「……っ……」
3回続けて、ノックする音が聞こえた。
こうするのは、ひとりしか知らない。
振り返るまでもなく、葉月だとわかる。
「……ごはん、どうする?」
小さな音のあとで、ささやかな声が聞こえた。
――……だけど。
「…………」
ゆっくり振り返り、少しだけ笑みを浮かべて……首を横に振る。
これで、今まで通ってきてしまった。
それもいけないのは、わかってる。
……だけど……今だけは、自分でもどうすることができない。
なんだか、すごく不安定。
ちょっとしたことで、急に涙が出てくる。
それはもう、本当に突然と言ってもいいほど。
前触れとかが一切なくて、急に……なんだよね。
「……いらないの?」
葉月が、ドアを開けたまま中に入って来た。
まるで小さな子をあやすかのように、しゃがみながら目の高さを合わせる。
……優しい顔。
何も聞かないまま、見守ってもらってるみたい。
なんだか、いろんな意味でお姉ちゃんができたかのようだ。
「……ん」
久しぶりに、声らしいものを聞いた。
泣きすぎたせいかもしれない。
心なしか、声が低くかれているような気がする。
……でも、実際きっとそうなんだろう。
昨日の夜からずっと、こんなに人って泣けるんだ……と実感するくらい泣いたから。
泣くのって、実はとっても体力を使う。
だけど、すごくすっきりする。
……すっきり……。
でもまだ、もやもやは当然晴れない。
「アイスとか……何か、そういうのもいらない?」
「……ん。……今は、いい」
静かな声に思えるのは、相手が葉月だからなのかな。
ゆっくりした調子というのもあるから、一緒にいるとなんだかすごく落ち着く。
決して、ペースを乱そうとしない。
無理矢理、私の中に入ってこようとしない。
そういうところが葉月らしくもあり……そしてすごく、助かっている。
「…………」
短い会話を終えてから、また視線が空へ向いた。
お父さんやお母さん、そして葉月。
その3人に対しては、多分お兄ちゃんから話があったんだろう。
今朝帰って来たとき、誰も何も言わなかった。
……ただ、お母さんと……葉月。
ふたりは心配そうな顔をしてから、それぞれ私を抱きしめてくれたっけ。
お父さんは、リビングで新聞を読んでいて。
……だけど……やっぱり、表情が違った。
何も言わないけれど、だからこそ逆に……伝わるものがある。
でも、やっぱり有難かった。
もしもあれこれと詰問されるように聞かれてしまったら、一層塞ぎこんで浮上できなかっただろうから。
「………………」
昨日の夜、絵里から『今日遊ばない?』ってメールを貰った。
いつもと同じテンションの、明るいメール。
でも、それは当然。
だって、絵里は何も知らないんだもん。
……私がどうなっているか。
そして――……彼がどうなっているか、も。
だから、メールで葉月にひとことだけお願いしたの。
『絵里にも、教えてあげて』って。
……伝わった、かな。
彼女から何も連絡はなかったけれど、葉月から伝えたというメールを貰ったから、きっと見てはいるんだろうな。
……ごめんね、絵里。
そして、葉月。
私やっぱり、ずるいのかもしれない。
本当は、絵里に自分から話さなきゃいけないのに。
なのに、自分が余計傷つくのが怖くて、葉月を頼っていた。
何も改善されない、ってわかっていたのに。
それなのに、私は……。
「……たーくんも、心配してたよ?」
隣に座って同じように空を見上げた葉月が、小さく笑った。
お兄ちゃん。
彼もまた、昨日から私に何も言ってこなかった。
……全部、知ってる人。
もしかしたら、私以上に知っているのかもしれない。
だから、お兄ちゃんを見るとどうしても……思い出してしまう。
あの――……病室での出来事を。
たった数分だったけれど、未だに鮮明に脳裏に浮かぶ。
病院独特の重たい雰囲気と、あの病室の窓から差し込む光の加減。
そして、匂い。
……表情。
何もかもが、フラッシュバックするかのように、突然舞い戻る。
嫌ってほど、鮮やかに。
だから、昨日から私は、お兄ちゃんの顔を見ることができなかった。
大抵、胸から下だけ。
どんな眼差しで私を見ているのかと思うと、それだけでとても怖かった。
……私は、可哀相なのかな。
何も言われないからこそ、あれこれと勝手に想像してしまうのが嫌だけど。
でも……もしかしたら、憐れまれているのかもしれない。
そんなんじゃ――……ない、よね……?
