「…………」
どうして、とか。
なんで、とか。
そんな言葉はまったく出てこず、かといって、何か特別な考えがあるわけでもなく。
ただただ私は、待合室のソファに腰かけたままだった。
何かを考えるとか、何かを話すとか。
そういう気持ちがまったくない。
……笑うとか、泣くとか。
そんな感情すらも、すべて忘れてしまったかのように。
――……そう。
思い出せ、ないかのように。
「…………」
思い出せない。
その言葉を自分に遣ったとき、初めて眉が寄った。
同時に、瞳が潤むのがわかる。
熱くなって、不意に視界がぼやけて。
気づけばまた、涙が頬に溢れていた。
――……あれは、どう言ったらいいだろう。
なんともいえない、たまらない雰囲気の重さ。
本当は、もっとそばにいたいのに。
そばにいて、ただ、手に触れていたかっただけなのに。
……でも。
あの部屋には、正直、もう一度入るっていう……選択肢は出ない。
…………また行く……の?
あそこに?
あの、場所に…………ひとりで?
「ッ……」
そう思うと、自分の中の恐怖心が一層煽られた。
怖かった。
だって本当に……怖かったの。
……彼に、あんな顔をされたのは、初めて。
あんな目をされたのも、初めて。
…………何もかも、初めてだった。
彼を見て、本気で怖いと思ったのも。
本気、だった。
彼は間違いなく、本気で言っていたんだ。
『この子』も、そう。
『なんで』も、そう。
……それ以上にも、沢山言われたっけ。
「っ……」
でももう、正直思い出したくないの。
怖くて。
たまらなく、嫌で。不安で。
拒絶されるのは……嫌だ。
ぎゅっと両手を握り締めて、力をこめる。
……現実味がまったくない。
だからせめて、痛みでもなんでも、自分を保っていられる方法を。
そう思って、無意識のうちに手のひらへ爪を立てていたのかもしれない。
「…………」
ふと顔を上げると、今まで入ってこなかった音が、少しずつ聞こえてくるのがわかった。
隣には、お兄ちゃんがいる。
黙ったまま何を言うでもなく……腰かけている彼が。
部屋の中へ、コの字を描くようにぐるりと置かれているソファには今、沢山の人が座っている。
……でも、全員が知ってる人、なんてことそうそうないよね。
まるで、ドラマと一緒。
電話で呼び出されて、一堂に会する……そんなシーンと、同じ。
…………あぁ。
こんなことばかり考えてるから、一向に現実感が湧かないんだろうな。
だって私、未だに『違う』って思ってる部分があるから。
家に帰れば、何も変わらないいつもと同じ彼が帰ってくるような気がしてるんだもん。
……おかしいっていうのは、自分でもわかってるのに。
ありえないっていうのも、わかってるのに。
それでもまだ、信じられない部分があって。
…………ううん。
『信じたくない』だけだってことも、わかっているけれど。
「…………」
だけど……やっぱりこんなのって、ないと思う。
「……もういいのよ? 泣かなくて」
「っ……」
静かな、優しい声が聞こえた。
……でも、それは私に対してじゃない。
「…………」
顔を上げるとすぐ、祐恭さんの――……お母さんが目に入った。
優しい眼差しで、膝を折ってしゃがんでいる姿。
その前には……あの子。
さっき、私がこの病院に来たときからずっと泣いている、女の子の姿があった。
「……羽織?」
なんでだろう。
つい、そちらへと足が向かう。
これまでは、どんなことがあっても、動こうとしなかったのに。
それをお兄ちゃんはわかってるのか、不思議そうな声を背中にかけた。
「……どうか……したんですか?」
久しぶりに、自分の声を聞いた。
多分、お母さんはもっとそうだと思う。
だって私……ずっと、お母さんが何を言ってくれても、泣きながらうなずくしかできなかったんだもん。
「……この子、その……祐恭が助けたっていったら、言いすぎだけど……」
「とんでもない……っ……! 息子さんのお陰で、この子は……この子は、助かったんですから……」
優しい眼差しで私に教えてくれた彼女の言葉を遮るように、女の子のお母さんが首を振ってその子の肩を抱きしめた。
微かに震えているのがわかる。
……気持ち……少し、わかるかな……。
だって。
だって――……彼は。
「……泣かないで」
「うぇっ……ひっ……ひっく……」
「泣かないでいいんだよ?」
お母さんの横にしゃがんだまま、女の子の頭を撫でる。
5歳くらいの、女の子。
きっと、すごくすごく怖かったんだと思う。
よく見てみると、この子も肘に包帯があった。
恐らく……落ちたときの衝撃で、怪我をしたんだろう。
泣いているのは、ショックと、痛みもあるかもしれない。
「……ふえっ……えっぐ……ひく」
涙と汗で、ぐしゃぐしゃになってしまった顔。
眉を寄せて、恐る恐る私を見つめる瞳。
くりっとしていて、透き通っていて。
……だけど、そこには明らかに不安そうな色があった。
「もう、大丈夫だよ?」
ゆっくりと、静かに言いながら『ね』と付け加える。
……せめて、この子を怖がらせないように。
そう思って、がんばって笑顔を作ってみた。
だけど……もしかしたら、私のほうが泣きそうだったのかもしれない。
まじまじと私を見つめたその子の顔が、今までと少し変わったから。
「……い……」
「ん?」
「あおい……あおい、ね?」
「……え……」
どくんっと大きく鼓動が鳴った。
あおい……?
その名前に、自分でもびっくりするくらい反応してしまう。
でも、もしかしたらお兄ちゃんもそうだったのかもしれない。
ソファ越しにこちらを見ていた彼が、明らかに反応したから。
「……あなた……あおいちゃん、っていうの……?」
少しだけ、声が掠れた。
情けないほど、震えを伴って。
でも、そんな私を見つめたままで……女の子は黙ってうなずいた。
「……そっか……。……あおいちゃんっていうんだ……」
まじまじと女の子を見たまま、表情が緩んだ。
あおい。
その名前は――……私も、関係してる。
そして、そのことを祐恭さんも知っていた。
……そう。
確かあれは、今年の3月のことだ。
『あおい』という名前が、お兄ちゃんのサイトで使っている私のハンドルネームだと、彼が知ったのは。
「っ……そっか……」
ぎゅ、と彼女の両手を握り締めたまま、笑顔が浮かんだ。
弱々しい、儚いようなものだったかもしれない。
……でもね。
正直、ほんの少しだけ……嬉しかったの。
私に関するすべてを失った彼が――……間違いなく、私と一緒にいてくれた彼だと思えることがここに今、ひとつあったから。
……ちゃんと、覚えていてくれた。
そして、それを裏付ける確かな痕跡。
彼が、彼であるという……確かな証拠。
……今はもう、失われた部分になる。
それでも……私と離れていた間の、彼の行動。
それが見えた気がして、嬉しかった。
――……ほっとしたと言っても、過言じゃないほどに。
「…………っ……」
彼に対して、恐怖心から逃げに転じてしまっていた自分の気持ち。
だけど、彼らしい……そう思える、部分を見つけられたから。
彼が、自分の身を呈してまで、守ろうとした女の子。
その大元の事実が今わかって、また、涙が溢れ出した。
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