「あ。おはようございます」
 週の終わりである、金曜日の朝。
 今日もまた、同じ朝が始まる。
 一緒のベッドから、別々に起きること。
 それは、私が一緒に住み始めたときから、ずっと決めていた絶対だった。
 彼よりも先に起きて、ごはんの支度をする。
 なんてことない、当たり前かもしれない。
 でも、私にとってはすごく重要で。
 どうしても、譲れなかった。
「…………」
「……? 祐恭さん……?」
 珍しく、彼がいつもよりずっと遅く寝室から顔を出した。
 ……のは、まだいいとして。
「……?」
 キッチンにいる私をまじまじと見つめたまま……というよりは、凝視。
 ……ううん。
 もしかしたら、ちょっと睨んでる……?
 ひしひしと伝わって来る視線を感じながらも、私はただただまばたきをするしかできない。
 だって、聞いても何も答えてくれないんだもん。
 ……うー……。
 もしかして、何か気に触るようなことをしちゃったのかな。
 朝から、ちょっぴり不安になる。
「……祐恭さん……?」
 すぐ、ここ。
 シンク前に立っていた私のすぐ隣まで、彼が歩いて来た。
 寝室からここまで、ひとことも喋らず。
 瞳を細めて、少しだけ……機嫌悪そうに。
「っ……わ!?」
 ぺたり。
 いきなり、両手を伸ばした彼が私の頬に触れた。
 しかも、いつもしてくれるみたいな『触れる』感じじゃない。
 どちらかというと、ぺたぺた音がしそうな、手のひらで何かを確かめるような触り方。
「う……きょうさっ……!?」
 むにむに。
 もにもに。
 ぺたぺた。
 相変わらずやむことのない、容赦ない攻撃。
 息をするのもちょっと大変なくらい、頬や額、顎……いろいろ。
 顔という顔を、彼が両手で触れた。
 ……うー……。
 何? いったい、何があったんだろう?
 もしかして私、寝てる間に何かしたのかな……?
 例えば、顔を叩いちゃったとか……何か、そんなことを。
「……なんだ」
「え?」
 こうして、なされるがままになっているのもどうなんだろう、なんて思い始めたとき。
 ようやく、彼がぽつりと言葉を漏らした。

「羽織だったのか」

「……え?」
 予想外の言葉。
 ……というか、『だったのか』って。
 それじゃまるで、今までのことが――……。
「……見えなかった」
「ッ……!」
 思わず瞳が丸くなった。
 だって、今!
 今、彼は目の前で確かに、笑ったんだもん。
 にっこり、じゃなくていかにも企んでましたと言わんばかりの、にやりとした顔で。
「祐恭さん!」
「おはよ」
「っ……もぉ……見えないわけないじゃないですかっ」
「見えないよ? 眼鏡してないし」
 絶対に違うってわかってるような答えを、さらりと口にされた。
 じわじわとあった不安が一気に拭われて、もちろん、嫌な感じなんかじゃない。
 ……でも。
 やっぱり、しょうがないなぁとばかりに笑みが浮かんでいて、自分でも少しおかしかった。

