「それじゃ、お疲れさまでしたー」
「また月曜から、がんばろーねーぇ」
「またねー」
「ばいばい」
 クラス内での親睦コンパを終え、お店のマイクロバスで送ってもらったのは大学前にあるバスのロータリーだった。
 思った以上に、広いこの場所。
 ちょっとした、駅のバス乗り場くらいの規模があると思う。
「はーちゃん、これからどうするの?」
「あ。私は1次会で帰るよ。……えっと……」
 はやみーに首を振ってから、ふと……視線を向こう側へ。
 この、バスのロータリーの後ろには教員用の駐車場がある。
 ……そう。
 いつも、祐恭さんが毎日車を停めている場所だ。
「……えー……。……あ」
 ありました。
 いつもと同じ、場所。
 バックで駐車されている、見慣れた……赤のRX-8。
 でもそれは、どうしてかわからないけれどいつもと雰囲気が違って見えて。
 なんともいえない、黒いオーラが漂っているようにも見えた。
 ……き……気のせいだと思うけれど。
 でも、正直言ってドアを開けて『ただいま』なんて笑顔で言えるような状況じゃないと思う。
 少なくとも、私の第六感がそう告げている。
 あの車の運転席には――……私を、不機嫌そうにまじまじと見つめる男性がいるだろう、と。
「それじゃ、また月曜日にね」
「あ。うん、それじゃまたね」
 いそいそと手を振ってあいさつしてから――……私も、彼のほうへ。
 バス停あたりで2次会の行き先を決めているみんなにも一応の断りを告げ、手を振ってから、差しさわりないあいさつとともに……ゆっくりと足を向ける。
 ……な……なんて言ったらいいかな。
 真っ暗なせいで車内の様子がまったく見えない車に1歩1歩近づいていくと、やっぱり緊張している自分がわかった。
「…………」
 ぴたり。
 足を止めてから、ドアの窓に手を伸ばす。
 街灯があるから、恐らく彼には私の姿が見えているはず。
 ただしもちろん――……それは、私を彼が見てくれていれば、の話だけど。

 コンコン

 ガラスを軽く叩いてみる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 ガチャ

 ほどなくして――……というには、随分と間が空いてからようやく鍵が開いた。
 ……こ……この無言の時間が、ちょっと怖い。
 やっぱり、怒ってるのかな。
 だって、今朝も散々言われたんだもんね。
 し……仕方ないのかな、と思わなくもないけど。
「……か……帰りました」
 ドアを開けてから、そっと中を伺う。
 ……う。
 彼の性格上、仕方ないとは思うよ?
 ルームライトを付けない主義だから、暗い……っていうのは。
 だけど。
 だけど……ね?
 何も、そこまで――……私の想像通りじゃなくてもいいじゃないですか。
「…………」
 思わず、助手席にゆっくり乗り込みながら彼を見て、喉が鳴った。
「…………」
「……ええと……」
「…………」
「祐恭さん……?」
 ごくり。
 話しかける前に、気合を入れるかのようにまた喉を鳴らす。
 ……だって、すごく……なんていうのかなぁ。
 すごく、独特の雰囲気があるんだもん。
 怒っている、とも違う。
 ……でも、明らかに歓迎という感じではないものを。
「いいよなー」
「え?」
「俺、今まで仕事だったんだけど」
「うぇ……っ……!?」
 低い低ーい、静かな声。
 ゆっくりとしたテンポで、彼がようやく口を開いた。
「……はーあ。メシ食ってないし、腹減ったなー」
「ぅ……」
「いいよなー誰かさんは。……焼肉だっけ? 今日」
「……ぅっ……」
「イイ身分だよなー。……腹減ってる人間の車ン中に、焼肉くせー格好で乗って来たりして」
「え!?」
 こちらを向いた彼が、ちらりと私を頭からつま先まで見つめた。
 ……そ……それはもしかして。
「…………」
 慌てて、自分の服の匂いをかいでみる。
 ……とはいえ、これまでもうもうとした煙の中に入っていた自分。
 そんな簡単に、麻痺してしまったこの鼻で、わかるはずもない。
「車内にポテトとかの匂い充満するの、俺が好きじゃないって知ってるはずなのに」
「……っ……」
「それなのに、堂々と『焼肉です』って主張しながら乗り込むなんてなァ」
「ぅ……そ……それは」
 しどろもどろになりながら、彼にあたふたと言葉を探す。
 もちろん、どれもこれも言い訳にしかならないのは承知の上。
 それでもやっぱり、だからといって何も言わないままでいるなんてことができなくて。
 情けなく眉尻を下げたまま、あれこれと思いつく言葉を整理し始める。
 ――……途端。
「ッ……!」

「それは、何? ……俺に食ってもいいよっていうアピールなワケ?」

「……へ……!?」
 ぐいっと強く肩をシートに押し付けられたかと思いきや、彼の顔がすぐ目の前にあった。
 思わず息を呑んで彼の出方を伺う。
 けれど、案の定彼はじっとなんてしていてくれなかった。
「っや……!?」
「ったく。……腹減ったんだよ俺は」
「きゃ……ははは! あは! やだっ! やだやだ! くすぐったいですよ!!」
「あー。この辺、すげーうまそう」
「あははははは!! やだー! くっ……くすぐった……! あは! やだぁーっ!」
 いきなり首筋をくわえられたかと思いきや、はむはむと唇で挟まれ、情けない声が漏れた。
 だ、だってだって!
 そこっ……ものすごくくすぐったいのに……!
「やだー! 祐恭さっ……あはは! ご、ごめんなさっ……! ごめんなさいぃい」
「ヤダ」
「やっ……だ、だっ……あはは!! 許しっ……許してぇっ……!」
 ただ単に脇腹をくすぐられるよりも、ずっと堪えられない仕打ちだった。
 苦しくて、くすぐったくてやっぱり……くすぐったい。
 たまらない、感じ。
 脇をやられるアレとは、少し違う。
「はぁっ……はぁ……はー……ふー……」
 いったい、どれほど続いただろう。
 ようやく彼が解放してくれたときには、すでに息が上がり切っていた。
 はあはあと大きく息をつき、シートに思い切り身体を預ける。
 ……あー……苦しかった……。
 情けない顔になっているのがわかるけれど、仕方がない。
 だって、まさかこんなことになるなんて思わなかったんだもん。
「懲りた?」
「……え?」
「これにわかったら、少しは反省するように」
「……ぅ。……ごめんなさい」
 まるで、先生そのものの口調。
 生徒指導を受けている生徒みたいになって、次の瞬間しょんぼりと謝っていた。
「……ま、いいけど」
「え?」
「あー、楽しかった」
「……え!?」
 そこでようやく、彼がエンジンをかけた。
 すぐに大きな音が響いて、同時に――……ライトへと手を伸ばす。
 でも。
 声が、違う。
 ……明らかに、今までのものと。全然……!
「祐恭さん……?」
「あー。俺も今夜は肉がいいなー」
「え?」
「焼肉。よろしくね?」
 メーターパネルの明かりで、ようやく彼の表情がわかった。
 ……それはもう、明らかに。
「っ……!!」
 しばらく彼を見つめたままでいたら、徐々に自分の置かれていた状況がハッキリしだした。
 ……や……やられた……!?
 くっくと笑いながらギアに手を伸ばす彼は、明らかに笑っていて。
 しかもその顔は、これまでずっと……笑うのを我慢していたような、そんな感じで。

「祐恭さん……っ!!」

 私が叫ぶのと彼が思いきり笑い出したのとは――……ちょうど同じタイミングだった。


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