「……まだ怒ってるの?」
「怒ってないもん」
「怒ってるだろ? ……ほら」
「っ……お……怒ってません!」
 マンションの駐車場。
 そこから歩いてエントランスに向かう途中で、彼が楽しそうに笑いながら私の顔を覗き込んだ。
 ……怒ってないもん。
 ………………ちょっとしか。
 なんて、言うに言えない。
「羽織がうまそうっていうのは、別に比喩でもなんでもないんだけど……」
「そういう問題じゃないんです!」
「そう?」
「……そうですよ」
 どうして、こんなにあっけらかんと……しかも悪びれずに言うんだろう。
 確かに、それが彼だと言われれば何も言い返せないんだけど……。
 なんかなぁ。
 それはそれで、ちょっと違うような気もする。
「……あ」
 そんな彼と一緒に、エントランスに入ったとき。
 私たちの前に、1組のカップルがパネルで操作をしていた。
 ……見たことのない、人たち。
 っていっても、まぁ、そもそもこのマンションの住人さんに会うなんてことが、まずないんだけれど。
 現に、私が知ってるのはよくゴミ出しのときに会うおばあちゃまと、管理人さんくらいだもん。
 知らない人がいるからって、別になんの不思議もない。
 ……なん……だけど。
「…………」
 つい、そんなふたりへ見入ってしまった。
 楽しそうに笑いながら、キーを差し込んでドアを開ける。
 ……なんか……少し前の自分を見ているみたいで。
 懐かしいような気持ちと、ほんの少しの寂しさが、胸に広がった。
「…………」
「…………」
 軽く会釈をしてから去っていったふたりを見たまま、何も言えず、ただただそちらを見たままだった私。
 すると、1度閉まった扉が再び開いて、少しだけ笑っている祐恭さんが私の手を引いた。
「どうした?」
「……あ……。……別に」
 先ほどまでとは違って、すごく優しい声。
 ……不覚にも、つい……まじまじとそんな彼に見入ってしまう。
「ん?」
 もしかしたら、そんな私が珍しかったのかもしれない。
 少しだけ不思議そうな顔をした彼に――……気づいたときには寄り添って抱きついていたから。
「羽織?」
 囁かれる、名前。
 だけど、この体勢をやめることは、ちょっとできそうにない。
 ……ううん。
 正確には、したくない……っていうか。
「……ちょっとだけ」
「どうした?」
「ちょっと…………悔しかった、の」
 小さく小さく、彼を見ずに囁く。
 何が? とか、どうして? とかって理由を問われても、ちゃんと答えられないから。
 ……でも、ひとつだけ。
 さっきのカップルの姿を見て、私だって――……なんて少しだけ悔しかったのかもしれない。
「……あ……っ」
 情けないな、って思った。
 何してるんだろう、って。
 ……でも彼は、小さく笑ってからそんな私の肩を引き寄せてくれた。
 弾かれるように見上げれば、満足げに笑っている彼がいる。
「……祐恭さん……」
「……ったく。素直じゃないんだから」
「え……?」

「今はもう、前までの俺たちじゃないんだから」

 囁くように告げられた言葉で、瞳が丸くなった。
 ……それは間違いなく、今、私が欲しかった言葉に似ていて。
 じんわりと、情けなくも瞳が潤む。
「誰に遠慮する必要もないだろ?」
「それは……っ……」
「なら、どんどんやってくれていいのに」
「……ん……っ」
 こくこくと、情けなく何度もうなずくのが精一杯だった。
 優しい言葉。
 欲しくて欲しくて、だけどなかなか自分からねだれなくて。
 ……だからこそ、嬉しかった。
 すごくすごく、ほっとした。
 あぁ、自分もちゃんと受け入れてもらえていたんだな、って。
 彼を疑っていたわけじゃ決してないけれど、素直に、うなずける。
「……これからは、いつだってこうしよう」
 それは、決して独り言なんかじゃない、私に対する言葉で。
 見上げて彼をまっすぐ見つめると、情けない顔のままだけどちゃんと笑ってうなずくことができた。

