「それじゃ、今日も気をつけて行っておいで」
「祐恭さんも、気をつけてくださいね」
「了解」
 いつもと同じ、教員用の駐車場。
 そこへ車を停めてから、一緒に門までの道を歩く。
 ……高校までとは、比べものにならないほどの好待遇。
 何もかもが満たされていて、やっぱり、罰が当たってしまいそうで少し怖い。
「なんか……」
「ん?」
「そうやってベスト着ると、すごく『教授』って感じが……」
「……そう?」
「うん」
 今日の彼は、いつもとちょっと違っていた。
 それは、今指摘した『ベスト』のせい。
 普段はそんなに着ることがないんだけど、今日は珍しく上着の下にベストを着ていたのだ。
 ……なんていうか、こう……いかにもってくらい似合ってるんだけど、それはどうしたらいいんだろう。
 うぅ。
 なんだか、あまりにも……ハマりすぎていて、怖くて口に出せない。
 口を挟んだら最後、引きずりこまれてしまいそうだ。
 ……なんて、考えすぎだとは思うけれど。
「っわ!」
「羽織君。早速、研究室に来たまえ」
「えぇ……!?」
「……そんな顔しなくても」
 いきなり肩を引き寄せられたかと思いきや、耳元で楽しげに囁かれた。
 ……な……なんてことを……っ。
 突飛なことながらも、ちょっとだけ頭にあった言葉。
 でも、だからといって免疫ができているかと言われれば、できているはずなんかない。
「そう言いたいのは山々だけど、俺も講義あるからなぁ…………残念」
「……今、何か言いました……?」
「いや、何も」
 ぽつりと。
 本当にさりげなく、彼が付け足した言葉。
 それは、変な色なんかが一切付いていない、純粋な本音に聞こえた。
 ……うぅ。
 もしかして、祐恭さんってば私の心の中読めるのかな。
 どきどきしたままの胸と、赤くなった頬にそれぞれ手を当てながら、小さなため息が漏れた。
「それじゃ。羽織君も、励みたまえよ?」
「がんばります、先生」
 ――……先生。
 言ってから、本当に久々にその言葉を口にしたのに気づいた。
 どうやら、それは彼も同じだったようで。
 少し離れた場所で足を止めてから……目を丸くして振り返った。
「……久しぶりに聞いた」
「ですね。……私も久しぶりに言いましたもん」
 くすくす笑いながらうなずくと、彼もまた同じように笑った。
 ……久しぶり、かぁ。
 少し前までは、それこそ本当に毎日口にしていた呼び方だったのに。
「……えへへ」
 それが今では、名前で呼び合うのが当たり前になっている。
 ……なんて幸せなんだろう。
 心底から、嬉しさがとめどなく湧いてくる今が、たまらなく満たされているのを感じる。
「ある意味新鮮だな」
「え?」
「いや、なんでもない」
 一瞬、彼の笑顔が違う笑みに変わったのを見た。
 でもそれは本当に一瞬で。
 瞳を丸くして改めて見たときには、ごくごく普通の顔で手を振られた。
「それじゃ、またね」
「……はい」
 お互いに目指す方向は、違う。
 ……それでも。
 ちゃんと、思いを話せたし――……それに、答えだってちゃんと貰えたから。
「いってらっしゃい」
 小さく呟いて手を振ると、彼もまた同じように振り返してくれた。

「……あーー!!」
「っ……え……?」
 ようやく2限目が終わってのお昼タイム。
 絵里と葉月を探しに学食へ入った途端、いきなり大きな声が響いた。
 そして、だだだだっという足音。
 他人に向けられてたならばいざ知らず、向けられたのは――……叫んだ人の真正面にいた私で。
 思わず、ドラマなんかでよくやるように、きょろきょろと振り返ったりしながらほかの人を探していた。
「羽織ちゃん!」
「わっ……私、ですか……?」
「そう! そうよ、あなた! あなた!!」
「え……?」
 きょとん、というよりは愕然……だったかもしれない。
 全然知らない人。
 深々と帽子をかぶって怪しげなサングラスをしている、ぱっと見大学生には見えないような彼女。
 ……彼女。
 …………ん?
