「……祐恭さん」
「ん? ――……却下」
「なっ……ぅ……。そんな顔しなくても……」
 お揃いの、マグカップ。
 それを彼に見せると、振り返ったときとはまったく違ってものすごく険しい顔をした。
 ……そんな顔しなくてもいいのに……。
 とはいえ、ちょっとだけ『無理だろうな』って思ってたから、そこまでショックではないんだけれど。
「この前、百歩譲って茶碗揃えただろ? ……これ以上はいい」
「……かわいいのに……」
「だからダメなんじゃないか」
「…………やっぱり」
 毅然とした態度のまま首を横に振った彼を見て、苦笑しか浮かばない。
 ……だよね。
 ダメモトで言ってみたんだけど……やっぱり、ね。
 いくらなんでも、コレは駄目らしい。
 ……かわいいのになぁ。
 デフォルメされた、狼が描いてあるマグカップ。
 …………。
 ……別に、祐恭さんにそっくりだとかは思ってないのに。
「今、やっぱりって言った?」
「え?」
 仕方なくそれを棚に戻してから、彼に向き直ったとき。
 横から、手が伸びてきた。
「俺が嫌がるのわかってて言ってんの? てことは何? 俺に対する挑戦?」
「えぇ!? やっ……違いますよ! そんなんじゃ……っ」
「じゃあ何」
「……うぅ……。祐恭さぁん……」
 片手でマグを弄りながら、彼が瞳を細めた。
 ……うぅ。
 その眼鏡に替えてからというもの、なんだかこうして弄られることが多くなったような……。
 気のせいだと思いたいけれど、本当に気のせいだろうか。
 ……違うような気がしているのは、しっかりわかっているんだけれど。
「あっ……!?」
 カップを弄っていた彼が、おもむろに向きを変えた。
 手には、ふたつのマグ。
 いつの間に持ったのか、対になっているウサギも一緒に。
「え、い、いいですよ!」
「なんで。欲しいんだろ? 買ってあげるよ」
「やっ! あの、そういうつもりじゃ――」
「いいんだってば」
 どうしてもどうしても、コレが欲しい! というつもりで言ったわけじゃない。
 ただ、あまりにも彼に雰囲気が似てて。
 それで……見てほしかったというのはあったんだけど……まさか、こんなことになるなんて。
「……それに、コレがあるほうがいろいろとイイし」
「…………え?」
 レジに並んだ彼を慌てて追いかけ、隣に並んだとき。
 ぽつりと……本当にさりげなく、彼が囁いた。

「今日の君の発言は、重く受け止めよう」

「っ……な……!」
「すみません、これを」
「はい。ありがとうございまーす」
「祐恭さんっ……!?」
 なんですか? 今の、不敵な笑みは。
 一瞬冷たいものが背中を伝って、ごくりと喉が鳴った。
 まるで……そう。
 『活用できるしね』とでも言われているように思えて。
「……っ……うぅ」
 かわいい袋に入れてもらったマグを手にした彼を見て、小さく反省の念が生まれた。

「それじゃ、あとはもういいの?」
「……です」
 お店から出て、彼の横に並ぶ。
 ……はぅ。
 気持ち、ちょっとだけ沈みがちなのは……自分のせいなんだから仕方ないんだけど。
 でも、このまま家に帰るのがちょっと不安でもあった。
「買出しとかもいい?」
「あ、はい。……明日後……また、来てもらえます?」
「いいよ、別に」
 エレベーター前に立った彼を振り返ると、笑ってうなずいてくれた。
 ……ほ。
 今日明日の分はあるんだけど、明日後まではないんだよね。
 せっかくだし、さっき彼が言ってくれたメニューを作りたい。
「……揚げもの、明日でもいいですか?」
「うん。タルタルソース付けてくれれば」
「はぁい」
 上りのボタンを押して乗り込み、4階を押す。
 そのとき、ふと楽しそうに笑った顔が印象的だった。
 ……この前作ったとき、『おいしい』って言ってくれたんだよね。
 お兄ちゃんと違ってマヨネーズが好きってタイプじゃないだけに、ちょっと考えたんだけど……でも、喜んでもらえてすごく嬉しかった。
 ましてや、こんなふうにリクエストを貰えるなんて。
「でも、なんで明日?」
「え……っと……あんまり大した理由じゃないんですけれど。ただ、月曜日がゴミの日だから……」
「ゴミ?」
「です。ほら、あまり沢山は油使わないですけど、それでもどうせ処分するなら日をあけずに出せたほうがいいかなと思って」
「あー……そうなんだ」
「そうなんです」
 わかったような、わからないような。
 そんな曖昧な返事ではあったものの、うなずいてもらう。
 生ゴミなんかは、ディスポーザーが付いてるからそのまま処理してくれるんだけど、さすがに油を流しに捨てるわけにはいかない。
 ……最近では、廃食油として集めたりしてるみたいなんだけど……。
 でも、ウチの場合は、使ってもフライパンに1cm程度。
 沢山揚げ物をすることもないし、大抵は揚げ終ったときには残っていない。
 だから……まぁ、いらなくなった布とかで拭いて、燃えるゴミの日に出しちゃうんだけど。
 …………うーん。
 とはいえ、祐恭さんにゴミの日云々の話をするのは……これが初めてかもしれない。
 普段も、これといって気にしている感じでもないし。
 一応は冷蔵庫の隣に、さりげなくゴミの日カレンダーを貼ってみたりしたんだけれどね。
 実は、そこまで浸透してないらしい。
 ……まぁ、いいんだけど。
「あ……」
「こっち」
 3階でドアが開いた時、数人が乗り込んで来たのを見て、彼が私の肩を引き寄せてくれた。
 見上げれば、優しげに微笑んでくれている姿が。
 ……えへへ。
 最近、ちょっとしたときにすごくすごく嬉しさがこみ上げる。
 ……幸せを感じるって言ったらいいかな。
 本当に、満たされてるなぁ……なんて。
 このままじゃ、バチが当たっちゃうんじゃないかって思うほど。
「……えへへ」
 彼の腕に触れ、そっと……そのまま手を握る。
 すぐに握り返してくれる、大きな手。
 そっと力がこめられるのがわかって、なおも顔が緩む。
「……ねぇ、祐恭さん」
「ん?」
 4階につくと同時に、すぐそこへ停めてあった彼の車が目に入った。
 赤くて、きれいで。
 どんなモノよりも、確かに自己主張している存在。
「……行きたいところじゃないんですけれど……したいこと、ひとつあるんです」
 手を繋いだまま車に近づき、そっと反応を伺う。
 すると、少しだけ不思議そうな顔をしながらも、『いいよ』と先に言ってくれた。

