――……その日の夜。
珍しく私にしては、行動が早かった。
……もしかしなくても、絶対、絵里や葉月の言葉で自覚したんだと思う。
『自分が変わらなきゃいけない』ってことを。
「……祐恭さん」
「ん?」
お風呂上がりの、のんびりした時間。
……でも、それは私だけ。
彼は夕食後からもうずっと、パソコンの前に座ったままだから。
「どうした?」
キィ、と音を立てて、彼が椅子ごと私を振り返った。
その顔は、いつもと変わらない。
……当然だろう。
だって、本当は今すごく忙しいはずなんだもん。
本当ならば……私なんかに構ってられないはずなんだもん。
なのに……私はまたこうして、彼の邪魔をしていた。
……気づくのが遅いなぁ、っていつも思う。
でも、思うだけで次に繋げられないなんて、小さな子どもよりひどいかもしれない。
「……あの……」
ソファに独りで座って、ずっと彼の背中を見ていた。
テレビは、邪魔になるだろうからって付けなかったんだけれど……今は結局、ニュースが流れている。
お風呂から上がって、のんびり時間をすごして。
……そして、ニュースの時間。
正直言えば、これはもう寝るに絶好のポジション。
……だけど、今日だけはダメ。
寝ないって決めたし、寝ちゃいけないって思ったから。
彼に、ちゃんと……聞いてもらうんだ、って。
我侭だけど、ちゃんと話して、そして意見を貰うんだって。
……祐恭さんは、どう思うのかな……。
ほんの少し、そこが心配なんだけれど。
「その……折り入ってお話があるんですけれど……いいですか?」
ソファに両膝を折り、正座して見つめる。
すると、その瞳が一瞬丸くなったように見えた。
「……どうした?」
さっきの言葉とは、少し……ううん。
まるで雰囲気が異なっていた。
まさに『どうした?』って感じの雰囲気。
寄った眉からしても、心配をかけてしまっているみたいで申し訳ない。
「あ! ……あの、えっと……今じゃなくてもいいんですけれど……!」
パソコンを落としてからこちらに歩いて来た彼を見て、慌てて手を振る。
……って、遅いよね。
本当なら電源を落とす前に言わなきゃいけなかったのに。
「俺にとっては、今じゃなきゃ困るよ」
「っ……」
すぐ隣に腰かけた彼は、肩を引き寄せて静かに髪を撫でてくれた。
「……すみません」
途端に、申し訳なさから頭を下げる。
――……けど。
「あ……」
「なんで謝る?」
「っ……すみ……ぅ……ごめんなさい」
「……ったく」
頭をぽんぽんと叩かれて彼を見ると、ため息混じりに『違うだろ』と付け加えた。
つい出てしまう、謝罪の言葉。
……私の、クセと言えばクセのようなもの。
でも、重ねて詫びてしまった私を彼は苦笑して許してくれた。
「どうした?」
ふわり、と彼の腕がまた私を抱き寄せる。
温かくて、すごく落ち着く場所。
……どこよりも、何よりも、好きでたまらない。
特別な……私だけの。
「……怒ったり……しない、ですか……?」
「は?」
「っ……だ、だからっ! えっと、その……呆れたり、とか……」
しどろもどろに、彼を見ながら手を振る。
怪訝そうなというよりは、どこか呆れているような……なんともいえない顔。
……でも、当然かもしれない。
だって、何も言ってないのにいきなりヘンなこと言い出したら、こんな顔すると思うから。
「……聞く前に言われてもな……。まぁ、内容によるけど」
「え!?」
「冗談だよ。……つーか、何もそんな反応しなくても」
「……う」
顎に手を当てながら宙を見つめた彼に、つい大きく反応してしまった。
途端、おかしそうに笑いながら首を振る。
……うぅ。
なんだか、ものすごく遊ばれてる気が……。
なんとなく、ペットの気持ちがわかった気がする。
「それとも、何?」
「……え?」
くすくす笑っていた彼が、私の顔を覗き込んだ。
近くにある、彼の顔。
少しだけ影が落ちていて、いつもと雰囲気が違うせいか、どきどきする。
「そんなに、後ろめたいことしてるの?」
