それは、真面目に講義を受けている最中だった。
「……っわ……!」
 2限目の、英語の時間。
 どこからか震動が伝わって来るなぁ……なんて呑気なことを考えていたのが間違いだったのかもしれない。
 そもそも原因は、すぐ横に置いていた自分のバッグの中だってことにしばらく気づかなくて。
 耳を澄まして横目で中を覗いたら、LEDがチカチカと青く点滅していた。
「……ごめんね」
 隣にいた同じ心理の子に小さく謝り、そっと……机の下で携帯を開く。
 そこにあった文字。
 それは、意外というかなんというか……。
 とにかく、予想もしていなかったものだった。

「……中庭ぁ?」
「うん」
 じゅるる、と残っていたジュースをストローで吸った絵里が、大きく息をついてから眉を寄せた。
 さっきの時間、貰ったメール。
 差出人はやっぱり彼で。
 ……そしてそして、その内容というのが……ここ。
 今、葉月と絵里の3人で一緒に座っているベンチがある、中庭に来るようにとのことで。

 『中庭にいるから、おいで』

 たったひとことの、メール。
 それはいつもと同じなんだけれど、内容が内容なだけに少し驚いたのだ。
 中庭。
 まず、その時点で目が丸くなる。
 ……だって、中庭だよ……?
 すごく目立つ場所。
 しかも、『おいで』ということはつまり……誘ってくれているわけで。
 彼が昨日散々言ってたことを、破るようなものだ。
 …………でも。
「あー、あれね」
「ん? ……あ」
 カッコイイおにーさんふうに腕置きをうまく使った絵里が、ぴ、と指を差す。
 ここから、20mくらい先かな。
 一面に広がっている芝生の上で、何人かの学生らしき人たちと一緒にいる、彼。
「……えへへ」
 そんなに近くじゃないけれど、でも、決して遠くない距離。
 どこか、楽しそうな彼の背中。
 ときおり聞こえる、声。
 ここからでもそれがわかって、思わず頬が緩む。
 ……たまに見える横顔も、やっぱり楽しそうで。
 久しぶりに見れた、彼のこんな姿――……というよりも。
「……意外」
「え?」
「祐恭先生って、キャッチボールとかできるんだ」
「…………うん」
 ぽつりと呟いた絵里の言葉に、思わず同意していた。
 お兄ちゃんと違って、そこまでスポーツを見たりすることのない彼。
 もちろん、モータースポーツは別の話。
 そうじゃなくて、こう……なんていうのかな。
 アクティブっていうか、まさに『スポーツ』って感じのものっていうか……。
 弓道をやってるっていうのはもちろん知ってるけれど、あれは……スポーツというよりも、鍛錬というか技術というか……。
 確かに、トレーニングが必要だっていう点ではほかのスポーツと変わらないけれど、でも、そこまで激しく動くものでもないし。
「……ちゃんと見たのは、初めて」
「そうなの?」
「うん」
 楽しそうに声をあげながら、ボールをやり取りしている姿。
 食い入るように見つめたまま呟くと、葉月が顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃんがやってるっていうなら話はわかるんだけど……。まさか、祐恭さんがやるなんて思わなかったなぁ……」
 言いながら、顔が緩む。
 だって、あんなふうに楽しんでる彼を見るのは、すごく貴重なんだもん。
 そういえば――……昔、初めて彼を見たときも、彼はこんなふうにキャッチボールをしていたんだよね。
 私がまだ中学生で、お兄ちゃんや祐恭さんが大学生だったとき。
 でも、そのときはあとになって祐恭さんだったと知ったので、今のように、最初から彼だとわかって見ているのは初めて。
