「なんで、この子がここにいるんだ?」
 ほとんど抑揚のない声で言った祐恭さんは、まるで知らない人を見るかのように私を見つめた。
「……祐恭……さん……?」
 そう言った私を、驚いたというよりは……どこか、嫌悪するかのように。
 眉を寄せて見つめたあと、すぐにお兄ちゃんへと視線を向ける。
 すごく、ものすごく気まずい雰囲気が急速にあたりへ立ち込めるのがわかった。
 だって、お兄ちゃんも……いつもと違って。
 ただのひとことも口にすることなく、黙って彼を見つめていた。
「……わかるか?」
「え……?」
「コイツの言ってることが、わかるか?」
 腕を組んだままだったお兄ちゃんが、不意に私を見た。
 その眼差しは、やっぱり真剣そのもの。
 嘘を言ってるとか、冗談めいてるなんてものは皆無。
 ……わかるか、って……?
 彼の言っていること、が?
 ……彼が……今、私に言ったこと……が?
「ど……ゆこと……?」
 瞳が揺れたのがわかった。
 おぼつかない感じ。
 今、自分がいるこの場所すらも、なんだかあやふやに思える。
「祐恭。お前は、知ってるか? コイツのこと」
 お兄ちゃんは、私の問いに答えることなく彼に向き直った。
 怪訝そうに、お兄ちゃんと――……私を見る、彼。
 その動きから目が離せない私は、まさに現実を突きつけられた。

「……いや」

 首を振った彼は、私を見ることなく呟いた。
 小さいけれど、はっきりした声。
 私には、間違いなくそう聞こえた。
 ……でも、もっと……何か、言ってくれるんじゃないかって思ってた。
 違うことを。
 だって、おかしいよね? さっきからずっと、彼のセリフは。
 全部って言ってもいい。
 ……それに、素振りだってそう。
 すごく居心地が悪そうで、いつもの彼らしさなんて……皆無。
 笑顔も、ない。
 言葉数も、少ない。
 ……これが……怪我のあと……だから?
 俗にいう、後遺症というものなの……?
 そうなの?
 違う……の……?
「……お兄ちゃん……」
 いつしか、すがるようにお兄ちゃんへ視線が向いた。
 彼は、事情を知っている。
 間違いなく、そうだろう。
 だって、祐恭さんのこんな姿を見ても、まるで動じてないんだもん。
 それどころか……ため息をついて。
 小さく、『そうか』とだけ呟いた。
「ねぇ……ねぇ、なんで……? どういうことなの……? なん、なの……?」
 緩く首を振りながら、お兄ちゃんに近寄る。
 これほど心細い思いをしたのは、いったいいつ振りだろう。
 少なくとも、ここ数年は味わったことがなかった。
 それなのに――……まさか、こんなところで遭うなんて。
 自分でも、怖いくらい言葉が出なかった。
 それこそ、『なんで』ばかりで頭がいっぱいになる。
「……覚えてないんだとよ」
「…………え……?」
「ドラマか漫画の世界だよな、こんなの。……俺だって信じられなかったし、何度もしつこいくらい聞いた」
 お兄ちゃんの眼差しが、本当だって言ってるみたいに見えた。
 少しだけ……困ったような、哀れんでいるような。
 そんな、なんともいえない眼差しを……祐恭さんに向けている。
 ……だけど。
 お兄ちゃんを見て、祐恭さんは何も言わなかった。
 ただ、黙って静かに……見ているだけ。
 口を挟もうなんてつもりは、まったくないみたいに見える。
「……でもな、違うんだよ。……今のコイツは祐恭だけど……少なくともお前が知ってる祐恭じゃない」
「え……? ……ど……いうこと……?」

