意識は、ハッキリしてる。
 ……けどな。
「…………」
 お兄ちゃんは、そう言ったきり口をつぐんだ。
 ……なんでそれ以上言ってくれないの?
 何度、そう思っただろう。
 ……でも、聞けなかった。
 言えなかった。
 ただでさえ表情の冴えない彼が、一層重たくなってしまうんじゃないか。
 そんな不安に、押しつぶされてしまいそうで。
「………………」
 無機質な、白い壁。
 どこもかしこも白に統一されていて、少しだけ眩暈がする。
 ……怖い。
 だけど、早く会いたい。
 でも……。
「こっちだ」
「……あ」
 足がすくんで、うまく歩けなかった。
 そんな私を、階段でお兄ちゃんが振り返る。
 ……そんな顔、しないでよ。
 いつも見せないような私を気遣う表情で、眉が寄ると同時に視線が落ちた。
 白い服を着た人たち。
 足早に通りすぎていくけれど、誰もかれもが私たちに頭を下げた。
 ……だから、怖くて。
 その人たちの顔を見ることもできなければ、会釈を返すことすらできない。
「…………」
 3階の、ナースステーションの横。
 その部屋に、彼がいると聞いた。
 覚悟はしていたし予想もついていたけれど……それでもやっぱり、病院なんて1番不釣合いな場所に彼がいることが、たまらなく不安で。
 そして……このことに関して、彼から直接の連絡をもらえていないのが、とても怖くて。
 わかっては、いる。
 彼がどんな状況にあるのかは、ここに来るまでの車の中でお兄ちゃんから聞いたから。
 ……でも、ね……?
 いつだって祐恭さんは、何かあるたびに連絡をくれたの。
 遅くなるよとか、これから帰るよって。
 ……いつだって……絶対。
 だから、今回もそうなんじゃないかって。
 お兄ちゃんから電話があったあとで、彼から直接来るんじゃないか、って。
 そう思って、信じて、願って……ずっとずっと、携帯を離せなかった。
「…………」
 それは、ここに来ても同じ。
 病院の中に入って、『携帯の電源は……』という注意書きが目に入っているにもかかわらず、それでも電源を落としてしまうことができない。
「っ……」
 3階。
 入院している人たちが沢山いるこのフロアは、独特の匂いがした。
 以前、お兄ちゃんが骨折したとき、お見舞いに来たことはある。
 そのときと、同じだ。
 ……でも。