「っ……してません! ……け、れど……」
「けど?」
「……ちょっと……自信ない、です」
「なんだそりゃ」
言ったはいいものの、やっぱり詰まる。
ふっとおかしそうにソファへもたれた彼を見ながら、でも内心はちょっとほっとしていた。
……だって、言えないもん。
真正面からまじまじと顔を見られたままじゃ、とてもじゃないけど……恥ずかしくて。
絶対に目を見れない自信があるし、何よりも、顔が赤くなってしまって途中で言葉に詰まるに決まってる。
だから、このほうがポジション的にはよかったりして。
……今なら、言えるかな……なんて、ちょっと思った。
「……寂しいなんて言ったら……怒りますか?」
彼が作ってくれた間のあとで、膝の上に組んだ両手を見つめる。
でも、真正面を向いてしまえば、そこにはテレビがあるからやっぱり今だけは、このほうが落ち着く。
「……大学に入ってから、祐恭さんと会えなくて。……たまに見れてもやっぱり……『見てる』しかできなくて……」
寂しい。
そんなことを言われたら、どんな顔をされてしまうか。
だって、『まだ、これ以上を望むの?』なんて、沢山の人には呆れられるに決まってる。
今がどれだけ満たされていて、どれだけ幸せが溢れているかなんて、自分が1番よくわかってのに。
……それなのに。
私はまだ、こうして彼にねだるばかり。
我侭以外の何物でもないのは、わかってる。
こんなふうに気持ちを伝えてしまって、それで彼が困ってしまうんじゃないか……ってことも。
「自分でも、我侭を言ってるっていうのはわかってるんです。でも……あの、なんていうか……」
たとえ、こんなことを告白したからといって、特別何かをしてほしいなんて言うんじゃない。
だったら言うな、なんて言われてしまいそうだけれど……。
でも、このままうじうじしてるのは、なんだか違う気がして。
一緒に居られるようになった今だからこそ、何か、あるように思えて。
…………でも。
本当は、全然違うんだ。
ただただ私は、きっと彼からの言葉が欲しいだけなんだと思う。
我侭を言ってみせて、ごねてみせて。
彼には、『面倒臭い我侭な子』としか映らないかもしれない。
……それでも。
それでも私は、自分の思いを知ってもらいたかった。
――……なんて、こんなことを思う時点で、押し付けがましい傲慢なのかもしれないけれど。
「……なんだ」
「え……?」
言っては黙り、言っては黙りの繰り返しだった。
小さく聞こえてくるニュースの音だけが、妙に気になって。
ときおり聞こえる時計の秒針のせいか、今までの沈黙の時間がやけに長く感じた。
「別れ話でもされるのかと思った」
真正面を向いたままだった彼が、ゆっくり私を見てから――……柔らかく笑った。
それはまるで、彼らしくない『ほっとした』表情にも見えて。
瞳が丸くなると同時に、身体へ力が入る。
「ッ……そんなことっ!!」
「いや、だってさ……急に改まったりするから」
「……そ……れは……」
「あー。びっくりした」
急速に、するすると時間が流れ出したように感じた。
慌てて首を振った私に、くすくす笑いながらソファへ深くもたれる彼。
そんな姿を見て、こちらが逆に……頬が染まった。
熱くて、急にどきどきと心臓が高鳴るのがわかる。
なんだろう……。
彼の顔を見ていたら、急に……懐かしいような、そんな不思議な気がして。
…………そう。
まるで、初めて彼を見て自分の気持ちを実感したときのような、そんな雰囲気があった。
「っあ……」
ふわり、と頭の上に彼の手が乗った。
温かい、大きな手のひら。
滑るように、ゆっくりと撫でてくれる。
「嬉しいよ」
「……え……?」
一瞬、彼が微笑んでくれた意味が、ちゃんと受け止められなくて。
しばらく経ってから、やっと首が横に動く。
「っでも……! 迷惑、ですよね? ……こんな……」
だって、自分でも我侭しか言ってないのがわかるから。
……ある意味、ずるいことをしてるんだもん。
でも彼は、くすくす笑ったままでゆっくりと首を横に振る。
