、気にしていない。
 ……というか、もしかしたら気づいてすらないのかも。
 幾ら学食内がざわ付いているとはいえ、やっぱり、いかにも『教職員』の雰囲気が漂うこのテーブルは、周りから見ればすべてが違って。
 目立つ、のだ。
 言うまでもなく。
 そんな所ににこにことキレイな子が近づいていったら、話し声さえ聞こえずとも、何事かと注目を浴びるのが必然。
 ……だから、絵里を止めたんだけど。
「って、あら。何よ祐恭先生。……お弁当?」
「まぁね」
 ……うぅ。
 一瞬、かっちりと視線がぶつかって、ニヤっとした笑みを見せられた。
 途端に、顔が赤くなるのがわかる。
 ……うぅ、熱い。
 慌てて頬に手を当ててから視線を逸らすと、視界の端に、嫌そうに眉を寄せたお兄ちゃんが見えた。
「……ふむ。愛妻弁当ね」
「ちがっ……!」
「似たようなモンでしょ。別に否定する必要ないじゃない」
「絵里!」
 どうして、こうもさらりさらりと当たり前みたいな顔ですごいことを言えるんだろう。
 本当に、尊敬する。
 ……それにしたって、『ふむ』って何?
 そこで顎に手を当てつつ納得する理由が、あまりよくわからない。
「で?」
「ん?」
「……お前はイチイチ、祐恭君にそんなツッコミを入れるために来たのか?」
 わざわざ、ここへ。
 お箸を持ったまま面倒臭そうに絵里を見た田代先生は、大げさにため息をついた。
 そんな彼とすぐにぶつかる、視線。
 それは、明らかに『ごめんな羽織ちゃん』という謝罪のものだった。
「いいじゃない別に」
「……よかないだろ」
「いーのよ。どうせ暇でしょ?」
「メシ食ってんだろうが」
「やっぱり、暇なんじゃない」
「違うっつーの」
 腕を組んだまま対峙する、絵里。
 眉の寄り具合といい、なんといい、すべてにおいてやっぱり……機嫌はよくなさそうだ。
 ……うぅ。
 きっと、絵里がこんなふうに田代先生に接するのは高校までなんだろうなって思ってたんだけどなぁ。
 だって、高校では確かに田代先生はみんなにとっても『先生』で、だからこそ絵里がヘンに意地を張っちゃっても仕方ないと思うから
 ……それなのに。
「何よ」
「……なんだよ」
 ジリジリとぶつかっている視線からは、相変わらず青い火花が飛んでいた。
「え?」
 ――……そんなとき。
 黙々とお弁当を食べてくれていた祐恭さんが、絵里を見ていた私の腕を叩いた。
 まばたきすれば、お箸で――……ブリの味噌漬けをつまんでいる。
「これ、結構うまいかも」
「……ホントですか?」
「うん。俺好み」
「っ……よかったぁ……」
 にっこり微笑まれて、つられるように笑みが漏れた。
 心の深い部分が震えて、じわじわと身体いっぱいに嬉しさが満ちる。
 にまにま笑っちゃうのって、やっぱり……仕方ないよね。
 大好きな人に褒められるのって、自分を丸ごと肯定してもらえることだもん。
「………………はっ!」
 ひとりでにまにまといろんな満足に浸っていたら、祐恭さんとはまた違う種類の視線が向けられているのに気づいた。
 ……ち……ちくちくというよりは、興味半分というか……お……面白がってるというか。
「ほぉーらみなさい。……なんだかんだ言って、アンタが1番ここに来たかったんじゃない」
「っ……そんなんじゃ……!」
「あーるーのーよ。……ね? 葉月ちゃんもそう思うわよね?」
「そうだね」
「葉月!?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべたまま手のひらを上にした絵里に、にっこりとうなずく……まさに予想外の反応。
 だけどその顔はなんともいえない晴れやかなものだった。
「ま、そーゆーワケ。……わかる? 純也」
「……わからん」
「…………ったく。使えないわね」
「何ぃ?」
 にこにこモード全開で笑いかけた絵里へ、田代先生は普通の顔で即否定。
 それがどうやら不機嫌モードへのスイッチを押してしまったらしく、ぷいっと顔を背けた絵里は――……。
「っわ!?」
「行くわよ、ノロケお嬢様」
「え、あ、わっ!? 絵里!?」
 がしっと私と葉月の肩を組んで、出入り口へと歩き出した。
 そのとき振り返ってみると、苦笑を浮かべてこちらを見ている祐恭さんが見えた。


目次へ  次へ