「……そういえば」
「ん?」
「祐恭さんって、もう……白衣とか着ないんですか?」
 ダンボールの蓋を開けて、中身をひとつひとつ丁寧にしまっていく。
 その作業を続けながら、ふと口にしていた。
 理由は、別に特別なことでもなんでもなくて。
 ただ単に、今開けた箱から白衣が出てきたからなんだけど。
「学生は着るんだけどね。基本的には、研究室に入るようになれば着ないよ」
「……へぇ」
「高校はほら、スーツで授業するだろ? でも、大学はそこまでうるさくないから。……別に、そこまで汚れたら困る服着ないし」
 あっけらかんという具合に、彼が肩をすくめた。
 その手には、分厚い大きな本。
 ……どんなことが書かれてるんだろう。
 なんて、考えたところでもちろんわかるはずはないと思うけれど。
「…………」
「……?」
 なるほど、と思いながら白衣を新しく畳み直したとき。
 ふと視線を感じて彼を見ると、なぜかまっすぐに見られていた。
「な……んですか……?」
「そんなに好きだった?」
「え?」
「……俺の、白衣姿」
「っ……!」
 にやり。
 いきなり彼が表情を変え、それはそれは楽しそうに笑った。
 ……確かに、好きか嫌いかと言われればもちろん、答えはひとつ。
 でも、だからといって改めてこう……彼自身に聞かれてしまうと、素直にうなずけない何かがある。
「羽織が好きだって言うなら、着てもいいんだけどね」
「で、でもあのっ……確か、危ないとかなんとかって……」
「……へぇ。よく覚えてるな」
「う。……だ、だって……」
 なんで、こうも顔が赤くなるんだろう。
 自分で自分がわからなくなりつつも、頬に手を添えてなんとかほとぼりをさませる。
 もちろん、そんな簡単に戻ることなんて、まずないんだけど。
「どうしてもね。かさ張って邪魔なんだよ。いろんな器具とかもあるし」
「そう、なんですか……」
「……残念?」
「っ……だ、だからそうじゃなくてっ!」
 ニヤニヤ二ヤ。
 ぽつりと呟いたつもりだったのに、そちらを見れば、やっぱりまた楽しそうな顔をしている彼がいた。
 しかも、その横に積んだ本へしっかりと頬杖を付いてくれながら。
「もぅっ!」
 ついつい反応してしまうのも、いけないのかもしれない。
 でも、思い浮かべて……そして、昔の姿と重ねてしまうから。
 浮かぶのは、いつだってスーツの上に白衣を着て校内を歩いていた彼の姿。
 授業のときも、休み時間も、放課後も。
 いつでも彼は、白衣を身に纏っていた。
 ……だから。
 どうしても、印象が強すぎるのかもしれない。
 もしかしなくても、私が彼に惹かれたとき、この服の存在も一緒にあったから。
「…………」
「羽織?」
「っわ! ……え、あ。な……んですか?」
 ぎゅ、と白衣を握ったままだった私の前で、彼が手を振った。
 慌てて『今』に意識を戻し、どきどきと高鳴ったままの鼓動を抑えるべく、胸に手を当てて距離を取る。
 ……もぅ。
 本当に、楽しそうな顔するんだから。
 くすくす笑いながら、私が開けていた箱から本を取り出す彼を見て、眉が寄った。
「はい」
「……え?」
「これ。あそこへ入れといて」
「……あ。はい」
 床に積んだ数冊の本を、彼がぽんぽんと叩いた。
 代わりに、私が持っていた白衣を受け取る。
「……っ……」
「あ。言っとくけど、重たいよ?」
「……わ……かってます……」
 まとめて持ち上げようとしたら、一瞬、鈍い痛みが背中に。
 ……うぅ。
 どうして、こんなに分厚い本ばかりなんだろう。
 ひと息ついてから1番上の重たい本をようやく持ち上げると、やっぱりため息が漏れた。
「ここでいいですか?」
「うん。その下の棚ね」
「はぁい」
 本を抱きかかえたまま、スチール棚の前に立って本を持ち上げる。
 ……ぅ。重たい。
 さすがに片手じゃどうにもならなくて、しっかり両手で持ってようやく棚に収めることができた。
「……え、っと……あとは……」
 ひと息ついてから、先ほどの場所へ戻る。
 ……あと、2冊。
 数こそ少ないのに、どうしてこんなに存在感があるのかな。
 お手伝いと簡単に言ってみても、実際はとんでもなく大変な仕事だったみたいだ。
「……これもここでいいのかな……」
「そこでいいよ」
「なっ……え……! 祐恭さっ……わ!?」
 間違いなく、今のは独り言だった。
 なのに聞こえた、突然の声。
 危うく、持っていた本を落としそうになって、慌てて抱きしめる――……けど。
 それよりも先に、てきぱきと彼が私へ何かを覆い被せた。
「学生だからね。……白衣着るの楽しみにしてるヤツ、結構いるし」
「……やっ……えぇ!?」
 ひょい、と簡単に彼が私から本を取り上げた。
 ……か……片手で……!?