私、可哀相じゃないよね?
だって。
…………だって……。
「……葉月……」
「え?」
「…………私のことは、もう……いいよ」
「……羽織……?」
掠れた声のまま、ゆっくり葉月を見る。
そんな顔、しないでほしいの。
……ずっと、こんな調子。
だからこそ、みんなが気を遣ってくれているのがすごくよくわかる。
それが、申し訳なくて。
「お願いだから、もう……っ……放っておいて」
ありがとう、優しくしてくれて。
でも、申し訳ないの。
まるで、腫れ物にでも触るかのように扱われてるわけではないけれど、それでも、少しだけ肩身が狭かった。
バン……ッ!
「っ……」
眉を寄せて彼女を見た途端。
後ろで、大きな音がした。
「……え……」
丸くなった瞳の先にいたのは、私を見下ろしたお兄ちゃんだった。
不機嫌そうなことだけは、表情からすごく伝わってくる。
「……かげんにしろ」
「…………」
「……え?」
私と違って葉月は驚くどころか――……少しだけ困ったように彼を見ていた。
止めようとはしていない。
それがいつもの葉月と違って……ひどく違和感を感じた。
「ッ……!」
「たーくん!」
「いい加減にしろよ、お前……!!」
ずかずかと部屋に踏み込んで来た彼が、目の前にしゃがむと同時に思いきり私の両肩を掴む。
痛いくらいの力で思わず眉が寄るものの、一向に構わない様子で彼は力を弱めたりしなかった。
「お前が、いつまでもンなカッコしてんから、悪いんだろ?」
「たーくん、待っ……!」
「そんなんじゃ、心配してくださいって言ってんのと同じだ!!」
「い……った……」
きつく掴まれたまま揺さぶられて、痛みが走った。
それを見て、慌てたように葉月がお兄ちゃんを止めようとしたけれど、でも、無理。
頑固だからこそ、本気の今は絶対に止められないってわかってる。
……これまでも、何度かあったから。
お兄ちゃんの、本気の剣幕を見たことは。
「なのに、なんだよ今のは。……あ? あてつけなんじゃねーのか」
「っちが……! そんなつもりじゃ――」
「コイツがどんだけお前のこと心配してンと思ってんだよ! ふざけんな!!」
「たーくん!」
「ほっといてくださいって態度じゃねーから、周りが気遣うんだろ? ンなこともわかんねェから、ガキだって言われんだよ!」
「っ……!」
何、よそれ……っ。
私がどんな思いしたかも知らないくせに。
ただの我侭でこんなこと言ったんじゃないのに……!
勝手なことを言って自分の考えを押し付けようとしてくる彼に、頭にくる。
……何も知らないのに。
私が、どんなふうに思ってるか。
考えてるか……っ……!
何も知らないくせに……!!
