「…………」
ガチャン、と音を立てて鍵を開ける。
ドアをくぐって、すぐの玄関。
……当然ながらそこには、彼の靴が並んでいた。
そして――……寄り添うように、自分の靴も。
…………でも、どうしてだろう。
あれほど思っていたのに、『ただいま』が出ない。
何もなかったように上がろう、って。
いつもと同じように上がって、リビングに行って……夕飯の支度しなきゃ、って。
ずっとそう……思っていたのに。
「……っ……」
独りきりになった途端、思った以上の感情がこみ上げてきた。
おぼつかない足のまま、ドアにもたれて……両手を顔に当てる。
「ぅっ……ぇ……ひっ……ひっく……!」
子どもみたい、って言われても仕方ない。
病院でも、あんなに泣いたのに。
……なのに、まだ泣けるんだ。
まだまだ、ずっと……長く。
「わぁあぁっ……!!」
なんでこんなことになったんだろう。
どうして?
何があったの?
何が、こんなふうに今を変えたの?
……誰のせい……?
どういうこと……?
私は――……これから、どうしたらいいの……?
そんな思いすべてが、吹き出したようにさえ思えた。
今になってみれば、病室に入ったときからいつもと違う点が幾つもあったのに。
それでも……あえて気付こうとしなかったのかもしれない。
もしくは――……それはすべて怪我のせいだと、無意識の内に思い込んでいたのかもしれない。
笑顔が、なかった。
言葉もなかった。
だけど、そんなことは置いていたんだよね。
……彼が、そこにいること。
……決して無事とは言いきれないかもしれないけれど、それでも、重傷ではなかったこと。
そこに安心して、浸かってしまっていたんだ。
何ひとつ確かめようとしないで、何ひとつ訊ねることもしないで。
私は……彼の何を見ていたんだろう。
祐恭。
今朝、ちゃんと名前を呼ぶことができなかった。
それを、今になってものすごく後悔する。
……だって。
もしもあのとき、私がちゃんと名前を呼んでいたら。
いつもみたいに、『さん』付けじゃない……呼び捨てができていたら。
そうしたら、彼が喜んでくれたかもしれない。
そうしたら私は――……彼以上に、喜んだのに。
天罰が下ったの……?
全部やり尽くしちゃったみたいに思ったのが、いけなかったのかな……?
朝起きて、同じことをしながらごはんを食べる。
笑いあって、キスをして。
一緒の時間をすごすことの有意義さと、幸福を知る。
確かめるように手を伸ばして、安心するために相手を求める。
そんな、当たり前の関係。
……これが、『当たり前』と言えるようになったこと。
そこには、どれほど沢山の幸せが詰まっていたんだろう。
いろいろなことを思うたびに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
私を選んでくれたこと。
彼が求めてくれたこと。
そして――……天命という名の巡り会わせ
神様に感謝するたび、決まって口にする言葉があった。
『どうか、壊れてしまいませんように』
幸せすぎて、怖い。
そんな言葉は、ずっと身に沁みていた。
これまでは、そこまで思ったりしなかった。
だけど……彼と一緒に暮らせるようになった最近、特に思っていた。
なんだか、あまりにも幸せすぎて。
できすぎているような気がして、だからこそ怖かった。
………考えすぎ、だとは思う。
単に、まだどこかでただただ不安になってるだけ。
変わってしまうんじゃないか。
違ってしまうんじゃないか。
……そんなふうに、ただの……思いすごしだ、って。
そう自分に言い聞かせなければ、あまりにも不安が大きくなりすぎて、潰されてしまいそうだった。
いつだって、そう思ってたのに。
「…………」
靴も脱がないまま、玄関に腰を下ろしてどれくらいの時間が経っただろう。
ぼんやりと、開くことのない玄関のドアを見つめたまま、何をするでもなくただただ黙る。
……なんだか……すごく疲れた。
気持ちが重たくて、耐えられないほどの重圧があって。
緊張っていってもいい。
これからも毎日続いていく日々を、今までみたいにすごす自信が……今の私には欠落している。
明日なんか、来なくていい。
むしろ、できることならばどうか――……今日をもう一度。
思うのは、そればかり。
願うのだって、ただひとつ。
……どうか。
神様がいるなら、今の私に教えてください。
明日から私は、どうやって生きればいいんですか……?