「コイツは、俺がよく知ってるころの祐恭だ」

「……え……?」
「少なくとも、お前を『俺の妹』だとしか認識していないころの。……冬女に赴任して間もないころの、祐恭だ」
 静かに呟いたお兄ちゃんは、そう言って首を横に振った。
「……な……っ」
「お前を見て、『この子』って言っただろ? ……面識はあるんだよ。だけど覚えてない。お前は3年2組の生徒だ、って程度しかな」
 ……や、めてよ。そんな。
 だって、そんな話……ある?
 今は、21世紀だよ?
 なのに。
 それなのに……そんな、まさか。
「……や……めてよ、そんな」
 疑う思いと、信じ始めている気持ちと。
 なんともいえない自分自身に左右されて、乾いた笑いが漏れた。
 ……それなのに、どうしてだろう。
 情けなく、涙が滲むのは。
「っ……」
 うそ……だよね?
 冗談、だよね?
 だって、お兄ちゃんが言ってることは、まるで現実に起こり得ないようなことなんだよ?
 覚えてない、って。
 そんなの――……ありえない、じゃない……!
「なんでっ……! なんで? ねぇ、どうして……! なんっ……なんで……?」
「…………」
「覚えてないの? 何も? ……ねぇ、ホントに? ホントに、何も……っ……? 何も……私のこと……っ」
 何も答えてくれないのが、悔しかった。
 お兄ちゃんの病衣を掴んだまま、ねだるように言葉をぶつける。
 ……でも、静かな眼差しの彼は、何も言ってくれなかった。
 悔しいほどに冷静で。
 私なんかより、ずっとモノがわかっているみたいな顔で。
「や……めてよ、そんな……っ……! やめてっ……!」
 何も答えてくれないのを見て、徐々に徐々に身体が拒否を示す。
 いろいろな思いが交錯する中、もしかしたら――……って思いも半分以上まで膨らんできた。
「……羽織」
「やだ……! やだ……ぁッ……!!」
「羽織。聞けよ」
「やっ……なんで……! なんでっ……!! だって、祐恭さんっ……祐恭さん……ッ!!」
「ッ……羽織!」
「……っ!」
 駄々をこねるだけの、聞きわけのない子どもみたいにしかできない自分が、悔しいのもある。
 ひどく情けないのもある。
 ……だけど。
 どうしたって、聞きたいじゃない。
 なんで、って。
 理由が知りたいじゃない。
 だって……わからないんだもん。
 どうしたらいいのか……っ……自分がこれから、どうすればいいのか……!
 それすらも、わからないんだから。
「ど……して……っ」
 涙が溢れるのに、何もほかに言うことができない。
 なんで、とか。
 どうして、とか。
 そんな言葉で、これからの自分のあるべき姿を探し求めようとするばかり。
 彼がこうなってしまったのが、受け入れられなくて。
 ……だって。
 だって、あまりにも……あまりにも、じゃない……!
「こんなのって……ないよ……っ!!」
 ぎゅ、と両手でお兄ちゃんの病衣を掴んだまま、あがり始めた嗚咽をどうすることもできなかった。

「ご家族の方、どうぞ。こちらへ」
 待合室に響いた低い声は、あまりにも事務的で顔すら上がらなかった。
「……え……?」
「あなたもいらっしゃい」
 俯いたままソファに座っていたら、そんな私の腕をお母さんが取ってくれた。
 わざと目線が合うようにしゃがんで、笑みを浮かべてくれながら。
「けど、私は……!」

「大切なことだから」

「っ……」
「……ね?」
 慌てて首を振った私を、彼女は微笑んだままうなずいてくれた。
 その眼差しに――……一瞬、彼を見たような気がして。
 乾いたはずの瞳が、また涙を纏う。
「……はい……」
 小さく小さく、うなずくことができた。
 そんな私を支えるようにしてくれながら、彼女が肩を抱いてくれる。
 そのときふと顔を上げると、涼さんや紗那さん。
 そして――……。
「……行こうか」
 彼のお父さんもまた、うなずいてくれた。
 ……なんでこんなに優しいんだろう。
 私は……なんでこんなに、包まれているんだろう。
 恵まれているんだろう。
 あまりにもみんなが優しすぎて、こんな自分で申しわけなくなる。
 もっと、ちゃんとしていなきゃいけないのに。
 彼の周りにいる大切な人たちが、私を迎え入れてくれたんだから。
 ……強く、ならなきゃいけない。
 もっと、ちゃんと――……現実を受け止めなきゃいけないのに。
「…………」
 そうは思うけれど、今はまだ……まだ…………情けなくも、気持ちの整理がつかなかった。


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