「…………」
車を飛ばせば、そう時間がかかることなく着いた場所。
茅ヶ崎の、ロメリア国際ホテル。
『ロメリア』という名前を出さなくとも、このあたりでデカい規模のホテルと言えば数が限られてくる。
場所は、134号沿いと言えばいいだろうか。
そこを走っていれば、おのずと左手に見えてくる大きなモノ。
……だから、迷わなかった。
案内の看板も幾つも目に入ったんだから、当然だ。
決して、俺自身が記憶にあるから――……では、ない。
少なくとも、意識して曲がろうと思ったりしなかったから、違いないだろう。
「…………」
駐車場に車を停め、ロビーに向かう。
相変わらず、豪華絢爛という言葉がしっくりくるような外観で、ひとりきりで入るのはやはり躊躇する。
覚えていないとはいえ、前回は彼女と一緒に来た。
……彼女、か。
なんだかこう形容するのは……あの子にとっても自分にとっても、ベストではないと思うが。
「…………」
ふと左手を見ると、先ほど外したばかりのリングが元の場所に納まっていた。
……なぜだろうな。
外したままであるべきなのに、それは違うと思う自分もいる。
居心地の悪さは、ここにまできたのか。
と少しだけ思いはしたが、やはり言いようのない感じに苛まれつつも指輪をはめ直していた。
「…………」
きゅ、と両手を握り直してから、背を正してロビーへ踏み込む。
途端、外とは違う雰囲気に一瞬呑まれそうになった。
ざわつく室内。
だが、それ以上に感じる――……好奇の眼差し。
……目立って、当然だ。
未だに、頭へ包帯を巻いているんだから。
だが、多少の好奇の視線が向けられるであろうことはハナから予想していたため、特に思うことはなかった。
躊躇しない。
二の足を踏むこともない。
俺自身に関する将来のための動きだから。
「……瀬尋さん……?」
「っ……」
――……そんなときだ。
おずおずという感じの声で、後ろから名前を呼ばれたのは。
「ああっ……! やはり瀬尋さんでしたね。お久しぶりです」
「……ええと……」
ひどく親しげな笑みを向けられ、一瞬戸惑った。
……当然だ。
彼は知っているのであろうが、こちらは知らない。
名前も顔も、初対面の人間と何ひとつ変わらないのに。
「……山内、さん……」
「お久しぶりです」
一瞬目に入った、彼の胸元にあるゴールドのプレート。
そこに刻まれていた『山内洋平』というフルネームから口にすると、心底嬉しそうにうなずいた。
……山内さん、ね。
彼には申し訳ないが、こちらは愛想よく振舞うことなどできない。
懸命に笑みを作ろうとはするのだが、やはり、根っからの不器用さが邪魔をする。
ましてや、彼とは初対面。
これまでの自分が彼にどう対応していたのかわからないため、すべてが手探りだ。
「……ええと……お怪我でもされたんですか?」
ひと通りのあいさつを交わしたあと、彼が声を抑え気味に頭へ視線を向けた。
誰でもそうするだろうが、彼とはどうやら面識があるらしい。
ならば、そう聞いてくるのは当然とも言える。
「……ええ。少し」
曖昧な返事でうなずくと、『そうですか』と神妙な面持ちをしたものの、それ以上は何も言わなかった。
服装からして、このホテルの従業員に間違いない。
だからこそ、プライバシーに踏み込むようなマネをしてくれずに済みそうで、内心ほっとしていた。
ここに来た理由は、ふたつ。
写真に写っていた出来事がなんなのか、確かめるため。
そしてもうひとつは――……そこから手がかりを手に入れるため。
むしろ、やはり後者のほうが大事だ。
「去年の11月なんですが……」
「11月……ああっ、模擬結婚式ですね。あのときは、大変お世話になりました」
「その、模擬結婚式なんですが……何か、こう……写真というか、ビデオというか……そういう物はありますか?」
まるで、探偵にでもなった気分だ。
彼の言葉を聞き漏らさないように注意しながら、さりげなく紐解いていく。
なるべく、不自然じゃないように。
できるだけ、平静を装いながら。
……だが、やっぱり難しいよな。
なんせ、どれもこれも『そうなんですか?』と目を丸くしたくなるような言葉ばかりなんだから。
「ええ。DVDがございますよ」
