「……逆行性健忘症、ですね」
「逆行性……?」
「ええ。一種の、記憶喪失と呼ばれるものです」
別室の、小さな部屋。
それは沢山の医療器具が並んでいる、診察室だった。
白衣を着こんで、名札を付けて目の前に座っている先生。
その人は、淡々と彼の今置かれている状況を話してくれた。
「彼のように、事故などの外因性の記憶喪失の場合、比較的早く記憶が戻ることが多いのですが……中には、症状を引きずることもあります」
「……いつごろ、というのは具体的に言えないんですか……?」
「ええ。数日で戻ることもあれば、長く……今までの例では、数ヶ月に及んだこともあります」
「……数ヶ月もこんな状況が……?」
「ですが――……」
先生のひとことひとことに、自身がぐらつく。
それこそ、脆いほどに。
……だから、これ以上は何も言ってほしくなかった。
聞きたくない。
だけど……聞かなければ、何もできない。
始まらない。
そう自分に言い聞かせて、逃げ出したくなる足を必死にこらえる。
…………でも。
お医者さんは、あまりにも残酷な言葉を躊躇なく言い放った。
「もしかすると……この先も戻らないまま、ということも十分に考えられます」
「っえ……!」
「どういうことですか!!」
一瞬、先生が何を言ったのかわからなかった。
……ううん、わかりたく……なかった。
だって、そんなのってないじゃない。
このままずっと一生――……彼に、忘れられたままだなんて。
「息子さんの場合、解離性健忘症……中でも、選択的健忘に当たる症状が出ておりますので、正直……なんとも」
「っ……なんですか、そんな……! そんな……あまりにも、他人事のように……!」
「通常、外因性の健忘で息子さんのように人や物事を部分的に忘れるということは、ほとんど例として報告されたことがないんです。ですが、心因性の場合は起こりうるんですよ。特定の人物に関することだけを忘れてしまったり、場所や物事を思い出せなかったりということは。……しかし……」
「…………」
部屋の、1番後ろ。
そこからなりゆきを見つめていたんだけれど、やっぱり……具体的な言葉が聞こえることはなかった。
かもしれない。
だと思う。
そんな……まるで、専門家とは思えないような言葉しか。
「特殊なケースだと思ってください。CTや脳波などでの異常は認められませんが、それだけに……」
「……そんな……」
「また、記憶が戻ったとしても……記憶能力に減退などが見られることもあります」
「っ……え……」
「……まだ……なんとも言えませんが」
そう言うと、先生は首を振りながら俯いてしまった。
漂う、重たい空気。
……誰も、何も言えなかった。
すぐそばにいる、紗那さんも、涼さんも、真剣な眼差しで先生の言葉を聴いている。
「…………」
椅子に腰かけているお母さんと、その隣にいるお父さん。
ふたりの背中は見えるけれど、表情は……なんとなく想像が付くとしか言えない程度。
……遠いな……。
なんでだろう。
すごく、距離感を感じる。
あの先生の言っていることと、私たちが教えてほしいこととの間に。
「…………」
先生の説明を聞きながらも、やっぱり現実味が薄かった。
つらいことなのに。
なのに……どうしようもない、ことかもしれないなんて。
…………なんで……なんだろう。
どうして、彼が?
祐恭さんが……そんな目に遭わなくちゃいけないの……?
だって、そんな。
これじゃまるで……直接、言われてるみたいじゃない。
『どうすることもできないから、ただ黙って見ていてください』と。
「……なんで……」
黙ってしまった先生を見つめたままで、ぽつりと言葉が漏れた。
途端、みんなが……心配そうな顔で振り返る。
何度拭っても、溢れてくる涙。
……もう、泣かないって決めたのに。
みんなが心配するから、しないって。
もう、ここでは泣かないって。
泣くならば……あの場所。
あの、今日の朝までずっと彼と一緒に過ごした、あの……部屋で独り、誰にも迷惑かけないようにしよう、って。
……そう、決めたのに。
「どうして……っ……何も、できないってことですか……!?」
震える声が、漏れた。
途端にまた……嗚咽が、戻り始める。
「……今の段階では、まだ」
「っ……」
神妙な面持ちで、先生が首を振ったのが見えた。
途端――……身体から力が抜ける。
「っ……羽織ちゃ……!」
「大丈夫……!?」
膝が折れそうになった私を、慌てたように涼さんと紗那さんが支えてくれた。
……どうしよう。
もう、二度と。
二度とこのまま――……立てなくなってもいいって思ってしまいそうになる、自分がいる。
彼がいない。
元に……戻れないかもしれない。
このままずっと、私だけが……私だけが、彼のことを覚えているだけなんて。
何もかも、私だけの思い出になってしまうなんて。
……そんなの、やりきれない。
そんなの――……つらすぎる。
「……や……ぁっ……!!」
両手を顔に当てて首を振ると、自分でも思った以上に悲痛な声が身体から溢れた。
「……平気か?」
「ん。……大丈夫」
弱々しくうなずいた途端、お兄ちゃんは眉を寄せた。
……わかってるよ?