「まさか。……嬉しいんだって」
「けどっ……!」
「俺も思ってたから」
「っ……え?」
予想外とは、まさにこのこと。
ほんの少し照れくさそうに視線を逸らした彼を見て、また瞳が丸くなる。
「前までと違うんだな、って……実感するよ」
「……前……?」
「そ。高校のときと、ね」
さらさらと髪を弄りながら、懐かしむような瞳を見せる。
それが、ちょっと嬉しくて。
……ほんとに、同じなんだぁ。
私も、やっぱりこれまで受けていた授業とのギャップが、1番大きかったから。
「ちょっと前までは、授業っていえば全員が女の子で、しかもその中には……羽織がいたろ?」
「……ん……」
「でも、今じゃ9割が男だよ? 窓締めきったりしたら、むさ苦しくて……実際、男クサいんだよなー。理系の講義って」
名前を呼んでくれたときに目を合わせて微笑まれ、胸の深い部分が震える。
……えへへ。嬉しい。
愛しげに見つめられるのは、やっぱり好きだから。
ちょっと恥ずかしいような気もするけれど……でも、ね。
彼にしてほしいことだから、本当はもっと……なんて思ってる自分もいる。
触れてくれながら話してくれるのは、嬉しくて。
『男ばっかりってのも、ナンだよな』なんてソファに思いきりもたれて眉を寄せた彼を見て、苦笑が漏れる。
「でも、絵里ちゃんとはよく会うけどね」
「あ、やっぱりそうなんですか?」
「うん。なんか……講義以外でも、研究室あたりでよく会うんだよ」
「……研究室……?」
「うん。ざっくばらんに言えば、俺の部屋」
「っ……え! 大学に、ですか?」
「うん。……あれ? 知らなかった?」
「知りませんよ! そんな!」
意外そうな顔をされて、こっちが慌ててしまう。
ふるふると首を振ってから身体を起こして彼を見ると、何度かまばたきを見せてから……あれ?
「……え……?」
「いや、別に」
一瞬開いた口を閉じてから、にやっとした笑みを見せた。
……なんだろう、この感じ。
なんだか、ものすごくもっと突っ込むべきのような気がしないでもないんだけれど……。
「……祐恭さん?」
「ん? いや、なんでもないよ。……あー、絵里ちゃんはあれだな。多分、純也さんに会いに行ってるんだろ」
「それは……そうかもしれませんけれど……」
「まぁ、そゆこと」
「……えぇ……?」
眉間に寄った皺は、依然濃いまま。
でも一瞬独特の笑みを浮かべたあとは、いたって冷静で、まったくこちらに笑ったりしなかった。
……怪しい……。
でも、そんなこと言えない。
だって、口にしたりしたら最後、彼のこの表情すべてが一変するのがわかっているから。
「……でもさ」
「え?」
本当はもっと違うことも聞きたかったんだけど、急に声のトーンが変わったことでつい視線が向いた。
途端、喉が少しだけ動く。
「正直言うと、俺からは声をかけられないんだよ」
まっすぐに向けられた瞳。
それは、決して逸らさせてくれないほどの強い力を持っている。
……と同時に、その言葉ももちろん大きな力があった。
「そう、なんですか?」
「うん。そういうマニュアルがあってね。……ほら、最近セクハラがどうのってうるさいだろ? だからさ、大学側からそう言われてるんだよ。『女子学生とは、距離を保つように』って」
「……へぇ……」
まったく知らなかっただけに、まばたきが出た。
……そうだったんだ。
確かにときどきテレビで見ることのある、大学内での問題。
でも、七ヶ瀬内でそういう問題があったなんて話は、内部の人間であるお兄ちゃんからも聞いたことはない。
もしかしたら、それだけに大学側も先手を打ち始めているのかもしれない。
……大切なことだとは思うけれど。
「ってことは、どういうことかわかる?」
「え?」
まじまじと彼を見たままでいたら、少しだけ楽しそうな顔をした彼が距離を狭めた。
ぽふ、と背中にソファが当たり、これ以上あとがない状態になる。
……でもやっぱり、だからといって手を緩めてくれるような感じはなかった。
