「…………どこだろう」
 正直、迷子になったのは久しぶりだった。
 ……でも、ここまで本当にワケがわからない場所は、初めて。
 そんなにキャンパスが広くないと言われる、この七ヶ瀬大学。
 それでも、学部があちこちに点在しているので、私にしてみれば十分迷子になれる環境だ。
 ましてや、入学してまだ1ヶ月も経っていない現在。
 こうして理学1号館を無事に探し当てたのは、ある意味奇跡だと思う。
 ……って、まぁ……一応、建物にちゃんと『1号館』っていうプレートがあったんだけどね。
「…………うぅ」
 でも、運はやっぱりここまでだった。
 絵里に言われた通り上がって来た、1号館の3階。
 開いたエレベーターから廊下に出たところで……早くも引き返したい気分だった。
 ……どうしてこんなに、薄暗いんだろう。
 思わず、心細さからぎゅっと上着を握り締める。
 確かにここにある、彼の物。
 ほのかに彼の匂いがして、それだけが唯一自分の味方だ。
「…………」
 せめて誰か通りかかってくれれば、恥を掻き捨ててでも聞けば済むんだけど……一向に、人が通る気配はなく。
 それどころか、近くの部屋からもまったく人の気配がしてこない。
 ……うー。
 研究室って、入ったことがないからまったく想像が付かないんだよね。
 研究っていうくらいだから、きっと実験とかいろいろやってるんだろうとは思うけれど……。
「…………」
 うー……。
 きょろきょろとあちこちのドアを見て回れば、いつか行き当たるんじゃないか。
 そんな淡い期待を抱きつつ、そろそろと足音を立てないように各ドアを目指す。
 ……っていっても、なんかこう、すごく広いんだけど……。
 しかも、さっきも言ったように薄暗くて。
 廊下の電気を点けちゃいけないとかって理由があるのかな。
 お陰で、外はすごくいい天気なのに、ちっとも様子がわからない。
 あっちかな、とか。
 それともこっちかな、とか。
 彷徨うという言葉がぴったりなほど、今の私はちょっと挙動不審だった。
「っ……!」
 少し離れた場所から、バタン、という音がして急に声が幾つも聞こえて来た。
 ……ど……どうしよう。
 さっきまでは確かに、誰かが通ったら聞こうなんて簡単に思っていたけれど、いざそうなってみると、これはこれで結構……ううん。
 とっても勇気がいることなんだって、わかった。
 慌ててきょろきょろとあたりを見渡し、どこか隠れられる場所を本能的に探す。
 ……みっ……見つかりませんように……!
 ぎゅうっと上着を抱きしめたまま開いていた引戸の部屋に入り、ドアの影に隠れて身を硬くする。
「……っ……」
 すぐ、そこ。
 どうしたってエレベーターがそこにあるんだから仕方ないとは思うけれど、やっぱり、過ぎてくれるまでは落ち着かない。
 ……見つかっちゃう……っ。
 悪いほうへしかどうしたって頭が働かなくて、鼓動がどんどん早まっていった。
「………………は……ぁ」
 ようやく、一難去るとでもいうべきか、エレベーターのチャイムが鳴ってすぐに声がぱったりと消えた。
 恐る恐る顔だけをそこから覗かせ、ゆっくりと……外に出る。
 そのときドアを見上げると、そこには『ラウンジ』とだけ書かれていた。
 ……なるほど。
 そういう使われ方をする部屋もあるんだ。
 なんて、ほっとしたからか考えに余裕が表れて、それが少しおかしい。
「…………」
 ……気を取り直して。
 壁伝いに、さっきの人たちが歩いて来たほうへと足を向ける。
 でも、やっぱりその先にも明かりがあるような雰囲気はなかった。
 ……どうして、こうも暗いのかなぁ。
 この研究室しか知らないからなんともいえないけれど、全部が全部そうだとしたら、ちょっと切ない気がする。
「っわ……!」
 突然、目の前が真っ白くなった。
 そんなことを考えていたせいなんだろうか。
 明るいというよりも眩しく感じる光に、照らされている。
 見つかった……!?
 ぎゅっと閉じたままだった瞳をゆっくりと開き、床から徐々に上へと視線を上げる。
 もちろん、彼の上着は抱えたまま。
 だって、これだけが唯一のお守りみたいなものだから。
「……っ……」
 ……どうしよう。
 なんて言ったらいいかな。
 …………でもやっぱり、変な言い訳なんかしないで、ちゃんと本当のこと言ったほうがいいかな。
 瀬尋先生の研究室に用があって……って。
 でも、もしかしたら逆に勘ぐられちゃうんじゃ……。
「…………あれ?」
 などと考えながら、ようやく真正面を見たとき。
 あまりに現実が予想と違っていて、ぽかんと口が開いた。
 情けない声が出るのも、ある意味仕方ないのかもしれない。
 だって……そこには誰もいなかったんだから。
「……え?」
 ぱちぱちと瞬きしながら、ゆっくり見上げる。
 そこにあったのは、煌々と光を放っている、丸い楕円の照明器具。
 よく、家にあるような明かりみたいな感じの物だ。
「……あ」
 しばらくそれを見上げたままでいたら、また、ふっと明かりが消えた。
 ……ううん。
 消えたって表現は正しくないかな。
 どっちかっていうと、弱くなったっていうか……。
「っ……」
 なんて考えたまま見上げていたら、また、明かりがぱっと強くなった。
 ……もしかして……この照明って、最近よくある人に反応するタイプとかなんじゃ。
「…………」
 そう思い始めると、すんなり納得できるから不思議。
 ……なるほど。
 さすがは、理学部……なのかな。
 なんだかこう、文明の先端的な……って、なんだかおばあちゃんみたいだ。私。
 それとも、今はこういう照明を多く取り入れてるのかな。
 確かに、環境にも優しいような気がする。
 点けっぱなしよりは、ずっといいし。
 ……まぁ、スイッチで必要なときだけ点けるっていうのと大差ないのかもしれないけれど。
「……どっちだろ……」
 人がいないのは、見ればわかる。
 左か、右か。
 きょろきょろと見渡してから、ちょっと考えてみる。
 真正面にも、ドアがひとつ。
 でもそこには、見慣れない人の名前が書いてあった。
 ということは、先生……なのかな?
 きっと、この人の研究室なんだろう。
 でも、祐恭さんじゃない。
 ……となると、左か右か。
 ふたつのひとつ。
「…………」
 左と、右。
 もう1度改めてよく見ると、左の奥には非常階段のドアがあって、明るい日差しが見えた。
 そのせいか、ほんの少し近づいてみたくなる。
 ……ほっとするっていうか……。
 単に、右の廊下よりも部屋数が少なかったというのも、もちろん理由のひとつではあると思うけれど。
「……わ。沢山……」
 そろそろと足音を立てないように、左へ曲がってすぐの部屋。
 そこには、少し奥まった入り口に沢山の靴が置かれていた。
 まさに、『脱いだまま』の状態。
 どれもこれも男性の靴ばかりで、女性物は見えない。
 ……でも、ここにも祐恭さんのはない……かなぁ。
 というよりも、それ以前に革靴が置かれてないんだけれど。
 ドアにも、『312』と書かれたプレート以外は何もなかった。
「…………」
 ……その、隣。
 そこもまた、今見た部屋と同じように幾つか靴がある。
 でも、やっぱり祐恭さんはいないらしい。
 ――……と。
「……あ……」
 何気なく、顔を右へ向けた瞬間。
 1番端の明るいドアのところに、きらりと光ったプレートが見えた。