「……ッ……」
そう思ったら、いつしか彼を睨みあげていた。
「……いいか。よく聞け」
そんな私に気付いたのか、小さく鼻で笑ったお兄ちゃんは両肩から手を離した。
相変わらず、人のことを子どもとしか思っていないような顔。
……それがすごく悔しい。
「アイツはな、死んだんじゃねーんだよ。……生きてんだぞ」
「……そんなの、知ってる」
「じゃ、なんでここにいるんだ? お前」
「……え……?」
「何、逃げ出してんだよ」
「っ……そんなんじゃ……!」
「そんなんじゃ、なんだ? あ? ちゃんとお前の目の前にいンだろアイツは……!」
静かな、低い声。
だけどすぐにまた荒くなり始める。
「それをなんだ? 逃げてんのは、お前じゃねぇのかよ……!」
「私は別に……!」
「現に、逃げてるだろ!? ……いいか? アイツは必死に戦ってんだぞ。何も知らない、ワケのわからない世界に放りだされて、それでも、逃げないで必死ンなって生きてんだ!!」
「ッ……」
指差して見下ろす彼を、座ったまま睨むしかできない。
立ち上がったところで同等になれるわけでもないし、ましてや、そんなことしたら余計に手が付けられなくなるってわかってるから。
……葉月が、困ってる。
でも、何も口を挟んでこない。
だから、私も彼と1対1で対峙することはできていたんだと思う。
「お前と違うんだぞ」
「……っ」
その言葉はまるで『お前なんか』と吐き捨てられたように耳に届いた。
「何に拘ってんだよ、いつまでも! くだらねぇ幻想に取りつかれてんな!!」
「……!」
「お前のほうが、よっぽど病人だ。クサった顔してんじゃねーよ、みっともねェな」
「な……っ……! 私は……!」
「立って歩けよ! 生きてんだろ? 欲しけりゃ、取りに行けよ!!」
「っ…!」
「いつまでも他人がちやほやしてくれると思ってんな!」
「ッ……私、そんなふうに思ってない!!」
「ハ。何言い出すかと思えば、ンなことか。……実際行動に何ひとつ移してねークセに、ナメたこと言ってんじゃねぇよ」
嘲笑……まさに、それだった。
こんなふうに罵倒されて、嘲られて、腹が立たない人はいないだろう。
ましてや、私は別に被害者意識なんてものを抱いているわけでもない。
ただ……どうしたらいいのか、迷って立ち止まっていただけなのに。
「テメーは、テメーの人生だろ? 歩けないなら、這ってでも前に出ろよ。それが、人間だろ? 生きてるってことだろ?」
「私は、ただ――」
「お前はただ甘えてるだけだ。何もかも嫌だって駄々こねて、拒絶してるだけだ!」
「ッ……違う! 私はっ……私は……!」
「私は、なんだ。……は、ふざけんな。こんなことばっか続けてるだけで、何かが変わってくれるワケねーのに」
腕を組んだ彼が、また、笑った。
まるで、人のことを我侭で自分勝手な子どもとしか見ていないような眼差し。
それが、悔しいを通り越して……つらい。
……ひどい。
だって、わかってるのに。
私だって、ちゃんとわかってたのに。
それなのに『何もわかってない』とレッテルを貼って、頭ごなしに言うなんて。
これじゃあ、何も弁解できる余地がない。
「……もう過去のことなんだぞ。起きちまった以上、変えらんねぇ事実なんだ」
「ッ……」
突きつけられた、現実。
これまでだって別に、目を背けていたわけじゃない。
見ないようにしていたわけでもない。
……わかってた、のに。
なのに、どうしてこんなにも自分がショックを受けているのか、わからなかった。
「ハナっから否定してねーで、愚痴る前に動けよ。何もしてねぇクセに、ああしてほしいとか言うんじゃねぇ!」
「…………」
「そういうのは、精一杯死にもの狂いで行動したヤツだけが初めて言える言葉だ。お前のは、単なる我侭だろ? ……いい加減にしろよ。周りの人間の思いも考えろ!!」
「っ……」
大きくピシャリと言い捨てられて、しばらく何も言えなかった。
これまでは……揺らぐことなく彼を見据えていたのに。
…………いつしか、俯いたまま唇を噛み締めていた。
「……っ……ぅ……」
言いたいことは、沢山ある。
違うとか、そんなんじゃないとか。
――……だけど、彼が言ってることも正しい。
そう思うから、余計に悔しくて涙が出る。
私だって……私だって、わかってるのに。
だけど、なかなか動けないんだもん。
どうしようもないんだもん……!
それをじゃあ、どうしたらいいの?
私は、何をどうすればいいの?
そんな思いが溢れて、零れた涙を拭うことなく俯いたままでいるしかできなかった。
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