「……で?」
「え?」
「何か面白いことあった?」
 玄関を開けてから、靴を脱いで上がったとき。
 おもむろに、彼が楽しそうな顔を見せた。
「……面白いこと、ですか?」
「うん。何もなかった?」
「……えー……と……」
 彼の言う『面白いこと』の判断基準がいまいちわからない。
 ……ふざけたことっていう意味なのか、はたまた、楽しかったって意味なのか。
 …………うーん。
 彼とは笑えるポイントが一緒だと思っているけれど、でも、この質問って結構難しいと思う。
 どうなのかな。
 でも、このときの私には、面白いというような印象深いことは特に残っていなかった。
「うーん……」
 リビングのソファに腰を下ろしてから、彼を見る。
 すると、キッチンから紅茶のペットボトル片手に、隣へ座った。
「えっと……推薦入試のとき、受験票を一緒に探した子の話は……もうしましたよね?」
「うん。聞いた。……中学まで一緒だったんだろ?」
「です」
 ――……そう。
 はやみーとは、入学式の次の日にはもう再会して話をすることができていたから、その日にもう彼へは報告したんだよね。
 だって嬉しかったんだもん。
 どうして教育学部を目指したの? って聞いたら、彼女もまた同じ理由を挙げたから。
 小学校5年生のとき、私たちの担任になった先生。
 その先生に憧れてなんだ――……って、私とまったく同じ理由から、同じ目標を抱いてるんだって知ったんだから。
「結局、お互いの高校時代の話をしてたりして……なんか、気づいたら時間が経ってました」
「なるほど。……楽しかったんだ?」
「……えへへ。楽しかったです」
 彼ならきっと、こう言ってくれるだろうなとは思っていた。
 だからこその言葉をもらえて、素直に嬉しい。
 ……手が優しいんだよね。
 なでなでと頭に触れられて、ふにゃんと頬が緩み……ついつい甘えるように身体を預けていた。
「……そういえばさ」
「え?」
 どれくらい、べったりと彼に抱きついたままだったろう。
 目を閉じて彼に寄り添ったままでいたら、静かな声が身体に響いた。
「…………」
「……? 祐恭さん……?」
 顔を上げると、そこには私をまじまじと見つめている彼がいて。
 ……?
 ほんの少しだけ、今までと様子が違う気がする。

「酒、飲んでないよね?」

「……え?」
 一瞬、きらりと彼の瞳が鋭く光ったような気がした。
 でもそれは、決して気のせいなんかじゃなく。
 彼の表情は、いたって真剣。
「……ま……まさかっ! 飲んでませんよ!!」
 ぶんぶんと首を振ってから、思いきり否定する。
 ……ぅ。
 な……なんですか? その顔は。
 もしかして、疑われてるのかなぁとしか思えない眼差しに、一瞬喉が鳴る。
「はーってしてごらん?」
「……え」
 どこか、真面目な……というよりは、なんだか……まさに普段の彼というか。
 彼らしい雰囲気があって、まばたきが出る。
「……あ。でも、あの……焼肉食べたし……」
「いーから」
 躊躇するのは、当然だと思う。
 ……だ……だって。
 いくら彼に言われたからとはいえ、そう簡単に『それじゃ』とできるようなことなんかじゃないもん。
「……ほら」
「ぅ。……はー……」
 口に手を当てながら、ほんの……ほんの気持ち程度、そっと息を吐く。
 ……うー。
 変な顔されるに決まってるから、やりたくないのに……。
 だって、にんにくとか葱とか、いろいろ乗ってたんだよ?
 ……うぅ。
 なんだか、いじめられてる気分。
 …………って、『気分』じゃなくて実際にそうなんだと思うけれど。
「べ、ってして」
「……ぅ……」
 どこまでも、真剣な顔。
 それが、余計にどきどきするんですけれど。
 緊張というか、なんというか。
 取調べを受けているみたい。
「……えぅ」
「…………」
 別段何も変化を見せなかった彼が、両手の親指を瞼の下に当てた。
 ……目……って、何かあるのかな。
 というか、そもそもこれはいったい何の検査なのか。
 それすらもわかっていない私には、彼がどんな反応をしようといまいちよくわからないんだけれど。
「……ふむ」
 ひと通りチェックを終えたらしき彼が、腕を組んでから私を見つめた。
 ……何言われるんだろう……。
 正直、とんでもないことを言い出されかねない気がして、鼓動が早まっていた。