「……あれ?」
 たたたたっと駆け寄ってきたのを見ながら、まばたきが出た。
 この、声。
 そして、テンション。
 以前どこかで、お会いしたような……。
「久しぶりねー! 私よ、私!」
「っ……しゃ……紗那さん!?」
 ぱっとサングラスを取って表情を輝かせたその人は、紛れもなく彼女だった。
 ふぁさ、と髪が肩下まで落ちて、いい香りが漂う。
 サングラスの下から見せた笑顔も、やっぱり彼女そのもので。
 相変わらず……きれいというか、かわいい人というか……。
 思わず、こっちにも笑みが浮かんだ。
「お久しぶりです」
「やだもー、ごめんね? 遅くなっちゃって……」
「いえ、そんな!」
 心底申し訳なさそうに両手を目の前で合わせられ、慌てて首と手を振る。
 この、明るくてとっても気さくな感じ。
 ちょっと見ただけじゃ、祐恭さんの妹さんだとは思えないかもしれない。
「改めまして。ご入学、おめでとうございます」
 にっこりと、彼女が背を正してから笑みを見せてくれた。
「……あ……ありがとうございます! 嬉しいです」
 ちょっとだけ、照れくさい。
 でも、『よかったね』と手を握って言ってくれるのは、本当に嬉しいし。
 今ごろになって、同じ七ヶ瀬に入学したんだっていう実感が湧いてくる。
「そういえば……涼さんは?」
「あ。多分ね、そろそろ来るんじゃないかな?」
「そうなんですか?」
「うん。……ほら、今お兄ちゃんに絞られてる時間だから」
 腕時計を見た彼女が、くすくす楽しそうに笑った。
 ……なるほど。
 そういえば、彼も祐恭さんと同じ理学部に在籍してたんだっけ。
「…………」
 ふと、朝の彼の姿が目に浮かんだ。
 出かける前、『今日は面倒くさいな』なんて、珍しく呟いてたんだよね。
 …………。
 もしかして……その理由は、涼さんのこと……?
 思わず、苦い顔をしたまま講義を続ける彼の姿が浮かんで、苦笑が浮かんだ。
「あ。来た来た」
「え?」
 私の後ろへ視線を飛ばした彼女が、『おーい』と言いながら手を上げた。
 それに気づいたらしき人が、ひとり。
 私と目が合った瞬間、にっこり笑いながら……というかちょっと含み笑いを浮かべながら、走ってくるのが見えた。
「羽織ちゃん、久しぶりー」
「お久しぶりです」
「入学も、おめでとう」
「ありがとうございます」
 頭を下げながら、『よかったね』と言ってくれた彼にも笑みを見せる。
 すると、持っていた教科書類をテーブルに置きながら、そこへ腰かけた。
「やー、なかなか学部が違うと会えないんだよねー。よかった、会えて」
「そうなのよね。なかなか行き違うってこともないし」
 心底ほっとしたように笑う彼と彼女に、うなずきながら笑みを浮かべる。
 ……と。
 まじまじとそんな私を見つめた涼さんが、顎に手を当ててから――……にんまりと満足げに微笑んだ。
「え……?」
「いやー、そういやさぁ……実は、ひとつ羽織ちゃんにお土産があるんだよね」
「お土産……ですか?」
 両手を腰に当てた彼が、うんうんと何度もうなずいた。
 ……お土産。
 でも、その両手には何も持っていない。
 だけど、すごく楽しそうで、どこか満足げな笑み。
 ……うーん……?