 両手でようやく片付けられた本なのに、目の前でこうも簡単にしまわれてしまうとは。
 ……どうやら。
 もしかしなくても、彼に巧く誘導されていたらしい。
「っこれ……!」
「……ほお。これはまた、なかなか」
 肩に手を置かれて、そのままくるりと回れ右。
 そのとき、ひらりと白い布が膝のあたりに纏わり付いた。
 少しだけ、硬い音のする布の音。
 ……そう。
 目の前の彼が満足げに見つめている先には、間違いなくさっき私が手にした、彼の白衣が映っていた。
「ッ……う……きょうさっ……!?」
「ん?」
 まるで、驚いた私の反応を先読みしていたかのように、彼がにっこり笑ってから――……指先で眼鏡を上げた。
 仕草。
 声。
 雰囲気。
 そんな、今の彼を現しているすべてにおいて、ものすごく楽しそうなオーラが伝わって来る。
「そ……そそそそそれは……!!」
「ん? せっかくだからね。気分と一緒に新調しようかな、って」
「いやっ……あ、あの、でも、それは……!!」
「ほら。年上の学生にも、ナメられないようにしなきゃいけないし」
 ありえなさすぎる。
 今の今まで……だって、それこそ数分前までは全然違ったのに。
 明らかに、おかしい。
 ううん、それだけじゃなくて……っていうか、いったいどこから……!?
「……それっ……その、眼鏡は……!!」
「似合うだろ?」
 ようやく、少し落ち着いてきた息を整えながら、彼に人差し指が向いた。
 ハッキリとした色味を強調してくる――……フレーム。
 そして、これまでかけていた眼鏡とは、レンズも何もかもが異なる、形。
 ……ぅ。
 まっすぐに微笑みながら見つめられて、やっぱりどくんっと大きく心臓が跳ねた。 (100ちゃれ『78:メガネ』参照
 ……その、眼鏡。
 これは間違いなく――……私が、彼に薦めたもの。
「これっ……買わない、って言ったじゃないですか……!」
「別に、買わないとは言ってないよ? ……あのときたまたま羽織に言わなかっただけで」
 絶対的な企みがありました、と言わんばかりの笑みを見せられ、思わず情けない顔になった。
 ……う……うーっ!
 嘘つきなんてことは言わないけれど、でも、なんだか……ずるい。
 だって、こんな……!
