「……ったく。だからヤなのよ」
さっきから、ずっとこの調子。
学食を出て中庭のベンチに移動した今も、視線はたびたび学食に向けられていた。
片手にはまだ、あのとき持っていた飲みかけのジュースが握られている。
表情は、相変わらず晴れない。
…………うーん……。
「ねぇ、絵里」
「ん?」
どっかりと背を預けながらストローをくわえた絵里を見ると、上目遣いで応えてくれた。
ぱっちりした大きな瞳。
だけど、やっぱり機嫌悪そうな眉は変わらない。
「……もしかして……田代先生と、ケンカでもしたの?」
一応『もしかして』と保険をかけておく。
恐らく、ほとんどと言っていいくらい間違いないと思う。
……それでも、一応は絵里の機嫌を損ねないためにも、直接的なことは言わないでおく。
「…………なんで?」
しばらく、正面を見つめてジュースを飲んでいた。
ガラス張りの、大きな学食。
その奥に座っていた、彼を見つめるかのように。
「んー……なんで、かな。……でもわかるよ? 私」
なんとなくなんだけどね。
ぽつりと付け足すと、苦笑が漏れた。
「…………そう」
長い長い沈黙。
そのあと絵里が俯いた。
今日は、4月とはいえ十分暖かかった。
朝、家を出るときはやっぱりまだ肌寒かったんだけれど……こうして日向にいると、とてもじゃないけれど微塵も感じられない。
昨日までよりもずっと、中庭に出てごはんを食べている人の姿も見えるし。
「……私たち、ずっとこのまま行くのかな」
「え……?」
「ケンカばっかりして、みんなにバレちゃうくらい態度に出してるのに……なのに、純也はわかってくれないのよね」
最初は、ぽつりぽつりと俯いたままだった言葉。
だけどそれが、今では悲しそうな笑みを浮かべながら続けられていて。
「……絵里……」
『仕方ないのかな』なんて弱く笑った彼女が、あまりにも小さくてとても切なくなる。
……4月。
もう高校生じゃない、私たちの始まり。
もしかしたら、絵里もそこを知ってほしかったのかもしれない。
伝えたかったのかもしれない。
……ほかでもない、大切な彼に。
「素直に言っちゃったらどうかな?」
「……え?」
どれ位、静かな時間が過ぎただろう。
黙ったまま暖かい日差しを受けて、ただただ何かを待っていたかのような……そんな時間。
あたりの喧騒がまた耳に届いたのは、葉月が微笑んで絵里の顔を覗き込んだときだった。
「絵里ちゃんが、田代先生に『こうしてほしい』って思ってること、全部……伝えたらいいんじゃない?」
にっこりと微笑まれて、絵里は少し瞳を丸くした。
――……でも、それは一瞬。
すぐにまた、つらそうに眉を寄せてしまう。
「……けど……。……無理」
「え?」
「ダメよ。……私、ふたりと違ってそんなふうにできないもん」
ぽつりぽつりと囁かれた言葉は、まるで告白。
地面を見つめる眼差しも、どこか弱い。
……不思議。
こんなに、絵里が素直に自分のことを誰かに聞いてもらおうとするなんて、なんだか久しぶりだ。
……それだけ……思いつめている、のかもしれない。
でも、待って。
私にはそうは思えなかった。
どっちかって言ったら――……そう。
彼女が田代先生に望んでいることそのものを、自分自身がまずしてみたように。
「駄目なことなんて、何もないよ」
「っ……」
「もしかしたら……田代先生も、絵里ちゃんがそうしてくれるのを待ってるのかもしれないじゃない?」
静かに響く、葉月の声。
それが……絵里だけじゃなく、もちろん私にも届いて。
……なんだか少しだけ、じんとする。
今までは平気だったのに。
なのにまた……考えてしまいそうだ。
ここ数日、私が思っていたことを。
「……私……」
「え?」
「私、もね……? ……悩み、っていうか……ずっと考えてたことがあるの」
おずおずと手を上げる代わりに、そっとふたりに眼差しを向ける。
もしかしたら、縋り付くようなカッコ悪いものだったかもしれない。
意外そうに瞳を丸くしたふたりを見て、そう思う。
「一緒に住んでるのに……すごく我侭だけど……。……大学で、前みたいに会えないのが……結構、つらくて」
「……羽織」
「正直、まだなんだか慣れないの。……ヘンだよね。家に帰れば、一緒にいられるのに」
最近特に思った。気づいた。
なんて自分はこんなに我侭で自分勝手なんだろう、って。
――……高校生のとき。
あのときは、みんなに自分たちのことを何ひとつ話せなくて、だからこそ我慢しなきゃいけないことばかりだった。
でも、今は違う。
彼が一緒に住むことを承諾してくれて、今では何もかも一緒。
同じ場所に帰って、そこから行く先も同じ。
でも……前とは違う。
いつだって笑いかけれて、繋ごうと思えば手だって繋げる。
目を合わせても、すぐ離さなくて済む。
誰よりも近くにいて堂々としていられる。
『彼が私の大切な人なの』
そう、いつでも言える立場になった。
……それなのに。
