そのあとも、家の中を歩いてみると自分が知らないモノばかり溢れていることがわかった。
 洗面所の、並んだ歯ブラシ。
 寝室とリビングにあった、俺のモノじゃない物。
 服も、バッグも、小物も。
 いろいろな場所に、俺じゃないもうひとりの人間の存在を明らかに示すモノがあった。
 当然――……どれもこれも、同一人物のものであろうことは、明らか。
 いずれも俺とは違い、かわいらしい女物であることもわかる。
「…………」
 ソファに座ったときも、なんだか妙に落ち着かなかった。
 雰囲気が違うというか、光景が違うというか。
 ……何かが足りないような気がして。
 だが、それがいったい何なのかはわからず、もどかしくてたまらない。
 家にいれば、煩わしさから解放されると思っていたのだが……そんなことはないんだな。
 むしろ、ここにいたほうがよっぽど落ち着かない気がする。
「…………」
 見慣れているはずの、リビングや寝室。
 それが、なぜか今はやけに広く見える。
 ……見える、だけじゃない。
 実際、自分でもそう思っているからこその違和感なんだろう。
 そして、今、こうして座っているときもそう。
 …………なぜかは、わからない。
 だが、ついやってしまう……ある種のクセみたいなモノ。

 右側を、空けること。

 これまでも、そうだったかどうかは定かじゃない。
 だが、少なくとも俺は……中心にいたはずなのに。
 それが今は――……どうだ。
 ソファに座るとき、意識しなくても右側を空けて座っていた。
 一度だけじゃない。
 何度も……何度も、何度も。
 座るたび、無意識の内にこうしていた。
 だが、実際家の中ですごしてみると、もっと多くのことに気付く。
 ――……ベッドへ横になったときも、同じことをしたのに驚いた。
 あれだけ広いベッドなのに、なぜか真ん中には寝ない。
 ……いや、正確にはできないと言うべきか。
 左端が1番落ち着く気がして、なぜか自然と左側に横になっていた。
 気になるのは、右側。
 無論、寝転がれば左右が逆になるんだが、それでも、落ち着かないことに変わりはない。
 歩くときも、右側がなんとなく気になる。
 ……意識すると言えばいいだろうか。
 何か、違うような……そんな気がして落ち着かない。
「…………」
 もどかしさ。
 そればかりが身体を巡り、違和感になって残る。
 ……言いようのない、感じ。
 何もかもが今までの勝手と違いすぎていて、だからこそ不快だった。
「…………」
 見覚えのない、家具。
 見覚えのない、眼鏡。
 シャツ、パジャマ。
 すべて見覚えがないのに、イチから生活を始めなければならない。
 不便で、違和感にしかまみれていない今を、どう表したらいいのか。
「……はぁ」
 思わずソファに座り直してすぐ、ため息が漏れた。
 そして、同時に目を深く閉じる。
 ……何もかも夢ならば、どれだけいいか。
 今でも、以前でも。
 どちらでも構わないから、消えてくれれば――……今の俺は、間違いなく救われるだろうに。
「………………」
 精神的に参るのは、いったいいつ振りか。
 少なくとも、どん底を意識したことなど、これまでないに等しかったのに。
 ……最初で最後。
 そうなってくれることを、切に願うしかない。
「……ん……?」
 手を頭の後ろで組んだままでいたものの、今になってあることに気付いた。
 改めて意識しなければならないほど、自然になってしまっていたのか……?
 ……少なくとも、今の俺にとっては違和感そのものに違いないのに。
 どうして、今の今まで気づかなかったのか。
 わからなかったのか。
 それが正直――……わからない。
「…………」
 左手の、薬指。
 そこにあったのは、銀に光る――……指輪。
 改めて見なければわからないほど、自分に浸透していたんだろうが。
 不思議というよりは、やはり少しだけ気分がよくない。
「……っ……」
 右手で輪を両側から掴み、ゆっくりとずらすようにしながら引き抜く。
 慣れない、動作。
 だが、なぜかすんなりと指から外れた。
「……11.6……?」
 リングに刻まれている、数字。
 そこには、去年の日付が消えることなく確かにあった。
 ――……だが、その隣。
 そこを見た途端、目が丸くなる。

 HAORI to UKYO

「……な……」
 ごくりと喉が動いた。
 どくどくと脈が早くなり、早鐘のように打ち付けてくるのがわかる。
 なぜ、リングの内側を見ようと思ったのかはわからない。
 だが迷うことなくリングの内側に目を向けていた。
 ……まるで、当然のように。
 あたかも自分自身、そこに何があるのか知っていたかのように。
「ッ……」
 なんともいえないぞくりとした感覚に、思わず視線を思いきり逸らす。
 見てはいけないものを見た。
 ……どこかで、そんなふうに感じている自分がいる。
「…………な……」
 だが、視線を外したのも……もしかしたら、最初から誰かの計算のウチだったのかもしれない。
 その、先。
 視線の先に映ったのは、壁にかかっているボードに貼られた複数の写真だった。
 食い入るように見つめ、先ほどとは違って……今度は逸らすことができなくなる。
 ……何か、があるように思えた。
 自分が知らない……だが、確実にこれまでの自分の姿。
 間違いなく、それを知る手がかりになりそうな、モノが。
「…………」
 手書きの日付が、あった。
 その字には見覚えがある。
 ほかの誰でもなく――……自分のモノ。
 そう認識した以上、なかったことにはできない。
「……な……んだ、コレは……」
 ごくり、とまた喉が動いた。
 自分が写っている。
 ……だが、これは本当に自分なのか……?
 コレほどまでに緩んだ表情を、自分が……?
 ましてや――……隣に、ひどく幸せそうな彼女を伴ったまま、で。
「…………」
 写真に手を伸ばし、日付を指でなぞる。
 11.6。
 ここにもまた、先ほど目にしたばかりの数字が。
 ……しかし、いったいどういうことだ。
 幸せそうに寄り添うふたり。
 ともに身を包んでいるのは、白を基とした衣装。
 ……そう。
 これは、衣装だ。
 決して、普段着などにはなり得ない。
「………………」
 この写真は、いったいなんだ。
 これじゃあまるで――……さながら、結婚式ではないか。
 ……自分が、彼女と……?
 だが、今のところろはまだ周囲の人間から『妻』という単語が出なかった。
 あくまでも、『彼女』。
 ならば、どうしてこんなことになっている?
 去年の、11月6日。
 その日いったい、何があったのか。
「…………」
 しばらく考えたままだった身体が、自然と何かを求めるように動き始めた。
 凝り固まってしまった足で、蹴るように一歩前へ踏み込む。
 ……行こう。
 内心、認めたくない気持ちばかり。
 だが、疑問を抱いてしまった以上……スッキリできないのがひどくもどかしくて。
 ……わかる、んだろう。
 恐らくこの場所に行けば。
「…………」
 ロメリア国際ホテル。
 名だけは知っているこの場所に行けば、恐らく……きっと。
 そう思いながら、自然と車のキーを手に取っていた。


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