「つまり、俺からはできないけど、羽織からならばんばん来てイイってことなんだよ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……え……」
長い沈黙が、狭いこの距離の間に漂った。
「……そう、なんですか……?」
「そりゃそうだろ」
でも、まるでそんな沈黙の意味こそが『?』だったかのように、目の前で彼が怪訝そうに眉を寄せる。
「え、でもっ! でも、マズいんですよね……? 距離を取らなきゃ」
「いや、だから。それは俺たちの問題であって、学生側の問題じゃないだろ?」
「でも! え、なんか……それって、ちょっと屁理屈なん――」
「……何?」
「っ……や! あの、ええとっ……」
小さめに呟いたつもりだった。
でも彼は、敏感に察知して一層瞳を細める。
……うぅ。
何も、そんなに怖い顔しなくても……。
いじいじと絡ませた指をくみあわせてから、慌てて首を振っておく。
「そもそも、学生の本分はなんだ? 勉強だろ? だったら、熱心に研究室へ足繁く通ったって何も問題はないじゃないか」
「けどっ……!」
「だから、学食だろうと廊下だろうと教室だろうと、どんどん声をかけてくれれば俺としては話せるんだよ。……わかる?」
「けど、それはっ……!」
「いいんだって。俺が言うんだから、間違いないだろ?」
……う。
最後の最後には、眉を寄せて強めに押しきられる形で断言されてしまい、何も言えなかった。
……それは……まぁ、そう……なのかもしれないですけれどね?
上目遣いで彼を見ながら、心の中だけでそんなふうに付け加えておく。
「俺は、今も教師なんだよ」
彼がひと息ついてから静かに口を開いた。
「都合よく教える側に立ってるんだから、いつでも声かけてくれていいんだよ? ホントに」
「……そう……なんですか?」
「うん。たとえ学部が違っても、話すのは別に悪いことじゃないだろ? それに、些細なことでもわざわざ質問しに来てくれれば、やっぱり嬉しいしね」
「っ……」
そう言って笑った彼が、一瞬『先生』に見えた。
もちろん、変な意味でもなんでもない。
ただただ本当に、教えることと――……自分の講義に対する確かなプライドを持っている先生、に。
「……でも、つくづく変わったなって思うよ」
「え?」
「昔はさ、それこそ自分のやりたい研究だけやれれば、それだけで満足だったんだ」
髪を撫でてくれながら、彼が苦笑を見せた。
少しだけ昔を懐かしむように、宙を見上げる。
「それに、実を言うと……イチイチ誰かに教えてやるってのが、実は元々そんなに好きじゃなくて」
「え! そうなんですか?」
「うん。教え方がわからないっていうか……正直な話、イチから説明してやるってのが、面倒で嫌いだったんだよな」
……ホント、ヤなヤツだと思うよ。
苦笑を浮かべた彼の意外な部分を聞いて、瞳が丸くなる。
だって、てっきり反対だと思っていたから。
教えることが好きで、だから学校の先生になったと思ったのに。
……そういえば確かに、彼は半ば強引に冬瀬でのポジションを与えられて、引き受けざるを得なかったとも言ってたっけ。
でも、本当に意外だった。
「そうだったんですか……?」
「うん。……だから、よかったんだよ」
「え?」
「2年間、高校に出向してさ」
髪を撫でていた手が、するりと肩へ落ちた。
そしてそのまま、優しく引き寄せてくれる。
……すぐ近くにある、彼の顔。
口元に浮かんでいる笑みが、なんだか嬉しい。
「もし、あのまま大学にいて研究だけやって……それで、今と同じような立場になったとしたら……そしたら俺、ストレス溜まって死んでたと思う」
「えぇ!?」
「当然だろ? 好きでもない講義しなきゃいけない上に、ストレス消してくれる羽織にも会えなかったんだぞ? ……そんなの、拷問以外の何でもない」
途端、さっきまであった笑みは消え、不機嫌そうな顔になった。
ため息混じりに首を振り、強く引き寄せた肩にも力がこもる。
