「では、もし何か違和感が残るようでしたら、早めに来院してください」
「ありがとうございました」
「お世話になりました」
 頭部裂傷や打撲などの傷病名が付けられたものの、結局はレントゲン、MRIなどでの異常が見られなかったため、翌日の午前中には帰宅となった。
 我ながら、あちこちに包帯を巻くなんていつ以来だろう。
 ……いや。
 もしかしたら、これほどの怪我をするのは人生で初かもしれない。
 ましてや……頭を縫うなんて。
「大丈夫なの?」
「……何が?」
「具合とか……ほら、頭を打ったときは気持ち悪いとかだとよくないって言うじゃない?」
 日曜ということもあってか、母親が付き添ってくれた。
 ……別に、ひとりでいいって言ったんだけどな。
 まぁ確かに、心配といえば心配なんだろう。
 入院なんて経験は一度もなかったんだ。
 それが――……事故とはいえ、歩道橋から落下。
 そして、頭を打っての裂傷と脳震盪。
 ……記憶の、欠落。
 どれもこれも、実はまったく覚えてない。
 いや、だからこそ欠落なんだろうが。
「…………」
 ……覚えてない、か。
 しかし、見事なまでに記憶にないんだから仕方ない。
 だからこそ、驚く。
 あまりにも、今の自分が抱えている記憶と、今の時間との間に隔たりがありすぎて。
 ……彼女のことだって、そうだ。
 孝之の妹である、羽織ちゃん。
 俺の中で彼女は、クラスの中のひとりという認識でしかない。
 ……それがまさか――……ひどく個人的な関係にまで、陥っているとは。
 身に覚えがない。
 だからこそ、タチが悪いんだろう。
 ……だいたい考えてもみろ。
 彼女と俺とは、少なくとも教師と生徒という関係なのに。
 絶対にあり得ない、間柄。
 …………それが、どうして。
「お天気でよかったわね」
 お袋が、静かな声で呟いた。
 階段を下りながら窓を見ると、それなりにいい天気だとはわかる。
 ……だが、もうひとり。
「…………」
 始終無言のままの紗那が視界に入り、思わず眉が寄った。
 ……なんで、コイツまで来たんだ。
 別に荷物があるワケでもなければ、心細いワケでもない。
 それなのに、なぜ、紗那まで?
 理由がわからず、さらに、この言いようのない不機嫌そうな面持ちの理由がまったくわからないからこそ、敢えてこちらから何か話そうという気にもならないのに。
「……お兄ちゃん、ホントに覚えてないの……?」
 たった1日しか経っていないというのに、もう、この言葉ほど聞き飽きたものはない。
 1階に下りてからため息をつき、そちらを少しだけ振り返るが、やはり何も言葉は出なかった。
 そんな目で見られても、言うことはない。
 ……そもそも俺は、何も嘘を言ってるワケじゃなくて。
 本気で何も知らないんだから、むしろ被害者だ。
 散々あれこれ聞かれて、そのたびに首を横に振れば、なぜと理由を問われる。
 ……そんなもの、こっちが聞きたいのに。
 本当に、すべてがホントなのか? と。
 周りの人間すべてが嘘をついているんじゃないか、と。
 むしろ……今が本当に現実なのか。
 いろいろなことすべてが自分の持っている情報からかけ離れすぎていて、だからこそ不安定になる。
 疑心暗鬼とは、まさにこのこと。
 今は正直、誰の話も信じる気にならない。
 ……もちろん、俺自身でさえも。

「……それじゃ」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって言ってるだろ?」
 自宅前まで送ってもらってから、軽くあしらうようにふたりへ手を振る。
 車の中でも、散々といっていいほどいろいろなことを聞かれた。
 根掘り葉掘りというが、まさにアレ。
 相変わらず、女というのは話ができなきゃいられないらしい。
「…………」
 遠ざかる車を見届けてから、玄関に入る。
 当たり前のようにポケットから取り出す、自宅の鍵。
 ……これは、確かなモノ。
 変わらない、記憶と合致する部分でもあり、ほっとする。
「…………」
 すんなりと口を開けた両開きのガラスドアをくぐり、中へ。
 ……これも、同じ。
 ちゃんと記憶にある部分だ。
 エレベーターに乗り込んで4階のボタンを押し、自宅に向かう。
 記憶がないとか、覚えてないとか。
 周りの連中は、随分と都合のイイことを言ってくれる。
 ……俺には、周りの人間が話すことすべてが、ホントだとは思えないのに。
 年下の子……しかも、生徒にだぞ?
 手を出して、家に引っ張り込んでるなんて。
「…………」
 それでも今の自分は、大学に戻ったらしいな。
 ……ようやく、か。
 高校での教師なんて、簡単に引き受けるモンじゃなかったのかもしれない。
 あまりにもいろいろなことが多すぎて、それらをやりすごした今だからこそ思う。
 ……とはいえ、俺の記憶にはない部分。
 自身がどんな具合に過ごしていたのかは、まったくわからない。
「…………」
 エレベーターから降りて、1番奥の部屋まで向かう。
 大学に入る際、祖父が与えてくれた部屋。
 相変わらず、豪気というよりは……贅沢、だよな。
 こんなところに部屋を持っているということは、恐らくほかにもあるんだろう。
 本気で、いろいろ計り知れない人間だ。
「……っと……」
 ポケットにしまった鍵をもう1度取り出し、玄関を開ける。
 すんなりと入る、鍵。
 当然ながら、なんの違和感もない。
 ……自分の予想通りに物事が運ぶことが、これほどほっとするとはな。
 人間、安寧が1番なんだと改めて思う。
 カチャンと音を立ててドアを引き、中に入る。
 ……我が家の、匂い。
 たった1日いなかっただけなのに、気分的にはまるで数ヶ月ぶりに戻ってきたかのようだ。
 実際とは、まるで違う体感時間。
 記憶のせいなのかどうかはわからないが、ある意味、浦島太郎並だ。
「……はぁ」
 やはり、誰しも自宅が1番ほっとする場所なんだろう。
 靴を脱いで玄関に上がると、ため息が漏れた。