 こんなことになってるなんて……思いもしなかったんだもん。
「…………」
 でも、きっと彼はずっとこうすることを考えてたんだろうな。
 私に何も言わないでおいて…………驚かせるために。
「で?」
「……え……?」
「片付け。終わった?」
「……終わりました……」
 というより、最後は私じゃなくて、祐恭さんがやってくれたのに。
 ひょっとしなくても、私がやるんじゃなくて、むしろ祐恭さんが独りでやったほうがよっぽど効率がよかったと思う。
 重たくても簡単に運べるし、聞かなくても入れる場所は知ってるし。
 ……うー。
 邪魔まで行かないにしても、そこまで役に立っていたというわけじゃないはず。
 それが、やっぱりある種の自己嫌悪だ。
「それじゃ、次はこれでも並べてもらおうかな」
「……これ……ですか?」
「そ。適当でいいよ」
「…………もぅ」
 にっこり笑った彼が差し出したのは、10数冊の小さな文庫本のようなものだった。
 ……珍しい。
 普段、家でもあまり本を読んでいる所を見かけないせいか、少し意外だった。
「あ。それ、俺のじゃないから」
「……そうなんですか?」
「うん。先生のヤツ」
 まじまじと背に書かれていたタイトルを読んでいたせいか、彼が先に教えてくれた。
 ……なるほど。
 どうりで、ちょっとシブい感じがすると思った。
「でも……どうして、祐恭さんのところに……?」
「単に、置き場所がないから」
「……え」
「いや、ホントのこと。宮代先生の部屋行ったらわかるけど、ハッキリ言って人がいる場所じゃない」
 ストレートすぎる言葉を表情も変えずに言われ、思わずまばたきが出た。
 そんな私を見て、平然と彼は『でも、ちょっかい出されるから行かないように』なんて付け加える。
 ……うー……ん。
 正直、この大学という場所での祐恭さんをほとんど知らない私。
 宮代先生との関係も、見た目ではわからない何かがあるみたいだ。
 …………。
 見た感じは、すごく優しそうで温厚そうな先生なんだけど……。
 ため息混じりに彼の話をする祐恭さんを見るたび、ちょっとだけ違和感がどうしても拭えなかった。
「ほら。手が止まってるよ?」
「……あ。すみません」
 積まれたままの、文庫本。
 彼に手を叩かれてようやくそれに気づき、改めて棚に収めていく。
「そういや……さ」
「え?」
「セクハラで訴えられるっていうニュース、最近あるだろ?」
「……ですね」
 唐突と言えば、唐突な言葉。
 でも、昨日のことがあったせいか、正直そこまで過敏な反応は出なかった。
 ――……でも、それがそもそもの間違い。
 少しでも『あれ?』と思った時点で、ちゃんと行動に移せばよかったのに。
 そうすれば……あんなことにはならなかったんだから。
 ……きっと。
「ああいうのはさ、大抵お互いの関係がややこしくなって、それで……ってのが多いんだよ」
「……関係……ですか?」
「うん」
 ひたり。
 背後に気配を感じて顔だけを向けると、私を見下ろしている彼と目が合った。
 ……正直、ちょっとだけ近いなとは思った。
 でも、こうしてそばにいてもらえるっていうのは、やっぱり嬉しくないはずないから自然に顔も緩む。
「痴情のもつれって言ったらいいか。……別れたあとになって、相手をセクハラだって訴える例もないわけじゃないってこと」
 肩越しに、彼が文庫本の1冊を取って棚に収めた。
 ――……と。
「……祐恭さん……?」
「ん?」
「えっと……何か……?」
 するり、とその手が元に戻ることなく、私の手に重なる。
 甲を包むように動き、そのまま――……腕を撫でて肩まで伝った。
 ちょっとだけ、くすぐったい。
 ……だけど。
 本当は、そんな意味で彼がこうしたんじゃなかったらしい。
「…………」
「…………」
「祐恭……さん……?」
 沈黙が、部屋に満ちてどれくらい経っただろう。
 しまわなきゃいけない文庫本は、まだ積まれたまま。
 ……なのに。
 背中には、確かに彼の感触があって。
 腕を撫でた手も、まだ肩にある。