「見てるだけ、なの。……ううん。それができれば、いいほう。ほら、理学棟ってあっちでしょ? 私たちは、このあたりの建物しか使わないから」
七ヶ瀬のキャンパスは、思っていたよりもずっと広かった。
外から見ていたときはそこまで思わなかったんだけれど、実際にあちこちで授業するようになると、思う。
高校までと、全然違うんだ……って。
学部ごとにそれぞれの学棟がほぼ決まっているから、すごく遠くの教室に足を運ぶなんてことはまずない。
だから、祐恭さんと学内で会わないまま家に帰ることも多い。
朝は大抵一緒の時間に出てくるんだけど、帰りはもちろん別々。
朝、『いってきます』をしてから家に帰るまではずっと、彼とは別れたままの状態。
……だから、今日は本当にラッキーなんだと思う。
学食で見かけることは確かにこれまでも何度かあった。
私と同じ中身のお弁当を持って出かける、彼。
それだけが唯一の繋がりで、ちょっとだけ嬉しくもある。
でも……大抵は学食で姿を見かけても、さすがに声をかけられなかったんだよね。
……彼に迷惑なんじゃないか、って。
こんなふうに思ってるのは、私だけなんじゃないか、って。
ずっとずっと、迷っていたから。
だから本当は、絵里が声をかけてくれたとき、すごくすごく嬉しかった。
……久しぶりに、彼と近くで話せたから。
高校までは、行こうと思えば彼の元へ行けた。
他愛ない話やあいさつしかできないけれど、それでも、十分に自分を充電できた。
…………だけど今は、それができない。
「……高校とはもう違うんだもんね」
彼と同じで、絵里との関係も高校までとは違う。
私や葉月はたまに教室が同じだったりするんだけれど、絵里とは朝も行く先が違うからまず会えない。
だから、ほとんど毎日お昼ごはんのときが初めての『おはよう』。
午後からもまた違う場所へ行かなきゃいけないから、お互いそこがその日に会う最後の時間でもある。
……だからなのかな。
もしかしたら、祐恭さんだけに抱いていることじゃないのかもしれない。
絵里にも、そうなんだ。
これまでは、いつだってそばにいたから。
近くの席にいて、毎日どこへ行くにも一緒だったから。
だから――……私……独りでいるの、苦手なんだ。
あまりにもこれまで恵まれてすぎていて、だからこその、今。
……ああ、そうか。
私、ずっとずっと……いつでも誰かがそばにいてくれたんだ。
だから、これまでは寂しくなかったんだ。
「………………」
ようやく、気づいた。
自分自身が、いつも誰かを頼りにしていたことを。
『寂しい』
そんなこと言ったら、沢山の人に怒られてしまうだろう。
何を言ってるんだろう、って自分でも思う。
昔に比べたら、今なんて逆にとても恵まれすぎているのに。
「……羽織も、ね」
「え?」
しばらくまた、静かな時間が流れた。
誰が何を言うでもない、ただただ穏やかな時間。
でも、それを止めてくれたのは……やっぱりまた、葉月だった。
浮かべているその笑みは、心なしかすごく楽しそうに見える。
「自分の思ってること、素直に言ってみたら?」
「……でも、私のは……! ……っ……我侭、だから……」
我侭だって、自覚してる。
だけど、まだどうしても割りきれない自分もいる。
……だから、我侭なのにね。
子どもと一緒なのに。
「話をしたいって思うことは、我侭じゃないよ?」
「……でも……」
「普通でしょう? ……ううん。自然、って言ったらいいかな」
「え……?」
「好きな人とは、沢山一緒にいたい。会いたい。……気持ちをわかってほしい。そう思うのは、当然でしょう?」
「…………」
「…………」
ストレートな言葉に、絵里と顔を見合わせていた。
欲しかった答え、であるに違いない。
でも、こうして言われるとあまりにも自分がうじうじ考えていたことが、下らないことすぎて。
当たり前というか、外から考えれば簡単なのに、自分がずっと悩んでいたなんて……ちょっとだけ、『あれ?』って思っちゃう。
びっくりするくらい、簡単に答えが出てきて。
「……ふたりは、とってもかわいいのね」
「っ……」
「……なっ!」
そんな私たちを見ていた葉月が、ふふっと楽しそうにまた笑った。
途端に、かぁっと頬が赤くなる。
「これだけ想われてるんだもん。田代先生も瀬尋先生もふたりの気持ちを聞いて、怒ったり呆れたりしないと思うよ?」
首を微かにかしげた葉月は、そういって優しい目で私たちを見た。
…………。
………………。
……えっと……なんだか、カウンセリングを受けてるみたいに思うのは、私だけなのかな。
昔テレビで見た、『なんとかの母』という番組が、頭をよぎる。
「ね? ため息なんかついてたら、幸せがどんどん逃げて行っちゃうんだから」
くすっと笑ってみせた彼女を見て、自然に……絵里と顔を見合わせる。
当然のように、やっぱり葉月に対しては何も言えなくて。
「…………」
「…………」
そのときの絵里の顔は、心なしか赤かったように思えた。
|