自分でも、平気じゃないってことは。
――……だけどね。
今日は、帰りたくないの。
このまま、『それじゃ』なんて言って、自分の家にだけは。
だってお兄ちゃんはこれから、お父さんやお母さん、そして……葉月にも今日のことを話さなきゃいけないんだもん。
つらいのは、私だけじゃない。
むしろ……お兄ちゃんのほうが、もしかしたらつらいよね。
だって、あんな姿を見たことなんて……本当になかったんだもん。
「……ありがとうね」
「…………無理すんなよ」
「ん。ありがと……」
これまで、毎日私と祐恭さんが戻ってくる場所だった……マンション。
そのエントランスまでお兄ちゃんに送ってもらうと、すでに時間は夕方近くになっていた。
……今日も1日、いい天気だったんだね。
夕焼けで染まり始めている西の空を見て、ふとそんな当たり前のことを思った。
「…………」
なんでだろう。
今までのことがあまりにも当たり前じゃなさすぎて、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
「……お兄ちゃんも気をつけてね」
「ああ」
助手席の窓越しに手を振り、1歩、後ろに下がる。
すると、しばらく何か考え込んでいたみたいだったけれど……軽く手をあげてから、車を出した。
すぐそこの国道を右に曲がり、向かうのは――……もちろん、自宅。
……葉月、心配してるだろうな。
ふとそんなことが浮かんで、自分が少し安定し始めてきたんだとわかる。
「…………」
鍵を取り出して、エントランスを開ける。
……独りでの帰宅なんて、今日まで一度もなかったのに。
なのに、寄りによってどうして……こんな日に、『初めて』をいくつも味わう必要があるんだろう。
「俺のせいだ」
「……え……?」
「恨むなら俺だ。……アイツじゃない」
病院からここまで送ってくれる車内で、お兄ちゃんがぽつりと話し始めた。
「俺が……アイツに付き合ってくれって言ったんだ」
「……それは……」
「今日の約束を取り付けたのは俺だ。……俺のせいだからな」
静かな声だった。
お兄ちゃんじゃないみたいな、声。
……でも。
「違うよ」
私は、そんな言葉がほしいわけじゃ決してないから。
信号で、スピードを落としてからこちらを向いた彼に、きっちりと首を横に振る。
「……違うの。お兄ちゃんのせいじゃない」
「でも……」
「…………やめてよ、そんな」
神妙な面持ちで言葉を継ごうとした彼を見ていたら、笑みが浮かんだ。
――……同時に、涙も。
私が『違う』と言っても、きっとお兄ちゃんはずっと背負っちゃうんだろうな。
それが……なんだか、とてもつらい。
どうして、こうなっちゃったんだろう。
なんで、私たちがこうならなきゃいけないんだろう。
……誰のせいでもないのに。
こんなの……本当に、とんでもない確率でしか起きえないことなのに。
「誰のせいでも……ないよ」
徐々にスピードが上がり始めたのを感じながら、ぽつりと口が動いた。
「お兄ちゃんでも、祐恭さんでも……落ちたあの子のせいでもないの」
「……羽織……」
「だって、誰も悪くないんだもん」
まるで、自分に言い聞かせてるような気がした。
言い終えた途端、自分の中にその言葉が残っていて。
……そうなんだよね。
誰も、悪くなんかないんだもんね。
そう自分でちゃんと思っていなければ――……誰かのせいにしてしまいそうで、それがやっぱり怖かった。
「……誰も悪くないのに……」
重たい気持ち。
身体も、心も、何もかもが重たくて、潰れてしまいそうになる。
今向かっているのは、彼と私が……今日まですごしていたあの家。
……正直、あそこに戻って平気なのかな、とは思った。
自分が壊れてしまうんじゃないか、って。
そう……思ったけれど…………でもやっぱり、あそこじゃなきゃダメなんだもん。
私にとって大切な――……場所だから。
全部、あそこにあるの。
……置いていくわけには、いかない。
「…………」
エレベーターで4階まで上がり、1番奥の部屋を目指す。
誰もいない、マンションの部屋。
だけど、私にとっての家に違いない……場所。
鍵を開けて、『ただいま』ってして。
そして…………そして、何を……しよう。
「……っ……」
門扉を開けた途端、あまりにもツラすぎる現実に直面した。
なってしまった以上、簡単には覆せない。
……それでも。
だけどやっぱり、私は受け入れなきゃいけないんだよね……?
出たときと何も変わらない玄関を見つめながら、うっすらとまた涙が滲んだ。
|