お渡ししておりませんでしたか? と慌てた彼に、こちらも首を振る。
もしかしたら、貰っていたのかも知れない。
だが、しまった場所などはもちろん、そんなモノがあるかどうかなど記憶にないため、これでハッキリした。
少しずつ、前進と言った所か。
「すぐにご用意できますので、こちらで少しお待ちいただけますか?」
「……え。いいんですか……? そんな」
「もちろんです。あ、でしたらご一緒にあのパンフレットも……ご用意させていただきます」
にっこり笑った彼が、一瞬止まってから――……深くうなずいた。
にこやかな笑み。
そのどこにも、疑いの眼差しはない。
「……ありがとうございます」
我ながら、微妙な表情が浮かんだ。
人を騙しているようであと味も悪ければ、気分もよくない。
彼は、なんの疑いも抱いていないのに。
それなのに……俺は、彼のそういう人のよさを利用して欺いているようなモンだ。
申し訳ない。
が、少しだけ道が開けたような気がして、ほっとする。
「…………」
言われた通り、ロビーのソファへ腰かけながら彼を待つ。
……しかし。
今ごろになって、こんな行動が正しかったのかどうか疑問が浮かんだ。
確かに、何もわからないまますごすというのは気持ちが悪いし、まるで……なんの縁もない人間の人生の続きを歩き出してしまったようで、不安定そのもの。
だが、しかし。
付け焼刃のようなモノでしかない記憶を辿ることが、正しいのだろうか。
…そんなはずがないというのは、十分すぎるほどわかっているのに。
それに例え――……これまでの『俺』の記憶を手探りで知ったところで、俺は『俺』になりうるはずないのに。
所詮は、偽者が体裁を繕うための情報を得るだけ。
「…………」
ふと思い出すのは――……病室で会った、彼女のこと。
まるで、すべてに否定されたかのような……ある種の絶望を抱いた顔だった。
驚き。
畏怖。
敬遠。
そんなすべての単語が、当てはまるような眼差し。
涙をいっぱいに溜めて、緩く首を振って……ひどく傷ついた目で俺を見る。
あんな顔を見て、誰が平静を保っていられるだろう。
……もしも。
『俺』があんな顔を見たとしたら、いったいどんな反応をしたことか。
孝之や涼たちの話から推測すれば、狂乱でもするんじゃないかとさえ思う。
……だが、所詮は思うだけ。
俺には、そんな自分が想像すらできない。
だが、今の俺でさえあの彼女の顔を見たとき、やけに心がざわついた。
違和感というか……嫌な感じというか。
あのままじゃいけない、と思った。
――……だが。
「…………」
それじゃあ、何をどうすればいいのかとなると、方法が思い浮かばない。
情けない話だが、それも仕方がないことだろう。
所詮、俺は彼女の何を知っているでもない、過去の人間なんだから。
「お待たせいたしました」
「……あ」
広く高いロビーの天井を見上げていたら、不意に後ろから声がかかった。
相変わらず笑顔の彼に、立ち上がってから会釈する。
すると、緑色の大きな封筒を差し出しながら、目の前で足を揃えた。
「どうぞお納めください」
大きくホテル名の入った、封筒。
思った以上に厚みがあり、受け取ると重さを感じた。
きちんと閉じられていない開封部からは、紙の束と一緒にケースに収められたディスクも見えた。
「ありがとうございます」
ざっと確認してから、彼に改めて向き直る。
これらはすべて、多少なりとも『俺』を知るための情報源になる。
そう思うと複雑ではあったが、それでもやはりほっとしている自分がどこかにいた。
「瀬那さんにも、どうぞよろしくお伝えください」
「……え……」
ほっとした気持ちは、一瞬で影を潜めた。
なんのとまどいもなく笑顔で告げられた言葉は、単なるあいさつにすぎない。
……だが、俺には予想外だった。
無論、彼からすれば当然なんだろう。
俺と彼女が一緒にいる、というのは。
「……ありがとうございます」
しばらく言葉に詰まったのを、もしかしたら悟られたかもしれない。
ぎこちないとは思ったが、それでも浮かべた笑み。
改めて、以前までの『俺』は彼女と対になっていたんだと、否応なく実感させられた。
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