……どうやら、本当にそう思っているらしい。
「…………よかった」
彼が、高校に来てくれて。
いろんな意味で、そう思う。
「っえ?」
彼が、急に私をまっすぐ見つめた。
……しかも、表情を変えないままで。
「今度こそ、俺の話の意味わかった?」
「……意味……ですか?」
「そ」
まるで『この質問解けなかったら、ペナルティね』と言わんばかりの表情に、過去の記憶が呼び覚まされる。
……そういえば、こんなことって前にも何度かあったよね……。
彼と同じようにまっすぐ視線を逸らさないままでいたら、背中をつ……と汗が流れたような気がした。
「……どんどん俺のところに来ないと、俺がダメになるってことだよ」
「っ……!」
ふっと表情を緩めた彼に、また鼓動が大きく鳴った。
「ホントのことだろ? ……ったく。もっと早い段階で気づいてると思ったんだけどな」
「……う。だ、だって……」
艶っぽい表情からまた意地悪そうな笑みに変わり、眉が寄る。
……試されてるんじゃないだろうか。
最近、よくそんなことを思うようになった。
ころころと表情を変えられ、同じくらい自分も表情が変わる。
……祐恭さんって……確かに変わったかもしれない。
ふと、赴任当初の彼の雰囲気が頭に浮かんで、苦笑が浮かんだ。
「好意をもって近づいてくれる分には、大いに結構」
「え……?」
「……もちろん、羽織だけだけど」
「っ……」
もしかしたら、一瞬情けない顔でもしたのかもしれない。
すぅっと細まった瞳と同時に、上がった口角。
情けなくも、つい頬が赤くなる。
「俺もなるべく早い時間に学食へ入れるようにしてるんだけどさ。……なかなかね」
「でもっ……! ……だって、祐恭さんは……忙しいし……」
「だから、見かけたら声かけて」
「そ……れは」
「……積極的に、どんどんね」
距離を縮めながら、彼が囁く。
ぞくぞくと身体が一層震え、何かがこみ上げてき始める。
……でも、きっとそれを知っているんだろう。
だから、離してくれないんだから。
「俺たちは深い仲なんだから。……いろいろ」
「っ……!」
ぐいっと肩を引き寄せられたかと思いきや、ぼそりと耳元で声が響いた。
ぞくっと身体が震えて、背中が粟立つ。
……うぅ。
なんだかもう、やっぱり遊ばれている気がする。
頬に手を当てられたまま視線を泳がせると、言いかけた言葉を飲み込むように唇が閉じた。
「っ……え!?」
「……よかった」
「祐恭さ、ん……?」
彼が、急に動いた。
両腕でしっかり抱きしめられ、頬が胸元に当たる。
……伝わってくるように響く、鼓動と――……そして、彼の声。
顔が見れないのに、一層どきどきするのはどうしてだろう。
「こんなこと思ってるの、俺だけかと思ってた」
「っ……」
「我侭も、ここまで来たら病気だよなー……って」
ずっと、そう思ってたんだよ。
少しだけ身体を離した彼が、ゆっくり囁いた。
合わせられた、瞳。
まるで何か不思議な力が注がれているかのように、逸らせないまましどけなく唇が開く。
……でも、すぐに笑みが浮かんだ。
「……よかった……」
「ん?」
「私も――……同じこと考えてたから」
ふにゃん、と緩んだ表情のまま彼に笑うと、一瞬瞳を丸くしてからおかしそうに笑った。
と同時に強く抱きしめられ、彼の体温を身体いっぱいに感じる。
……落ち着く、場所。
ううん。
すべてにおいて、絶対だと思える人……それが、彼。
「それじゃあ……明日もし、学食で会えたら……」
「ん?」
「今度は、私が先に行きますね」
絵里じゃなくて。
小さく付け加えながら笑うと、ふっと表情を緩めてから彼がうなずいた。
「……あ……」
引き寄せられるようにして――……唇を重ねる。
嬉しさ。
めいっぱいの、幸せ。
角度を変えて口づけられた瞬間、今の私を包んでいるすべての気持ちが一層大きくなったような確かな感じがした。
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