「ただいま」

 誰にともなく、声が出た。
 ……って。
「…………」
 ふと……気づいた。
 妙、だろ。コレは。
 誰もいないのに、『ただいま』なんて。
 改めて、自分が少し変なことに気づく。
 これまでは、わざわざ声をかけるようなこともしなかったし、別に気にせず普通に靴を脱いでリビングへ向かっていた。
 それが、習慣なんだから当然だ。
 ……なのに。
 今の俺は、まるで誰かを待つかのように、声をかけてからしばらく足を止めていた。
 ――……向こう。
 リビングの奥から、誰かが迎えてくれるのを……自然と待つような形で。
「…………」
 なんとなく、いつもと違う気がする。
 しんと静まり返った室内。
 俺しかいないんだから当然のはずなのに……なぜか、無性に不安になる。
 薄暗い廊下。
 そこばかりが、やけに目に付いて。
「……おかしいだろ」
 小さく独りごちてから、ゆっくりリビングへ向かう。
 妙に落ち着かない、気分。
 嫌な感じとまでは言わないが、それでも、やはり違和感は拭いきれない。
 ……これまでと、違う。
 直感的に、そう思う。
 何も違わないはずなのに。
 それなのに……なんとなく落ち着かない気がする。
 …………これもまた、『俺』の記憶なんだろうか。
 この1年間、この家で暮らした『俺』の。
「…………」
 あの子とは、今年の4月から一緒に暮らし始めたと聞いた。
 だが、それまでも定期的に一緒に過ごしていた、とか。
 ……考えられないことだが、どうやら事実らしい。
 身に覚えはまったくないが……それでも。
 周囲が口を揃えて言うのは、同じことばかり。
 最初、合い鍵を渡して一緒に住んでいると聞いて、耳を疑った。
 自分のテリトリーを荒らされるのは、心底好きじゃなかったからだ。
 それこそ、同性の友人に対しても同じ思いだったはずなのに、まさか――……年下の、女の子を許すとは。
「……人間、そこまで変われるとはな。……っ!」
 だが、ぽつりと呟きながらリビングに向かうと、それ以上の光景が俺を待っていた。
 ひとことで言えば、生活感溢れる……とでもいえばいいだろうか。
 物の配置こそ、ほとんど変わっていない部屋。
 だが、明らかに違う。
 俺が知っているモノじゃない。
 ……そう、素直に思う。
「…………」
 まず目に付いたのは、キッチンの1番奥にある冷蔵庫……の側面に張られているゴミカレンダー。
 ……あんなモノ、家にあったのか。
 そう思うほど、記憶にはなかったもの。
 自然とそこまで歩いて行ってから、これまでと同じように冷蔵庫の扉を開ける。
 すると、俺が知っているのとはまったく違う庫内が存在した。
 整頓されてる、というのももちろんそう。
 だが……それよりも。
 いかにも手作りと(おぼ)しきものが、幾つも入っていたことに驚いた。
 小さなタッパーに入っている、いろいろなもの。
 何個か手にとってみると、惣菜やら何やらが、きちんと入れられていた。
 ……もしかしなくても、間違いなく俺がやったんじゃないのはわかる。
 そして――……お袋でもないことも。
「…………」
 そうなれば、ひとりしか浮かばない。
 ふと思い浮かんだ姿……だが、今の俺に何が言える?
 ドアを閉めてからリビングへ向かい、そのまま――……という、とき。
 キッチンの1番手前にある炊飯器が、作動しているのに気づいた。
「…………」
 小さな、パネル。
 そこに表示されている、『3時間』という数字。
 蓋を開けてみると、中には炊き上がった米が入っていた。
 ……米。
 俺が焚いたワケじゃないんだから、もしかしなくても――……彼女、がやったんだろう。
 ……そういえば。
 今は一緒に住んでる、って言ってたな。
 ということはもしかしたら、今も……家の中に……?
「…………」
 だが、まるで音がしない室内。
 そして、確か玄関には女物の靴は見当たらなかったことからして、いない、んだろう。
 ……まぁ……気持ちは、わからないではない。
 あのときの――……彼女の顔。
 あれはやはり、ひどく傷ついたようなモノだったから。
 悪い、とは思う。
 すまない、とも。
 ……だが今の俺は、彼女に対する愛情なんて持ち合わせていないから。
 嘘で塗り固めて余計傷つけるならば、最初から……こうしたほうが、お互いのため。
 そう思うから、こちらから連絡を取ろうとは思わない。
「…………これで、いいんだよな」
 ぽつりと言葉が漏れた。
 誰に対してでもなく、自分自身に対するモノ。
 返事がほしいのは、『今』の俺。
 ……もしも。
 もしも、『俺』にとって彼女という存在が、あまりにも大きく強いものならば、間違いなく首を縦には振らないだろう。
 …………それでも。
 やはり俺は、俺だから。
 今の自分に、嘘はつけない。
 これが、正しい。
 間違ってない。
 たとえ彼女を――……深く傷つけ、泣かせるような答えであっても。
 ……今は、これしか方法がないから。
「…………」
 箇所箇所に感じる彼女の存在を認め始めてはいながらも、やはりまだ、大きすぎる壁は残ったままだった。


目次へ  次へ