あれから、今日でまだ1日。
……1日。
たった1日しか、経っていない。
それなのに、なんでかな。
なんだか、随分と時間がすぎてしまったような気がするのは。
「…………」
私ひとりだけが、時間の流れに逆らっているかのように。
踏ん張って意地でも動かないよう、がんばっているかのように。
時間の感覚が、ひどく薄れていた。
今が何時なのか。
ごはんを食べた覚えもなければ、作った覚えもない。
あるのは――……そう。
昨日、彼の家で作った数々の料理だけ。
いくつ作ったか、覚えてない。
何を作ったのかも……。
でもね、困るだろうなって思ったの。
祐恭さん、野菜食べないから。
せめておかずがあれば、温めて食べれるでしょ?
そうすれば、ほら……コンビニなんかで買わなくても済むじゃない。
…………それに、ね……。
単なる、自己顕示欲でしかないんだけれど、少しでも私が作ったものを食べてもらえれば、それだけで嬉しいから。
……私、喜ぶから。
だから、敢えてそうしていたのかもしれない。
食べてくれるって保証は、どこにもないのにね。
もしかしたら、気づかないでそのまま捨てられちゃうことだってあるかもしれないのに。
……なのに……。
「…………」
気づくと、涙が頬を伝った。
顎に溜まってから、ぽたぽたとフローリングに落ちていく。
……馬鹿だなぁ、って思う。
何してるのって、思うよ?
……でもね。
でも、私……それくらいしかできないから。
彼のためにできることって言ったら、そんな程度だから。
何も……できないんだもん。
見てるしか、ないんだもん。
でも、そんなの嫌なの。
ただ何もしないで誰かにお願いするなんて……そんなの、嫌だったから。
私だって、何か役に立ちたかった。
彼のために、働きたかった。
だけど、どうすればいいかわからなくて。
それで……情けなく、ただ、泣くしかなかった。
……小さい子よりも、ずっとタチが悪い。
赤ちゃんだって、欲しいものがあったら意思表示をするのに。
喋れなくたって、精一杯声を出すのに。
…………まるで、言葉なんて忘れたみたい。
喋らなくても通用する時間が、今、ここにはある。
「…………」
部屋からベランダに出られる窓を、網戸もすべて開け放つ。
広がる、青い空。
ゆっくりと鳥が1羽滑っていって、小さな鳴き声が聞こえた。
窓から空を見上げているのが、好きだった。
雲がゆっくりと漂っているのを目で追って、少しずつ形を変えていくのを見届けるのが好き。
薄っすらと消えていったり、ほかの雲と一緒になったり。
絶えず変化している空は、私と違う。
私と違って、いつも努力してる。
惜しみないほど、何かを受け入れようとしてる。
……風の力だ、って言うかもしれない。
確かに、雲はひとりじゃ動けないから。
……でも……。
それならそれで、雲はちゃんと風の存在を受け入れてるじゃない。
ひとりじゃできないことを、ふたりでやろうとしてるじゃない。
それだけでも、立派。
だって私は……誰からも遠ざかって、ひとりでいることを選んだから。
「…………」
こうして、ただただぼんやりと座ったままでいると、なぜか落ち着く。
すごく、ほっとする。
戻って来た、自分の家。
今朝早く、彼とすごしたあの家から、独り……ぽつりぽつりと歩いて帰ってきた。
家に着いてすぐ、お母さんと葉月がびっくりした顔で迎えてくれたけれど、そこでも何も言えなかったっけ。
だって、お兄ちゃんやお父さんに迎えに来て、なんて言えなかったんだもん。
……ううん。
むしろ、言いたくなかった。
確かめるように、一歩一歩。
あの家から、気持ちも全部離れられるように、って……私、どうしても歩きたかった。
車なら、確かに時間もかからない。
だけど、そうじゃないよね。
すぐに帰っちゃったら、あまりにもあっけなさすぎるし、私は……きっとすぐ、戻りたくなってしまう。
もう、絶対許してもらえないのに。
なのに、私は……。
「…………」
私にとって、乗りたい車はひとつだけ。
昨日、一緒に彼ときれいにした……あの、赤い車だけ。
戻ってくるとき、駐車場に停められているあの車を見たら、わけもなく泣けてきた。
昨日までは、あんなにきれいに見えたのに、なんで今日は……あんなにもくすんだ色にしか見えないんだろう、って。
つらかった。
悲しかった。
悔しかった。
でも、どこにぶつけていい感情なのか、わからない。
だからこうして、蓋をする。
……自分自身の中に、鍵をつけて。
「…………」
昨日、独りきりで横になったあの部屋のベッド。
だけど、眠れるはずなんか当然なくて、結局は独りで横になっていることもできず、朝までソファで過ごしていた。
膝を抱えるようにして座り、これまで見なかったDVDをつけて。
……全部、独り。
彼の気配はない。
あるとすればそれは――……彼の物、だけ。
畳んだままの洗濯物や、付いていないパソコン。
そして……うさぎにかけ直した、腕時計。
何もかも、彼の物に違いないのに、なぜかそのときは全然違う物のように見えた。
一層、不安になる。
追いやられる。
だけど……どうしたらいいのかわからない。
逃げたいわけじゃない。
だけど……。
「…………」
このまま、こうして毎日が過ぎていくのかもしれない。
敢えて誰かとコミュニケーションを図ることもなく、漠然とした日々を抱えて。
……ちょっと、つらいな。
だって…………私、誰かと笑って話すの、好きなのに。
「……………」
わざわざ思い浮かべるまでもなく、目に浮かぶ人。
いつだって私の中に現われてくれる彼は、笑顔だった。
……優しい、顔。
とてもじゃないけれど、あんな――……っ……あんな、病室で向けられたような、凍てる眼差しじゃない。
違う。
あの彼は……違う、んだよ。
私が知ってる彼じゃないんだもん。
仕方ないの。
……でも、彼は彼に違いないのに。
それはわかっているからこそ、どうしてこんな思いをするのかと、ジレンマに陥る。
大好きな人なのに。
なのに……もう二度と、決して報われない想い。
「…………」
彼のことが、私は……好き、なのかな。
彼。
それは今の――……彼を表す。
意地悪なところもあったけれど、すべて本気じゃなかったあの人。
本当はとても優しくて、いつも温かくて、守ってくれていたあの人。
……決して拒絶するようなことをしなかった……あの人。
「…………っ……」
思い出すたび、言葉を噛み締めるたび、涙が滲んでこぼれそうになる。
どうして。
……なんで、こうなっちゃったの。
答えの出ない疑問ばかりが、浮かんでは消えずしこりになって残る。
彼にはもう、受け入れてもらえない。
それは、どうやっても曲げられない、つらい事実。
……もう、ダメなのかな。
きっと、無理なんだよね……?
運命みたいに、抗ってもどうにもならないことなんだよね……?
頼りない頭でぐるぐると考えていたら、いつしか窓にもたれかかったまま、重たい瞼が閉じていた。
窓から吹き込む風が、徐々に冷たさを薄くしている。
もうじき、夏が来る。
――……彼との時間が始まった、去年と同じ夏が……また。
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