自分じゃ、とてもじゃないけれど明日からの自分が想像できなくて。
新しい時間が流れて、彼も私も……このまま別々の道を歩かなきゃいけないようにしか、思えなくて。
……でもそれは……嫌だから。
怖いから。
たまらなく、不安だから。
だから……どうか。
どうか、私に教えてください。
「………………」
すっかり暗くなってしまった室内。
その廊下を、明かりもつけずにリビングへ向かう。
ひと気のない、怖いくらい静かな家だ。
以前からも別に、騒がしいわけじゃなかった。
でも、音がなかったわけじゃない。
だって……一緒にいたんだから。
間違いなく私たちは――……一緒の時間を、すごしてきたんだから。
「…………」
足が重たくて、たまらない。
もう、このまま……なんて思いながらリビングの明かりをつけた――……とき、だった。
自分でも驚くほど、身体に力が入ったのは。
「っ……」
思わず、口元を手で押さえていた。
……なんて、残酷なんだろう。
現実を生きることは、こんなにも過酷なことなんだろうか。
「……ふ……っ……!」
じわっと涙が浮かんで、身体が震えた。
……いつの間にか……無意識の間に、首を横に振っていたらしい。
気づいたら、ぺたん、とその場に膝をついて座り込んでいた。
「うぇっ……ひっ……ひっく……!」
しゃくりが上がり始めて、もう、前を見ることができなかった。
…………見たくなかった。
こんなのって、ないよ。
あんまりだと思う。
目の前に、広がっていた光景。
それは、何気ないものだったと思う。
特に何かが変わっているわけじゃない、ただの……普通の光景。
……でも、だからこそ。
だからこそ、私にはとてもつらかった。
だって、何もかもが一緒なんだもん。
私がこの家を飛び出したあのときと、洗濯物も、リモコンの場所も、そして――……床に落ちてきた、彼の時計も。
何もかもがそこにあった。
そのまま、だった。
「ひっ……ふえっ……!」
“あのとき”の続き、がここにはあった。
当たり前で、ごく普通のこと。
……なのに。
それなのに。
彼との間には、もう、続きがない。
……そして、『これまで』も。
「ぅっ……わあぁああぁあ……っ……!」
もしもばかりが、頭を巡る。
もしも、あのとき引き止めていれば。
もしも、あのとき……彼を呼んでいれば。
もしも、あのとき…………あのとき……洗車に行こうなんて言い出さなければ。
もっと早く出かけていれば、こんなことにならなかっただろうに。
一緒にごはんを食べてから出かけていても、こんなことにはならなかったはずなのに。
……なんでだろう。
どうして、もっと違う道を通ることができなかったんだろう。
……なんで。
どうして……っ……。
どうして、こんなことにならなきゃいけないの?
「ッ……!」
カレンダーに付けられた、丸い印。
それはもう……二度と叶うことのない、永遠の望みになってしまった。
『明日は、江ノ島に行こう』
そう言って、彼は笑ってくれた。
優しい顔で……私のために、って。
……約束だから、って。
「……ッ……」
果たされることのない、約束。
カレンダーには、私が書いた印が赤く残っていた。
もう、二度と……彼とこのことを話しすらできないのに。
「……ふぇっ……ひっく……!」
とめどなく溢れる涙を拭うこともなく、ただただ泣き尽くす。
……わかって、るの。
泣いたってどうにもならないことくらい。
でも……もう少しだけ。
あと少しだけ。
ほんのわずかだって、わかってるから。
……だからどうか……許してください。
彼がいない、その間だけ。
……ここにいても、いいですか?
もう少し、だけだから。
だって、本当はもっと沢山あったの。
やりたいことも、しなきゃいけないこともあったの。
……だから、どうか。
準備するから。
言い聞かせるから。
片付ける……から。
……出て、行くから。
だから――……。
もう少しだけ、許してください。
二度と、ない場所。
もう、続けられなくなった事柄。
明日は、ない。
少なくとも今の私には――……彼へ辿り着ける唯一の手がかりすら、失ってしまったから。
……私を知らない、彼。
そして反対に、今の彼のことを……何ひとつ、私は知らない。
これは、どうしたら埋められるんだろう。
……埋められる日が、来るんだろうか。
答えは――……今はまだ『NO』としか言えないけれど。
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