「…………」
「……羽織?」
「…………」
「あれ? ……もしかして、怒ってる?」
「……もぅ」
椅子に座ったまま、ぎゅっと握った両手を膝の上に置いて……どれくらい経っただろう。
少しだけ痺れてる気がしないでもないから、割と長い間かもしれない。
――……あれから。
言うまでもなく、彼は私を……とことん困らせて。
とことん、追い詰めてくれた。
……もう、信じられない。
私は、いつかあの鏡越しに目が合うんじゃないかと気が気じゃなかったのに。
祐恭さんってば、気にかけるどころか、いつもよりずっと嬉しそうにしてるんだもん。
「……えっち」
「お互いさま」
「!? わ、私は……!」
「今さらですね? ……羽織君」
「ッ……」
スーツの上着を羽織った彼が、ちっち、と指を横に振った。
……その、眼鏡越しの表情。
いつもよりずっと意地悪く見えて、なんだか落ち着かない。
「……おいで」
「え……」
ほんのちょっぴり、『ズルい』と彼を咎める顔をしたから、かもしれない。
苦笑を浮かべた彼が、椅子に座ってから……私を手招いたから。
「キスしてあげる」
「なっ……!?」
面と向かって言われた、ひとこと。
それがあまりにも……あまりなことで、瞳が丸くなった。
「欲しくない?」
「ぅ……そ……それは……」
「いらないなら、別にイイけど」
「っや……! ……ぅー……いじわるっ」
ふいっと視線を逸らされた途端、無性に寂しくなって、慌てて駆け寄っていた。
そんな私を見て、満足げに笑う彼。
……ぅ。
やっぱり、私は……彼の手のひらで転がされてるんだろうな。
くすくす笑いながら椅子ごと私に向き直った彼を見て、眉尻が下がった。
「……え……。ここ……ですか?」
「うん。おいで?」
一瞬、躊躇するのも無理はないと思う。
……だって……彼が『座って』って言ったのは、間違いなく、彼の膝の上なんだから。
「…………」
まっすぐ見つめられると、どきどきするのに。
……しかも、こんなふうに彼を見下ろす格好なんて。
体温が全身に確かに伝わって来て、ちょっぴり恥ずかしくもあり……でも、とっても嬉しい。
「……ん……」
両肩に手を置いて、そっと……口づける。
柔らかな感触。
開かれた唇から舌が這入って来て、濡れた、なんともいえない感覚に頭がほんのりふわふわする。
「……は……ふ……」
ちゅ、と小さな音を立てて彼から離れると、すぐに、少しだけ濡れた瞳と目が合った。
……ぅ。えっちぃ。
素直に、彼を見てそんな想いが浮かんだ。
「次の時間は?」
「……え? ……あ……。えっと、教育基本概論です」
「あー。眠たくなる先生らしいから、がんばってね」
「……うー……。がんばります……」
間髪入れずに、彼が痛い所を突いた。
……わ……わかってるんだけれど。
でも、なかなかこう……ええと、ちょっとだけやっぱり、だるいんだもん。
…………はふ。
何も言えないだけに、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「……よ、いしょ……」
ゆっくり彼から降り、改めて身支度を調える。
スカート……濡れたりしてないよね……?
そんなことを気にしながら裾を手で伸ばすと、彼もまた立ち上がって、背を伸ばした。
――……スーツの上に、私が脱いだ白衣を着込みながら。
「……え……? 祐恭……さん?」
「次の時間、俺も講義あるから」
「や……あの……そういう意味じゃなくて」
ふるふると首を振るものの、彼はその笑みを崩すことなかった。
きっと――……わかっていたんだろう。
私の、言いたかったことを。
「それじゃ、一緒に出ようか」
「……え?」
「ほら。この部屋、鍵閉めなきゃいけないし」
「あ。はい……って、あの、だからっ! そうじゃなくて!」
なんとなく、ぽんぽんとテンポよく進んでいくことに対して、いまいち頭が付いていけない。
……というか。
明らかに、丸め込まれ始めてるとは思う。
恐らく、彼自身が当初から描いていた方向に……巧く。
「それじゃ、次の時間はこれ着てがんばるから」
「…………え!?」
「羽織も4限、がんばるんだよ?」
「……あ……っ……え、なっ……!?」
にこにこ笑ったまま頭を撫でた彼を見て、ようやく頭が追いつき始めた。
そ……それって。
なんだか、ものすごく約束と違うような気がするんだけど。
思わず、口を開けたまま彼を見つめ、言葉を待つ。
せめて……何か、私が十分に納得できるような言葉が欲しかったから。
「何? そんな嬉しそうな顔しちゃって」
「してませんよ!!」
「そう? でも、なんか満足げじゃない?」
「違います!」
ひらりひらりと、彼はかわす。
表情も、態度も……何もかも、上手に。
「白衣! 着ないんじゃなかったんですか?」
「ん? そんなこと言ったっけ?」
「言いましたよっ!」
さらり。
いともたやすく、彼は言ってのけた。
……しかも、平然とどころか、むしろ『え?』とどこか心外そうな顔を見せながら。
「大丈夫だって」
「……な……にが、ですか」
「ほら。いくら俺でも、スーツ着てれば学生に間違えられないから」
「っ……そういう問題じゃないです!」
ぴ、と立てられた人差し指。
でも、やっぱり私が考えていたことにはまったく掠りもしなかった。
……うぅ。
わざとだってわかってるけど、でも、わかってるからこそ……なんか切ない。
いったい、どう言えばちゃんと答えてくれるんだろう。
「それじゃ、どういう問題?」
「っ……」
小さくため息をついた瞬間、瞬時に彼が表情を変えた。
捕えるように光る、瞳。
……見てしまった以上、何も言えなくなる。
「…………」
本当はわかってるくせに。
ほかの誰でもない、祐恭さん自身が。
……というか、今回ばかりは絶対にそれはないだろうって思ってたのに。
なのにまさか……本当になっちゃうなんて。
「また、いつでもおいで」
「っ……」
「待ってるから」
そこで、また彼が表情を変えた。
にっこりとした微笑から……いかにもという、彼らしい含み笑いに。
「……っ……祐恭さんっ!!」
明らかな意図。
したたかな計画性。
ニヤリと上がった口角にそれらを間違いなく感じたのは、言うまでもない。
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