「……珍しい」
 彼の第一声が、これだった。
 でも、正直それも当然だと思う。
 なぜならば――……これまでは、一度も私から言い出したことなんてなかったから。
「羽織から言われるなんて、思わなかった」
「……そうですか?」
「うん」
「もしかして、何か買ってほしいモンでもあるの?」
「え!?」
「いや、ほら。なんか……おねだりみたいな……」
「違いますよ!」
 にやにや笑われて、思いきり首を横に振る。
 ……うぅ。
 ちょっと、心外。
 まさか、そんなふうに言われるなんて……。
 冗談だっていうのはわかったけれど、そう言われるなんて思わなかった。
 ……んー……あんまり、いきなりなことを言い出さないほうがいいのかな、なんてちょっぴり思う。
「……結構、広いですね」
「そりゃあね。一応、3台分のスペースあるし」
 車を移動させたのは、マンション内に設置されている洗車スペース。
 改めて見てみると、確かに、コンクリートには白いラインが引かれていた。
 水道も、3つ。
 ……うん。
 確かに、これだけあれば十分だと思う。
「……曇りでよかったな」
「そうなんですか?」
「うん。晴れてるときは、ダメなんだよ」
「……へぇ……。逆だと思ってました」
「まぁ、普通はね。晴れてるほうが早く乾くし、好んでやる人もいるけどさ」
 早速水道まで行った彼が、シャワーヘッドを手にこちらへと歩いて来た。
 ……このホース、どれくらいまで伸びるんだろう。
 なんて、変なところが気になるのは、多分私だけなんだろう。

 『洗車、したいんです』

 確かに、いきなりそんなことを言い出したら、誰でもちょっと意外に思うよね。
 自分の車じゃないし、ましてや、なんの前触れもなかったんだもん。
 ……でも実は、ずっと思っていたことでもある。
「きれいに、したいんですよね」
 真正面から眺める、車。
 流線型の独特の形は、やっぱり見ているだけで……どきどきする。
「どうして?」
「だって! 祐恭さんの、車だし……それに、いつも乗せてもらってるし……」
 シャワーで水をかけながら、彼が私を見た。
 ルーフからフロントガラスへ水が流れて、弾かれるように滑っていく。
 ……きれい。
 ついつい見入ってしまいながら、頬が緩む。

「……好きなんですもん。この車」

 ぽつりと本音が漏れた。
 特別な車。
 街を走っている他のRX-8とは、全然違う。
 思い入れも、外見も、本当に何もかもが。
「祐恭さんと同じように、私にとっても大切な車なの」
 ひと通り汚れを流し終わった彼が、水を止めた。
 そして、再度クロスを手にしてから、ルーフへ水をかける。
 ……やっぱり……彼の、だからだよね。
 普段から、大事に丁寧に扱っている姿を見ているから、こんな思いも芽生えたんだと思う。
「……変ですか?」
 ここまで話しておいてナンだけど、何も応答がないのが少し心配だった。
 持っていたクロスを手に彼へ近づき、自然と上目遣いに彼の態度を伺う。
 ……不安、っていうのもあった。
 だって、こんなことを言い出すのもある意味突拍子がないんだから。
「……え……?」
 ――……だけど。
 予想に反して、そこには笑みを浮かべた彼がいて。
 ゆっくりと首を横に振ってくれた。
「嬉しいよ」
「え……ホント?」
「そりゃそうだよ。自分が大事にしてるのを大事にしてもらったら……誰だってね」
 当たり前だろ?
 そう続けてくれながら、彼が笑う。
 ……よかった。
 心底ほっとして、嬉しくて。
 いつしか私にも、自然と笑みが浮かんでいた。


目次へ  次へ