 ……普段とはまた違う、ある意味意外な一面。
 笑って、声をあげて……っていう、一緒にいる学生と同じような姿。
 ……はしゃぐ、って言ったらいいかな。
 なんだか、不思議な感じ。
「……あれじゃ、どっちが学生だかわかんないわね」
「怒られないかな……」
「平気じゃない? ……多分」
 にまにま笑って見ていたものの、そういえば……彼は今も、『先生』だったことに気づく。
 ……いけない。
 もしも見つかったりしたら、『学生気分で』なんて怒られるんじゃ。
 …………。
 ……うー……。
「……羽織?」
「えっと……あの、ちょっと…………行って来るね」
 遠くから、少しでもジェスチャーとかで伝えられれば。
 そう思って、ベンチから独り離れて向かう――……彼の元。
 すると、これまで聞こえていたよりも一層声が大きく聞こえた。
 はっきりと見てとれる、彼の表情。
 ……ホントに、楽しそう。
 もう、ここから彼まで10mもない、芝生とレンガの敷かれた道との境界。
 すぐに踏み越えられる白い柵があるけれど、やっぱり、さすがに越えることはできなかった。
 だ、だってほら、芝生ってあんまり踏み込むと怒られるってイメージがあって……だから、その……。
「っ……わ」
 なんてことを考えながら、ちょっとだけうじうじ悩んでいたとき。
 ぽーん、といきなり白い軟球が転がって来た。
 そしてすぐ――……芝生を踏んで駆けて来る音も。
「……あ……」
 足元にあるそれを拾って、立ち上がったとき。
 そこには、さっきまで向こうにいた彼自身がなぜか満足そうに笑っていた。
「……やっと来た」
「え……?」
「俺が言ったのは、遠くで見てろって意味じゃないよ。……ったく」
「あ! え、ちょっ……祐恭さんっ……!?」
 笑いながらため息をついた彼が、おもむろに――……ネクタイを外し始めたのだ。
 心なしか、息が上がっているように見える。
 ……ううん。
 事実、ひと筋汗が頬を伝った。
「……あっつ」
「…………楽しそうですね」
「まぁね。……やる?」
「え!? いっ……いいです」
 ぐいっと腕をまくったシャツで汗を拭い、ネクタイを抜き取ってボタンを外す。
 ……ぅ。
 なんていうかこう、こんなに間近でシャツ姿の彼を見たのは……久しぶりかもしれない。
 も、もちろん、家以外でっていう意味なんだけど。
 ……ちょっと前までは、これが普通だったのになぁ。
 無性にどきどきして直視できない自分が、逆に恥ずかしく思う。
「はい」
「……え? っわ!?」
 俯き加減でいたら、明るい声が降って来た。
 ――……と、同時に。
 幾つか、物も一緒に降って来た。
「っ……えぇ……!?」
 今、外したばかりのネクタイ。
 そして今朝、確かに着て出かけたスーツの上着。
 さすがにキャッチボールのときは脱いでいたらしく、幾つか芝生が付いていた。
 ……もぅ。
 決して安くないものなのに、無造作に地面に置いちゃうんだから。
 感心してしまうような、ため息ついてしまうような、曖昧な笑みが浮かぶ。
「それじゃ、よろしく」
「え!? あっ……!? う、祐恭さん!?」
「ん?」
「ん、じゃないですよ! どうするんですか? これ!」
「持って来てよ」
「えぇっ!?」
 ものを渡すだけ渡した彼は、私からボールを取り上げるとひらひら手を振って背を向けてしまった。
 声をかけるものの、足を止めてくれない。
 ――……でも。
「も……って、どこへですかっ!?」
 ぎゅっと服を抱きしめたまま、彼に大きく声をかけたとき。
 そのときばかりは、足をぴたりとその場に止めて――……こちらに身体ごと振り返った。