「……バイト?」
 ようやく整った、朝食の席。
 そこで彼は、トーストをかじりながら眉をしかめた。
 ……案の定。
 やっぱりそんな顔されるかなぁとは思っていたけど、実際そうされると……何も反応ができなくなる。
「必要ないだろ、そんなの」
「でも! ……だって生活費だって、私……」
「関係ない」
 ……ぅ。
 さっきまでの和やかなムードが、きれいさっぱり払拭された。
 ぴしゃりと否定されて、細まった瞳をまっすぐ向けられる。
 ……い……居づらい。
 ちょっとだけかじったトーストをお皿に置きながら、ほんのりとため息が漏れる。
「家事全般やってくれてるのは誰だ?」
「けど、それは……!」
「持ちつ持たれつ。……だいたい最初に話しただろ? 金のことは口にしないって」
「……でも……」
 確かに。
 彼とは、一緒に住み始めるときにそのあたりの細かい話をした……と思う。
 だからこそ、曖昧な返事なのは仕方ない。
 だって、祐恭さんにきっぱりと『ひと月○○円で』なんて言われた覚えがないから。
 私としては言ってほしかったんだけど、基本的に光熱費はすべてカードから落ちるようになってるから、食料品もそうしてくれればいいとしか言われなかった。
 それが、実はとってもプレッシャーで。
 しかも、やっぱり……その。
 カードっていうのが、私にはものすごく怖いイメージがあるから、正直あんまり好きじゃない。
 買い物したっていう実感も湧かないし、それに……やっぱり、彼名義だし。
 ……うー。
 まぁ、基本的に買い物へは一緒に行くから、そのあたりの問題はないんだけど。
 ……でも……ねぇ…?
 やっぱり、気持ち的には全然違うんだもん。
「とにかく。この話はおしまい」
 紅茶のカップをかたむけた彼が、ぴしゃりと言い放った。
 ……無論その眼差しは、ばっちり私に向けられている。
「バイトの話も、二度としないように」
「えぇ!?」
「何? 文句?」
「っ……そうじゃ……ないですけれど……」
 ひしひしと感じる……というよりは、突き刺さってくるような眼差しがやっぱり痛い。
 ……うぅ。
 何もそんな顔しなくても。
 ちょっと……ほんの、ちょこっと聞いてみただけだったんだけど。
 でも、案の定通用しなかった。
「…………」
 はふ、と小さくため息をついてから、改めてトーストを手にする。
 バターとジャムを塗ったばかりの、ほとんど毎日同じトースト。
 私は、基本的に朝からご飯じゃなくてもいい人だから、大抵こうして食べている。
 でも、彼の場合は……その日によりけり。
 トーストがいいっていう日もあれば、ご飯がいいっていうときもあって。
 けど、だいたい月曜日の朝はご飯であることが多いかなぁ。
 一緒に暮らすようになって、1ヶ月。
 そろそろ、彼の習慣も大分身に付いて来た。
 ……と、思う。
 もちろん、まだまだな部分のほうが多いんだろうけれど。
「…………?」
 もぐもぐ食べてから、カップに手を伸ばしたとき。
 ……ふと。
 ほんの少しだけ、何か感じるものがあった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 もぐもぐと動いていた口が、止まる。
 そして、トーストを口へ運ぼうとしていた手も。
「……祐恭……さん?」
 ぽつりと名前を呼ぶ。
 だけど彼は、一切の反応を示してはくれない。
「…………」
 もぐもぐ。
「あの……な、んですか……?」
「いや、別に」
 もぐもぐもぐ。
 ごくごくごく。
「っ……祐恭さん……!」
「何?」
「何、じゃないですよ! なんか……もぉ、すごい恥ずかしいんですけれど……」
「なんで?」
「どうしても!」
 さらりさらりと、いとも平然と彼は表情をひとつ動かすことなく返事をした。
 ……うぅ。
 怒ってるなら、そう言ってくれればいいのに。
 じぃっと見られたまま物を食べられることが、こんなにもプレッシャーを感じるなんて思わなかった。
 完敗。
 ……って、いつものことだけど。
「ひょっとして、怒ってます……?」
「別に」
 またも彼は、平然と言葉を口にした。
 本当に、言葉だけ。
 視線も表情も、何も変化はない。
「…………」
「…………」
「っ……もぉ……許してくださいよぉ」
「なんで?」
「なんで、って……!」
「俺、別に何もしてないけど?」
「っ……もう、これからは何も言いませんから!」
 無言の圧力とは、また違う雰囲気。
 ……まさか、こんなふうにしてくるなんて正直、ちょっと考えもしなかった。
 それだけに、ここまで追い詰められたんだろうけれど。
「……もぅ……恥ずかしい」
 彼にまじまじと見つめられたまま物を食べるのが、ここまで大変だったなんて。
 そう思わざるを得ない理由が、実はもうひとつあって。
 それが――……。
「……祐恭さん、わざとやってるでしょ……」
「何を?」
「っもう! 眼鏡ですよ、眼鏡!!」
 言うと、やっぱり頬が熱くなった。
 ……そう。
 私がここまで照れる理由は、それしかない。
 つい数日前に、いきなり変えてしまった眼鏡。
 そのせいで、ここ数日どれだけどきどきさせられたことか。
 むやみやたらに彼も私を試すような素振りばかりしてくるから、ちょっとは学習した。
 ……したけれど……それと、慣れとはまた別の問題で。
「……うぅ……。恥ずかしい……」
 雰囲気がまるで違う。
 それだけに、未だにやっぱり眼鏡越しに目が合うと無性にどきどきする。
 まじまじと視線を合わせる余裕が……ない。
 ……それを知ってるんだ。
 そうじゃなきゃ、こんなふうに意地悪するはずがない。
「……もぉ……」
 新聞を開いているのに、まだ私を見つめたままの彼。
 ようやく食べ終えたトーストの半分をお皿に戻しながら彼を見ると、やっぱりその表情は変化しそうになかった。
「…………」
「…………」
 ……どうやら……相当怒らせてしまったらしい。
 バイトのこと。
 まさか、ここまで尾を引かれるなんて思ってもなかったんだけどなぁ……。
 …………反省。
 紅茶のカップを両手で持ち上げながら、小さくため息が漏れた。

 ――……結局。
 彼がようやく機嫌を直してくれるまで、思った以上に時間がかかった。
 ……けど、噴きだすように笑いながら『面白い子』なんて言われるのは、ちょっとやめてもらいたいんだけど……。
 とりあえず、笑顔が見れたからいいけれどね。
 でも、今朝ばかりは改めて、彼への言葉選びの慎重さを学ぶことになった。


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