「っ……な……!」
 その手が、ゆっくりと動いた。
 いつしか、もう片方の肩にも乗っていた手のひら。
 そのふたつが交わるように動き、腕が私を抱きしめる。
「……知ってる……?」
「なっ……にを、ですか……?」
 どきどき、と情けなくも鼓動が早くなるのを感じる。
 だって、こんなに近くで……囁くなんて。
 やっぱり、反則だ。
「こけら落とし、ってヤツ」
「……え?」
 普段、あまり聞きなれない言葉。
 でも、もちろん知らない言葉じゃない。
 ……ええと……確か、新しい建物なんかの、オープニングセレモニーとかなんとかで……って。
「……どうして、今……それが?」
 もしかしたら、聞いちゃいけなかったんだろうか。
 だけど、聞かないわけにはいかない。
 ……明らかに、雰囲気が違ったから。
 耳元で囁かれた言葉には、甘い何かが含まれていた。

「その意味も込めて、ひとつ……イイことしたいな、って」

「なっ……ななっ……!?」
「大丈夫。外から見えないから」
「やっ……! そ、ゆことじゃ……!!」
 ぎゅ、と回された腕に力が篭った。
 当然のように、密着度が増す。
 ……しかも。
 少しだけ苦しいということはつまり、逃げられないようにしっかりと……ということ。
「っ……祐恭さっ……!」
「……教授のおもちゃみたい」
「なっ……!?」
「いや、別に」
 腕に手を乗せ、緩く首を振る。
 だけどその途端、耳元でぼそりととんでもない言葉を告げた彼が、器用に私を反転させた。
「ん……っ……!」
 カシャン、と背中に硬いものがぶつかる。
 ガラスが揺れる音。
 びりびりと少しだけまだ余韻が伝わって、喉が鳴る。
「そんなっ……だ、だって! ここは――」
「大丈夫。俺の部屋だから」
「そうじゃなくてっ!」
 ……うぅ。
 やっぱり、ダメ。すごく苦手なの。
 だって、あの……眼鏡、だよ……?
 見つめるなんて、ちょっと無理。
 未だに、ちらっと目が合うだけでも十分すぎるくらい、どきどきして恥ずかしくなるんだから。
「だっ……て……! 隣に、沢山の人がっ……」
「……あー。まぁね。今はまだ、コアタイムだから」
「……コア、タイム……ですか?」
「うん。コアタイムって言ってさ、決められた時間帯は必ず仕事してなきゃいけない時間があるんだよ」
「……へぇ」
「ウチの研究室は、10時から18時。……先生が早く帰りたい人だから」
「そうなんですか?」
「うん。1番いてほしい人が、1番早く帰るからね」
 ……なるほど。
 へぇ、とかふぅんとか、自分でもびっくりするくらい――……普通に聞いていた。
 うなずいていた。
 ということはつまり――……丸め込まれちゃった、という意味。
「っ……そうじゃなくて!!」
 完全にすり替わってしまった意味を、もう1度引き戻す。
 でも、彼は相変わらずにこにこと微笑んだまま、私から力を緩めてくれはしなかった。
 ……まさか。
 まさか、まさか、まさか……!
 嘘、ですよね?
 冗談ですよね……っ?
 眉を寄せて、しっかりとそんな期待を抱きながら彼を見る。
 ちょ……ちょっとだけやっぱり恥ずかしいけれど、でも、がんばってまっすぐ見つめてみる。
 ――……でも。
 彼は、さらに楽しそうな表情を浮かべた。
 ……まっすぐに、私を見つめながら。
「大丈夫だよ」
「……な……何が、ですか……」
 たらり、と汗がひと筋背中を伝った気がした。
 それほどまでに、彼の『大丈夫』という言葉が、大きな力を持っていたんだと思う。
「時間なら、あと50分近くあまってるし」
「なっ……!」
「……あぁ。休み時間入れれば――……ちょうど1時間か」
「ッ……!」
 にやり。
 彼の表情が、明らかに変わったのを見間違うはずもなく。

「――……さぁ。それじゃ、始めようか」

 吐息交じりに囁いた彼は、心底楽しそうな意地悪い顔を見せた。


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