 違う。

 これまで、病気や怪我なんてほとんどしたこともなかった、祐恭さんが……だよ?
 朝、いつもと同じように起きて、いつもと同じように笑ってくれて。
 そして――……笑顔で『いってきます』って言ってくれたのに。
 何ひとつ、変わらなかったのに。
 なのに――……。
「……っ……」
 涙が滲んでしまい、慌ててまばたきの回数を増やす。
 ――……泣かない。
 そう、決めた。
 だって、祐恭さんはきっと……大丈夫だよね。
 意識だってしっかりしてるっていうし、検査の結果だって異常なかったんだって。
 全身、打撲の跡があるみたいだけど……でも、骨折だってしてないの。
 普段から、ちゃんと鍛えてるから。
 だから、それで……だからっ……。
「…………」
 どくどくと脈打つ鼓動。
 自分が今、すごく緊張しているのがわかる。
 ……嫌な感じ。
 たとえるならば、何かの発表会を前にして、すごく緊張しているときみたいな。
 あんなふうに、心臓がぎゅっと小さくなっちゃったような……気持ちの悪さ。
「っ……」
 目の前に、ナースステーションと書かれた部屋が見えた。
 沢山の看護士さんが忙しなく行き交っていて、いかにも病院そのもの。
 中からナースコール特有の呼び出し音が聞えて、一瞬鳥肌が立った。
「…………?」
 ナースステーションのそば。
 そこにある小さな部屋から……泣き声が、聞えた。
「……羽織」
 足が止まり、そちらに顔が向く。
 お兄ちゃんが呼んだけれど、でもなんだか……怖くて。
 怖いなら、見なければいいのに。
 気になんてしなければいいのに。
 なのに……駄目なの。
 そっちから、離れなくて。
 意識が、張り付いてしまったまま……目が、逸らせない。
「…………」
 ふと中を覗いてみると、泣いていたのは小さな女の子だった。
 背中を丸めて、しゃくりを上げながら、顔を伏せて。
 何度も何度も手で涙をぬぐい、それでも足りないから、頬に溢れる。
 ……お母さん、だろうか。
 隣に座っている女の人が、その子の背中をゆっくりと撫でてあげていた。
 神妙な、面持ち。
 沈んでいるその表情が、目から離れない。
「羽織」
「ッ……あ……」
 ぐいっと腕を引かれて、正気に戻った。
 一瞬、あの子に自分の姿を重ねてしまっていて、何も言葉が出なくて……何も聞こえなくて。
 危うく、すべてを拒絶してしまうところだった。
「……ごめん……」
 心配そうなお兄ちゃんに首を振り、そのまま……足を進める。
 ――……と。
「……え……?」
 ナースステーションの、すぐ隣。
 その部屋の前で、お兄ちゃんが足を止めた。
 隣接されるようにあるこの病室で、行き止まりらしい。
 正確には、向こうにも行ける通路があるみたいなんだけど……そっちには、立入禁止の札が立っていて。
 廊下を照らしている窓からの日差しも、なんだか褪せて見える。
「上着と靴。替えてから、中に入るんだ」
 お兄ちゃんが、病院名の入ったサンダルを私の前に出した。
 見ると、すぐそこに小さなロッカーがあって。
 そこには、彼が取り出したものと同じ薄緑の病衣が、ハンガーに何着かかかっていた。
「……ここな、ICUなんだよ」
「っ……」
 シャツの上に病衣を羽織ったお兄ちゃんが、私を見ずに呟いた。
 ICU。
 その言葉の重さを、私はそこまで知らなかった。
 今日が土曜日だからこの部屋になったのかな、とか。
 もしかしたら、ほかの病室が空いてなかったのかな、とか。
 その程度でしか、認識できていなかった。
 ……だから、知らなかったの。
 この部屋が、いわゆる『集中治療室』だと呼ばれていることを。

「…………」
 横に引くタイプのドアを、お兄ちゃん開けた。
 ……でも、その前に手の消毒。
 エタノールとは違う液体を手に取ってこすり合わせ、乾燥させてから……中へ。
 院内感染防止のため、っていうのももちろんあると思う。
 だけど私には、この部屋に対するものにしか思えなかった。
 私たちが感染するんじゃなくて、むしろ――……中にいる人のために。
 ……怪我をして、抵抗力が弱まっている……人たちのために。
 イコール、彼のため。
 そう思えて、仕方なかった。
「…………」
 薄暗い部屋の中には、ベッドが3つ。
 だけど、どれにもカーテンが引かれている。
 ……そして、幾つもの見なれない機械が目に入った。
 一般の病室とは、やっぱり違うんだ。
 ごくっと喉が鳴って眉も寄る。
「…………」
「……え……」
 お兄ちゃんが、まっすぐに真ん中のベッドへ向かった。
 そして――……私を振り返りながら、カーテンに手をかける。
「…………」
 いつの間にか、ぎゅっと胸の前で両手を握り締めていた。
 ……大丈夫。
 大丈夫だから。
 そんな言葉を、自分に言い聞かせながら。
「っ……」
 お兄ちゃんを見たままうなずくと、静かに……本当に静かにカーテンが開いた。
 シャ、と少しだけ音がした気がする。
 ……だけど。
 私には、そんなこと関係ないほど、違うものに意識を向けていたから。