『専任講師 瀬尋祐恭』

「っ……あ……った!」
 ようやく見つけた彼の名前で、笑みがこぼれる。
 と同時に、鼓動が早まった。
「……わ」
 これまでは懸命に足音を立てないように……なんて気をつけていたのに、このときばかりはすっかり忘れてた。
 ぱたぱたと部屋の前まで駆け寄り、上着を抱えたままプレートを見てついついにやけてしまう。
 ……えへへ。
 ホンモノって言ったら、すごく怒られそうだけど……。
 でも、ホントにホント。
 祐恭さんの名前が、大学にある。
 そして、研究室も確かに。
 そう思うだけで、なんだか言いようのないすごい気持ちが身体の奥底から溢れてくるみたい。
 ……嬉しいなぁ……。
 講師。
 高校とは全然違う役職で、立場で。
 こんなふうにひとつの部屋を貰えるなんて、なんだかすごい。
「…………」
 どうしたら、このにまにま顔を止められるんだろう。
 なんてことを考えつつも、やっぱり、止まらないとは思う。
「……えへへ」
 自分のことのように、なんだか無性に嬉しい。
 つつっと人差し指でプレートをなぞると、彫られている名前の部分が心地よかった。
 ……瀬尋、祐恭。
 すごく大切で、大好きな人の名前。
 それが……今、ここに。
 大学講師という形で、ちゃんとある。
「…………」
 自分にとって、何よりも特別。
 どんなことより、大切。
 そして、私の――……。

