「……失礼します」
 なぜだろう。
 妙にどきどきして、落ちつかない。

 カチャン。

「……え?」
「ん?」
 ごくごく、小さな音。
 それに反応して後ろを振り返ると、ノブに手を当てたままの祐恭さんが不思議そうな顔をした。
「……あ……。えっと、なんでも……ないです」
 あははと笑ってから手を振り、改めて正面に向き直る。
 少し神経質というか、過敏になりすぎてるみたいだ。
 なんで鍵を閉めるんだろうなんて、勝手に思い込んだりして。
 ……やだな、そんなことするはずないのに。

 『隣に学生がいるから、あんまり騒がしくしないのよ?』

「っ……」
 小さくため息をついた瞬間、にやにや笑った絵里の顔と声が頭に浮かんだ。
 どくんっと大きく鳴る鼓動を押さえるように、胸へ手を当てて何度か深呼吸。
 ……そんなことないもん。
 祐恭さん、そんなことしないもん。
 自分を落ち着かせる意味合いを込めて何度か心の中で復唱すると、また小さくため息が漏れた。
「……なんで、そんなによそよそしいの?」
「え?」
「別に、気を遣ってくれなくて問題ないんだけど」
 立ち尽くしていた私をすり抜けて、彼は窓際へと歩いて行った。
 テーブルの上に置かれている、分厚い本や数十枚という感じの紙の束。
 そんないろいろな物をざっと片付けながら、私を見て苦笑を見せる。
 ……なんだろ。
 んー、でもやっぱり彼の言うように落ち着かないのは事実。
 ただ、どこかで同じような感じを覚えたような……。
 ……うーん。
 もしかしたら、家の書斎とダブって見えているだけかもしれないけど。
「…………」
「どうした?」
「……あ。えっと、その……ここって、祐恭さんのお部屋……なんですよね?」
「うん。まぁ、一応ね」
 なんとなく、落ち着かないというか……なんだろう。へんな感じ。
 ……でも。
 その理由は、確かにわかってるんだけど。
「……すごいですね」
「そう?」
「ですよ!」
 普通だよ、と笑った彼に少し驚くものの、もしかしたらほかの部屋もそうなのかもしれない。
 ……大学ってすごい。
 高校の準備室とはまるでタイプが違って、本当に驚く。
「この棚とか……こっちのロッカーとかは……?」
「ああ、それは備品」
「……それじゃあ……このテーブルも?」
「うん。それも、こっちの机もそうだよ」
 ……備品。
 さらりとうなずく彼に、まばたきが出た。
 ……こ……これが普通なんだろうなぁ、きっと。
 ちょっとすごい。
 確かに、高校でも準備室には沢山の備品があったんだから、そこまで珍しいものじゃないんだろう。
 でも、高校までとは備品の質が違う。
 だって、普通の家具みたいなんだもん。
 ……もちろん、普通のスチールの棚なんかもあるんだけど。

「このソファも……備品、なんですか?」

 ごくり。
 最初にこの部屋へ入ったときから、ずっと思っていたこと。
 ようやく指差してみると、片づけが終わったらしい彼が――……にっこり笑ってから腰かけた。
「……っ……」
 ……な……んだろう、このへんな感じは。
 いつもと……ううん。
 これまでの感じと違って、思わず喉が鳴る。
 高校のときは、準備室でたまにふたりきりになっても、こんな感じはしなかった。
 ……なのに。
「…………」
「ん?」
「え……あ、なんでも……」
 彼のわずかな動きに、つい反応してしまう自分がいて……落ち着かない。
 なんだか、初めて彼の家に行ったときみたいだ。
「…………あ」
 ……そう。そうだ。
 ここに入ったとき、感じた“違和感”。
 それは――……ここが彼の部屋だと認識したから、だ。
 元々聞かされていたというのはあるけれど、もっと無機質な部屋だとばかり思っていたから、あまりにも充足した空間で驚いた。
 ソファがある。テーブルもある。
 そして、ほのかに漂うコーヒーの香り。
 ……全然、違うんだもん。
 彼が言うように、まるでここが彼だけの『家』みたいで。
 だから……落ち着かなかったんだ。
 初めて彼の場所に触れたみたいに、どきどきしたから。
「知ってる?」
「……え?」

「研究室は、治外法権なんだよ」

「…………え……」
 足を組んで深々と座ったままの彼が、頬杖をついて瞳を細めた。
 見上げられる形の、鋭い視線。
 捉えられたまま、また、喉が動く。
「各教授連中の部屋はもちろんだけど、それだけじゃない。学生が集まる……隣の部屋とかもね」
「っ……」
「そこの教授色に染められる、とでも言えばいいかな」
「……う……きょうさ……っ」
「言い換えれば――……学生じゃ、手も足も出せないってこと」
 立ち上がった彼が、私を見つめたままこちらに歩いて来た。
 反射的に後ずさってしまい、そのまま――……背中にロッカーが当たる。
「……何をしてもイイ、ってことなんだよ?」
「な……っ」
 ゆっくりとした動作だったのに、彼はすぐ目の前に立っていた。
 掴める場所を探していた私の手首を掴み、そのまま上へ。
 ……ちょうど、肩のあたり。
 ひんやりとしたガラスに手の甲が押し当てられて、冷たさが伝わって来た。
「治外法権ってのは、そういうことだろ……?」
 細くなった瞳を逸らすことなく、すぐ目の前で囁くように。
 ひたり、と右手が頬を包んだ。
 ……近づく唇が、目の前できれいに笑う。
「っ……」
 瞳に釘付けになり、うっすらと唇が開くのもわかる。
 ……なんて、色っぽい顔をする人なんだろう。
 普段と違う雰囲気のせいか、いつもよりずっとドキドキする。
 ちょっとだけ――……身体に力がこもる。

「――……というわけで、片付け手伝ってね」

「…………え……?」
 にっこり笑った彼が、これまでと雰囲気をガラリと変えてから首を微かにかしげた。
 どきどきが最高潮だった私には、意外中の意外。
 あまりの出来事すぎて、一瞬何を言われたのかわからなかった。
「……か……たづけ、ですか……?」
「うん。……いや、ほら。本とかさ論文とかさ、いろいろ持って来たのはいいんだけど……箱にしまったままなんだよ。ここ2週間以上」
 そう言って彼は、窓際へと視線を向けた。
 ……なるほど。
 確かにそこには、封の開けられていないままのダンボールが幾つもある。
「悪いんだけど、一緒にしまってもらえないかな? そこへ」
「それは、別に構いませんけれど……」
「そう? よかった。……助かるよ」
 ありがとう、と言ってくれた彼が苦笑を浮かべた。
 その顔は、心底そう思っているようで。
 ……ほ。
 内心、やっぱりまた安堵のため息を漏らしていた。
「…………」
 ……でも……だからこそあのときてっきり、キスされるんだって思ったことは、内緒にしておこう。


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