 いったいなんのことなのか、正直検討もつかなかった。
「さっきの時間さ、俺、兄貴の講義だったんだよ」
 ぴ、と人差し指を立てた彼が、にっこり笑った。
 ……なるほど。
 紗那さんが言っていたのは、このことだったんだなぁと改めて思う。
「んでさ」
「はい」
「実はそこで――……珍しく、兄貴が『自分語り』を始めたワケよ」
「えー! うそ!! お兄ちゃんが!?」
「そう! あの兄貴が!」
「えぇえー! うっそ! 信じらんない!!」
 私が声をあげるよりも先に、絶叫と呼べるくらいの声量で紗那さんが瞳を丸くした。
 慌てて口に手を当てたけれど、一斉に集まった注目は今のところそう簡単に剥がれそうにない。
 だけどふたりは、知ってか知らずかわからないけれどさらに楽しそうに話を続けた。
「授業中にさ、恋愛は果たして化学反応から起こるのかどうかって話が出たワケなんだ」
 そう言って涼さんは、にまにま笑いながら私を見つめた。

「先生は彼女いるんですか?」
 講義も、残り10分を残すところになったとき。
 涼の前に座っていた学生が、おもむろに手を挙げた。
『……うわ、コイツチャレンジャーだなー』
 と、彼が思ったのは言うまでもない。
 なぜならば、大学で見る祐恭の姿は家でこれまで見ていたモノよりもずっと無愛想極まりなかったからだ。
「いるよ」
「……え」
 ごくごく普通の顔で返ってきた、返事。
 しかも、ふっつーに答えたな。ふっつーに。
 頬杖を付いたままいったいどんな反応を見せるのかと思っていた涼は、思わず身を乗り出していた。
「それはどんな人ですかー」
 調子付いたほかの学生が、さらに質問を投げかける。
 もうすでに、室内は終了モード。
 ざわつきと一緒に、あちこちから野次も飛び始めている。
「……そうだな。ヤバいくらいかわいくて、放っておけない子」
「うっそ、マジで!? つーか、先生ノロけすぎだし!」
 ……うわー。
 ちょっと俺、今身内だってこと忘れて腹が立ったかもしんない。
 ぴくり、と眉が片方上がったのを感じて、まさに『ツワモノ』と化した目の前の若手講師を睨みつける。
 くそー。
 エリートだからって、ブルジョワが許されると思ってるヤなヤツめっ!
 天罰が下るぞ、天罰が!
 ……ああもう。
 これで乗ってる車と住んでる家がバレたら、狩られること間違いなしだな。
 …………。
 つーか、そもそもあんなこと言っちゃってる先生と俺が兄弟だなんてバレた時点で、俺のほうがいろいろ痛い目に遭いそうだけど。
 ごくり、と喉を鳴らしながら『とりあえず、もうそれ以上言うな』と心の中で彼が思ったのは、事実。
 だが、そんな思いに反して、隣に座っていた友人が思い出したように顔を上げた。
「あ。でも俺、見たことあるかも」
「え゛」
「……なんだよ、すげーリアクションだな」
 思わずカエルみたいな声が出たことに、まずびっくりする。
 だが、いくらあんな兄貴が憎いとはいえ、被害が彼女であるというだけの羽織ちゃんに及ぶのだけは、ちょっとポリシーに反するワケで。
 ぴんと来たとばかりに声をあげた彼が、何を言い出すのか少し不安だった。
「前さ、先生が中庭に居たときなんだけど。すんげぇかわいい子に、なんか服とか渡しててさー。んで、そんときの先生の顔がマジ、ヤバかったもん」
「うわ、見てぇ」
 盛り上がり始める、友人一行。
 だが、当然自分はその輪に加わることなどできず。
 人一倍情報を持てあましているだけに、むずむずと、こう……口が……。
「……ま、何を言ってもらっても構わないけど、紹介しないからな。俺、独占欲強いから」
 ――……が。
 危うく同意するように口を開きかけた途端、にっこりと満面の笑みをもって教壇に立っている講師がこの場を制してしまった。
 男子学生どころか、数少ない貴重な女子学生に対しても、そっけない態度しか見せなかった彼の根本的な理由は、それだったのか。
 ……と、恐らく多くの学生諸君は思ったことだろう。
 と同時に、沢山の嫉妬の鬼を作り上げてしまったことも否めない。
「……すげ」
 何がすげーって、兄貴があんだけベラベラとはっちゃけちゃったことが。
 半ば呆然と何やら腹の立ってくる不敵な笑みを見つめたままでいたら、いつの間にか口がぽかんと開いていたのは言うまでもない。

「――……ってワケ!」
 熱気も冷めやらぬという感じで一気にまくしてた涼さんは、私の顔を見てから紗那さんと『スゴくね!?』と盛り上がっていた。
 ……そ……それは……本当に、本当のことなのかな。
 私にはまったく想像が付かない世界。
 そもそも、彼が私なんかのことを話してくれるなんて。
 し……しかも!