「それじゃ、風呂入るか」

「え!?」
 彼が告げたのは、思った以上に突拍子もないことだった。
「え……っ……え!? なっ……ど、どうしてそうなるんですか!?」
「酒飲んでないんだろ?」
「それはっ……! もちろん、飲んでませんけれど……でも!! どうしてそれが、お風呂になっちゃうんですか!?」
 突然のことに、ばくばくと心臓が打ち付ける。
 でも、なぜかそんな私とは正反対に、ものすごく落ち着いた表情の彼。
 別段、何かを気にしている様子もなければ、思っているような感じも受けられない。
 ……ほ……本気?
 まじまじと彼を見つめたまま、ほんのりと笑いが漏れた。
「なんで……?」
「酒飲んでないなら、一緒に入れるだろ?」
「……そ……それは……って、そうなんですか?」
「もちろん」
 有無を言わせないような、そんな雰囲気だった。
 ごくりと喉を動かし、まじまじと彼を見つめる。
 普通の顔で、まっすぐ見つめてくる瞳。
 そこには、『冗談』めいた雰囲気はない。
「……でも私、本当に酔ってないですよ……?」
 一応の、自己弁護。
 そんなことしたって、何になるわけじゃないのはわかってる。
 ……わかってる……んだけど。
「…………え?」
 彼に、動きがあった。
 ぐっとこちらへ体重を移動させたかと思いきや、これまでと違って、明らかに楽しそうな表情を浮かべたのだ。

「……じゃ、俺に酔ってみる?」

「っ……な……!」
 目の前、3cm。
 まじまじと私を見つめた彼は、おもむろに耳元でぼそりと囁いた。
 めいっぱい色っぽく、これでもかというくらいに吐息を含んで。
「なっ……ななっ……!?」
 かぁっと顔が熱くなるのがわかった。
 ……だ……だって。
 だって、だってな内容なんだもん……!
「……なんだ。ホントはやっぱり飲んだんだろ」
「のっ……飲んでませんよっ!」
「じゃあ、どうしてこんなにしなだれかかって来る……?」
「っ……それは……!」
 ぼそぼそと、相変わらずの責め立て。
 でも、さすがに正直には言えなかった。
 『腰のあたりから、力が抜けたから』なんて。
 ……だってそんなこと言ったら、間違いなく彼にもっと責めやられるに決ってるもん。
「…………」
「…………」
「……ぷっ……」
「ぅ……もぉっ……!」
 どうやら、相当困惑した顔をしていたらしい。
 まじまじと私を見つめたあとで、堪えかねたかのように彼は噴き出した。
 くすくすとおかしそうに笑われ、そんな彼を見る私はほんのちょっぴりまだ赤い顔のまま。
 ……もぉ。
 まさか、そんなこと言われるなんて思わなかったんだもん仕方ないと思う。
 ――……でも。
「……もぅ」
 いつしか、自分にもやっぱり笑顔が浮かんでいた。
 つられるように笑い出し、彼にもたれてから……そっと腕を回す。
 ……知ってるはずなのに。
 私がいつも祐恭さんと一緒にいるとき――……どんなことを思っているか。
 どんなことを感じているか。
 たとえ……敢えて口に出さないとしても。
「……明日はさ」
「え?」
「どこか、行きたいトコある?」
 肩を引き寄せてくれた彼が、さっきと同じようにまた耳元で囁いた。
 甘い、声。
 優しくて、温かくて、心から全部溶けてしまいそうになる。
「…………」
「……ん?」
 でも……今はちょっとだけ、答えるよりも……こうしてそばにいたい。
 一緒にどこかへ行くのも楽しいけれど、何もしないでただこうしているのも……やっぱり好きだから。
「……羽織?」
 頬にかかった髪を耳にかけてくれたとき、ゆっくりと彼に向き直る。
 自分が今抱いている気持ちを、精一杯丁寧に込めて。

「……明日までに、ちゃんと考えておきますね」

 だから――……どうか今はこのままでいさせてください。
 そんな想いを込めて、もう1度彼にぺたりと寄り添った。

 ……どうか。
 こんな夜が、長く長く続いてくれますように。
 すぐに明けてなんか、くれませんように。
 ……だって……本音を言えば明日になってくれなくてもいいから。
 今日のまま、ずっと……ずっと、この日を繰り返しでも構わないとさえ思っているから。
「……えへへ」
 彼に頭を撫でられながら、初めて、そんなことを強く強く思った。


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