「俺の研究室まで」

 ……決まってるだろ?
 まるで、そう言うのを待っていたかのように。
 ニヤッと表情を変えた彼が、私を指差しながらハッキリした声で告げた。
「…………」
 しばらく、呆然と彼を眺めてしまったのは言うまでもなく。
 というか、なんていうかこう……ちょっと、見とれたというほうが正しい表現かもしれないけれど。
 だって、情けなくも口がちょっと開いていたんだから。
「っ……あ!? 祐恭さんっ!」
 はっと気づいたときは、すでに遅く。
 ここから離れた場所で、また彼はキャッチボールを再開していた。
 ……もぅ。
 ため息を小さくついてから、その背中を見つめる。
 ――……けど。
「……やるじゃない、祐恭先生」
「っわ!? え……えええ、絵里っ!?」
「よかったね、羽織」
「なっ……葉月まで……!?」
 いつの間に隣へいたのか、ふたりが笑みを浮かべて立っていた。
 ひとりは、にやにやと。
 そしてもうひとりは、にこにこと。
 それぞれ、同じような感情を抱いているに違いないのに、決して違う笑みなあたりちょっとおかしい。
「次の時間、自主休講しないで済んでよかったわねー」
「っ……絵里ぃ……」
「あら、ホントのことでしょ? ……っていうか、多分祐恭先生はその辺ちゃーんとわかってたっぽいけど」
「……え?」
 ニヤニヤと笑った絵里が、いたずらっぽい顔をしてにんまり口角を上げた。
 顎で差した先。
 そこには、例に漏れず祐恭さんがいる。
「祐恭先生の研究室は、理学1号館の3階よ」
「……あ。ありがとう」
 そう言って絵里は、学食の方向を指差した。
 方向的に、理学部はそっちにある。
 ……ということまでしか実は知らなくて、どれが1号館なのかすらサッパリわからないんだけれど。
「隣にはフツーに学生がいるから、あんまり騒がしくしないのよ?」
「……え……?」
 くすくす笑った彼女に、眉が寄る。
 ――……でも。
「っ……!! 絵里!」
「やだぁ、もー。ちゃんとわかっちゃうあたり、羽織もえっちぃ子になったわねー」
「ちがっ……! 違うもん!」
 『どうして?』なんて聞きそうになって、ようやくわかった。
 ……うぅ。
 絵里の表情と口調から、もっと早く気づかなきゃいけなかったのに。
 そんなわけないじゃない!
 い、幾ら祐恭さんだって……昨日の今日で、そんなこと思うはずないだろうし。
 ……な……ない……もん。
 っていうか、なく、しなきゃ。
「あ。ほら、祐恭先生引き上げるみたいよ?」
「え?」
 顔が赤いのは承知の上。
 ぶつぶつ呪文のようにいろんなことを唱えながら彼の上着を畳んでいたら、肩を叩かれた。
「……ホントだ」
 言われて見れば、確かに学食横の道へと歩いていくのが見えた。
 ……でも、さすがに今すぐあとを追って……なんてわけには、いかないし。
「んー……それじゃ、えっと……次の時間にでも」
「……ほほほぉお」
「だっ……だから、違うの!!」
 にやにやにやっと口に手を当てて思い切り口角を上げた絵里に、ぶるぶる首を振る。
 どうして、こんなに楽しそうな顔をするかなぁ。
「……もぅ」
 瞳を伏せてため息をつくと、背中にまた『がんばりなさいよ』なんて声が聞こえた気がした。

「――……せんせー、質問あるんスけど」
「ん?」
 学食横の、細長いアスファルトの道。
 時間がズレたこともあってほとんど人通りのないここを横に広がって歩いていると、ウチのM2(修士課程2年)のひとりが手をあげた。
「さっきの、誰っすか?」
「もしかして、彼女?」
 どいつもこいつも、見事なまでに好奇心むき出しって顔してるな。
 あまりにも見事で、ついおかしくなる。
「あれは、秘書だよ」
「え? でも、秘書いないじゃないっすか」
 正解。
 ウチの研究室には、ほかの研究室にいる“秘書”という人間がいない。
 なので、基本的に下っ端連中がどんどん事務にも借り出されるワケだ。
 ……これが、結構面倒くさい。
 学生のころは、当時の助手だった先生がパシられていたのでそんなことほとんどしなかったんだが、今は違う。
 今年配属されたばかりというのと、昔から宮代先生の下にいた人間ということで、案の定いいように使われ始めている気がする。
 ……ったく。
 人嫌いってのも、困りモノだ。
 昔からそうだが、せめて必要な人材くらいは我慢して確保してくれてもいいものを。
「もしかして、あれ? 新しい秘書雇うってこと?」
「まさか」
 あ、と声をあげた院生に首を振り、同時に肩もすくめてやる。
 ……すぐさま、にっこり笑みを浮かべながら。

「あの子は、俺専属」

 優越感っていうのは、こういうときがまさに最高潮。
 堪えきれずになんともいえない表情へ変わり、我ながらヤなヤツだなと思った。
「えー!?」
「なんだよそれー!」
 すぐ後ろで、横暴だとか職権濫用だとかって言葉が聞こえたような気がしないでもないが、この際そんなことはどうでもイイ。
 肝心なのは、果たして彼女がこのあとちゃんと俺の部屋まで来るかどうかってこと。
 ……そっちのほうが、よっぽど重要だ。
「ま、午後も励みたまえ」
 肩をすくめて彼らを見ると、案の定悔しそうな目ばかりがいくつも向いていて、一層なんともいえない優越感が満ちた。
 ……あー。
 ホント、性格悪いと自覚する。
 ま、今に始まったことじゃないんだけどね。


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