「っ……祐恭、さん……」

 少しだけ、上げられているベッド。
 角度が付いていることもあってか、すぐに彼と目が合った。
 痛々しいほど、あちこちに巻かれている白い包帯。
 中でも、頭に巻かれているのが――……1番目立って。
「……っふ……」
 これまでずっと、どくんどくんと大きく聞こえていた鼓動が、急に静かになった気がした。
 変わりに、違う感情が一気に込み上げる。
「よかっ……た……っ」
 ぼろぼろっと、幾つもの涙が頬を伝った。
 とめどなく溢れ、しゃくりも上がる。
「…………」
 珍しく、お兄ちゃんがまるで慰めてでもくれるかのように、私の肩へ触れた。
 ……昔。
 遠い昔、私が泣いていると、『泣くな』って言ってくれたことがある。
 それはどれも、お兄ちゃんに泣かされたわけじゃない、とき。
 つまり――……本当に悔しかったり悲しかったりして、私が泣いているときにだ。
「……ふぇっ……ひっ……ひっく……」
 そんなふうにされたら、余計に涙が出るって知らないのかな。
 バッグからハンカチを取り出して、顔に当てる。
 ……でも、よかった。
 だって、いくらお兄ちゃんからいろいろ聞かされていても、実際に会うまでは不安でたまらなかったから。
 それに――……お兄ちゃんの口から『元気』なんて言葉が一度も出なかったから、あらぬことを想像してしまって、ずっとずっと苦しかった。
 確かに、あちこち怪我をしているんだから、元気という言葉は当てはまらなくて当然。
 それでも、だからこそ私は……どこかで覚悟してここに来た。
 もしかしたら、もしかするのかもしれない。
 そんなふうに、ずっと自分へ言い聞かせながら。
「……っひ、く……!」
 だけど彼は、確かに目の前にいる。
 確かな眼差しと、態度。
 何ひとつ変わらない、彼らしさを備えて。
 ――……そう、思っていた。
 彼が口を開く、そのときまでは。
「……どういうことだ……?」
 まるで、今の今まで言おうかどうしようか、迷っていたかのような。
 そんな静かな問いで――……すべては、始まった。
「え……?」
 感情的じゃない、決して響かない言葉。
 だけど顔を上げてみるとそれは、私に向けられているんじゃないとわかる。
「孝之」
「さっきも言ったろ? コイツは絶対来るって」
「……え……?」
「何を言おうと何があろうと。……コイツだけは、絶対に来るって」
 感情的じゃないのは、お兄ちゃんもそうだった。
 お兄ちゃんらしくない、言葉。声。表情。
 何もかもが違っていて……ううん、違いすぎていて。
 だからこそ、飲み込めなかった。
 何が起きているのか。
 何が起きてしまったのか。
 ――……これからどうなるのか……すべてが。
「……え……?」
 まるで、私だけが取り残されたかのようだった。
 何も状況を飲み込めていない私だけが、宙に浮いてしまったかのように。
 彼とお兄ちゃんの間に、いつもとは違うただならぬ雰囲気があった。

「なんで、この子がここにいる?」

「…………え……?」
 瞬間、祐恭さんが眉を寄せたのが見えた。
 ……でも、違う。
 そうまで言ったのに、彼は、それでも私を見ようとはしなかった。

 『この子』

 そんなふうに言われたことが、果たして今までに一度でもあっただろうか。
 ……なんて、答えはもちろんNO。
 初めて会ったときから、一度たりともそんなふうに呼ばれたことはない。
 ましてや今、私は彼と一緒に住んでいるんだから。
 彼の家で、彼の恋人として『同棲』しているんだから。
 それこそ――……将来を、見据えながら。
 彼が、迎えてくれた。
 ……なのに。
「…………祐恭……さん?」
 明らかに、自分の声が掠れていた。
 怖かった。
 わけもなく、ただただ不安だった。
 今、目の前で何が起きてるのかわからなくて。
 ……でも……だけど。
「っ……」
 そのとき、初めて私を見てくれた彼の瞳は、まるでまったく知らない誰かを見ているかのような、戸惑いが溢れる迷惑そうなものに違いなかった。


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