 ガチャ

「わゃ……っ!?」
 いきなり、前触れもなくドアが開いた。
 へ……変な声が出た。
 反射的に口へ手を当て、丸くなった瞳のまま食い入るようにドアを見つめる。
 すると、薄く開いた戸口から怪訝そうな彼が顔を覗かせた。
「…………」
「…………」
「……何してた?」
「え!? ……べ……別に……何も」
「……ふぅん」
 ドアノブを掴んだままの彼は、ものすごく私を上から見下ろしてくれている姿勢を崩そうとしなかった。
 ……うぅ。
 顔が十分赤くなっているであろうことは、わかる。
 だからこそ、できれば早めにお部屋の中へ入れてもらえると……とっても嬉しいんだけれど。

「……ニヤニヤしてたくせに」

「ッ!! ……ど……どうしてそれを……!?」
「見えるからね。……ここ。ガラスだし」
「…………わぁ!?」
 ニヤっと笑った彼が、コンコン、とドアの中央部分を叩いた。
 …………な……なるほど。
 確かにそこは、ガラスが張られている。
 …………。
 ……ガラス……?
「え? でもここって、鏡なんじゃ……」
「甘いね」
 覗き込んだそこには、くっきりと映っている自分の姿。
 でも彼は、ちっちと指を振ってからドアを大きく開け放った。
「……あ」
「ま、そういうこと」
 内側から見て、やっとわかった。
 確かにそこは、彼の言う通りガラスになっていたから。
 ……でも、正確にはガラスじゃないんだと思う。
 普通の窓みたいな見え方じゃなくて、ほんの少し色が付いているというか、なんというか……。
 ちょっと妙な感じがしたから。
「外から見えないからって油断してると、あとでつけ込まれるよ?」
「……誰にですか」
「もちろん、俺に」
 もぅ、どうしてそんなに楽しそうに笑うのかなぁ。
 ドアに手を当てたままの彼が、私の前に立って満足げに口角を上げた。
「迷子にでもなってるんじゃないかと思ったよ」
「そっ……んなことはないですよ」
「そう?」
「……そうです」
 思わず正直に反応してしまいそうになって、慌ててひと息ついてから首を横に振る。
 もちろん、彼は相変わらず視線を緩めてくれてはいない。
 ……きっと、バレてるんだろうとは思うけれど。
 それでもやっぱり、素直にうなずけなかった。
「……もしくは」
「え?」
「宮代先生にちょっかいだされてるんじゃないかな、って」
「……宮代先生に、ですか?」
「うん」
 ほんの少しだけ、彼の表情が曇ったように見えた。
 ……曇ったっていうか……ほんのちょっと、曖昧な感じになったっていうか。
 祐恭さんがこんなふうに言うなんて、珍しい。
 素直に、そんな印象を受ける。
「あの人、人のモノ欲しがる人だからな……」
「え?」
「迂闊に紹介もできやしない」
 どちらかというと、独り言みたいな感じ。
 ため息混じりに視線を落とした姿を見て、ぱちぱちとまばたきが出る。
 思い出されるのは、入学式のあの日。
 初めて宮代先生に会った、あのときのこと。
 もしかして……祐恭さん、本当に宮代先生のことが苦手なのかな。
 なんだか、すごく不思議な感じ。
 彼に苦手なものがあるという時点でかなり不思議なのに、それがまた、恩師となると……。
「……何?」
「え? ……あ。……えっと……なんか、祐恭さんが『先生』って呼ぶのは、ちょっと……くすぐったい感じがして」
「そう?」
「ですよー。だって、今まで……ううん。今だって、祐恭さんは先生なのに」
 怪訝そうに眉を寄せた彼へ、慌てて両手を振る。
 ……うーん。
 私からすると、ふたりはどこか似てる部分があるように見えるんだけど……なんて、そんなことを言ったらすごく怒られるかもしれない。
「先生、ちょっと変わってるんだよ」
「……え? そうなんですか?」
「うん。……まぁ、研究者なんて大抵変わりモンなんだけどさ。彼は特にね。……なんつーか、こー……人嫌いというか、えり好みが激しいというか……」
 徐々に徐々に、渋い顔を見せていく彼。
 ……どうやら、かなりいろいろな思いをしていたらしい。
 だからこそ、一層『珍しい』印象を受ける。
 苦手というのは、本当のことみたいだし。
「……え?」
「ま、先生の話はこの辺にして……」
 こほん、と咳払いをした彼が、一歩左へ動いた。
 それでようやく、部屋の中へと視線が移――……る前に。
 今度は、空いた右手が私の視線を誘うように動いて、自然と……彼へ顔が向いた。

「ようこそ。……俺の研究室へ」

「っ……!」
 ドア枠に腕を当ててもたれた彼が、明らかに私を見下ろしてにっこり微笑んだ。
 身長差だけのせいじゃない、威圧感。
 ……これがのちに、いろいろな意味の始まりでもあったことを実感する。


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