 こともあろうに講義の時間に、だよ?
 ……ありえない。
 絶対に、ありえない。
 そうは思うけれど、でも――……目の前の彼は、確かに彼の講義を受けているわけで。
 それどころか、今、まさに終わったばかりのほやほや状態。
「やだもー! ひゅーひゅー!!」
「わっ!? え、しゃ……紗那さん?」
 ぺちん、と軽い音がして顔を上げると、すんごいかわいい顔をしてにまにま笑っている彼女がいた。
「やだぁー! だって、ちょっ……もぉ、やだー!! このこのー!」
「きゃー!?」
 ぎゅうっと肩を抱き寄せられて、つんつんと頬をつつかれた。
 ……か……かわいい人なんだけれど、どこか……祐恭さんと同じ雰囲気があるのはなぜだろう。
 兄妹だから、とかって理由じゃないような気がする。
 だって、少なくとも涼さんには感じないものだから。
「いやー。もう、ホントに今までにないパターンだよなー」
「うんうん!!」
「……そうかそうかー。あの兄貴も、いよいよそこまで来たのかー」
「ねっ! なんかこう……新時代って感じしない?」
「あ。するかも。ある意味な」
「でしょ!?」
 ……え……ええと。
 何やら、枠の中にいるような気がするのに明らかに蚊帳の外みたいな。
 思いきり目の前で自分たちのことで盛り上がられて、正直、付いて行かなきゃいけないんだろうけれど、ついて行けない感じが少し……。
 ――……だけど。

「……ほぉ」

 ぴし。
 本当にすぐ背後で聞こえた声が、楽しさ満点だった雰囲気すべてを一瞬で凍りつかせた。
「……あ……ああああ兄貴……!?」
「お……おに、おっ……お兄ちゃん……!?」
 振り返るまでもなく、手に取るようにわかる後ろの状況。
 ふたりの、引きつった笑みと震えの残る声からして、間違いない。
 ……彼の表情は、考えているようなものなんだろうな。
 私を飛び越して明らかに高い位置を見上げているふたりを見たら、なんともいえない曖昧な表情が浮かんだ。
「……勝手に人のことで盛り上がって、随分楽しそうじゃないか」
「いや! そ、それはその……な!?」
「そっ……そう! そうなのよ! あはは! ね……ねぇっ!? 羽織ちゃん!」
 ぽん、と肩を叩きあうリレーが続き、最後に私まで回って来た。
「え!? あ……え、ええと……ええ。そうですね」
「……コラ」
 心なしか、私を見るふたりの瞳から『助けて』という言葉が見えた気がしてつい、何度かうなずきながら乾いた笑いが漏れた。
 ……けど。
 案の定、厳しくそして冷たくもある言葉が、背中に当たって来て。
「君は、あとで俺の部屋に来るように」
「えぇ……!?」
「問答無用」
 振り返ると同時に、思っていた通りの眼差しに捕まった。
 ……う。
 まさに言葉通り、入る余地すら与えてもらえなかった今。
 きっとこのまま何を言っても、『そうじゃない』と瞳を細められるだけに違いない。
「これに懲りたら、俺をネタにしないように」
 『いいな』と、もう1度強く念を押した彼が離れて行ったのは、それからしばらく経ってからだった。
 その間何をしたのかというと――……すっかり先ほどまでの勢いがなくなってしまった、紗那さんと涼さんへの、お説教めいた訓示。
 そのせいかふたりの姿が少しだけ小さく見える。
 ――……だけど。
「……はぁ……」
 正直、どこまでが本気なのかわからない。
 でも、だからといって彼の部屋に行かなければ、それはそれで何か言われるに決まってる。
 ……もちろん、行ったら行ったで何か言われるんだろうけれど。
「…………」
「…………」
「…………」
 このとき、彼を見たまましょんぼりとため息をついた私の背中を、ふたりが揃って『逢引ね』『逢引だな』『お兄ちゃん、やるぅ』『しかも堂々と身内公認だぜ?』なんて目で見ていたのは、気のせいじゃなかったと思う。


ひとつ戻る  目次へ  次へ