「…………」
 いったい、いつ以来だ。
 朝起きてすぐ、大学へ向かう朝を迎えるのは。
 少なくとも、今までの自分は大学ではなく高校へ向かっていた。
 近隣の市内でも有数の男子校であり、そして自分の母校でもある学校。
 いろいろな意味で、慣れた場所。
 恩師である瀬那先生に頼まれ、断れなかった出向。
 ……いや。
 そうは言っても、心のどこかでは自分の力を試したくもあったんだと思う。
 自分は、果たして教師として通用するのかどうか。
 当時の自分を受け持っていた化学の教師と、どこが違うか。
 どれほど、自分の持てる知識をわかりやすく伝えられるか。
 それを知りたかった部分も、あった。
 そうじゃなければ元来、そこまで人が好きでもなかった俺が、教師などという立場になるはずがない。
 人の世話を焼くとか、何か教えてやるとか。
 そういうことは、長けている人間がやればいいことで、そうじゃない俺は関わらなければ済むのに。
 ……なのに、それじゃあどうして高校に行ったのか。
 しかも、1度ならず2度までも。
 瀬那先生に頼まれたから?
 ……いや。
 たとえそうだとしても、女子高に足を向ける必要はなかった。
 学校ならばほかにもあったんだし、誘いがなかったわけじゃない。
 そして――……何よりも。
 あのとき俺は、研究室に戻れる約束をしていたのに。
 ……なのに……どうして、行ったんだろう。
 女子高なんかに。
 わざわざ、居心地がいいであろうとは思えもしない場所なのに。
 …………どうして?
「…………」
 時事ニュースから天気予報へ画面が切り替わったテレビを消し、キーと財布を持って上着を羽織る。
 確かに、俺は変わったかもしれない。
 少なくともここ数日で、俺を取り巻く環境が大きく変化を遂げたのは言うまでもないことだ。
 だが、独りで起きて、独りで朝食を摂って、独りで出かけるというのは同じ。
 それこそ、ここ数年ずっと繰り返してきた同じ朝だった。
 ……少なくとも、俺自身にとっては。
 周りの人間にとっては、『違う』と言われるかもしれない。
 だが、そうじゃない自分を俺は知らない。
 だから、これは俺にとって正しい毎日。
 誰になんと文句を言われる筋合いもない。
「………………」
 ふと目が止まった先に、相変わらず鈍く光るリングがあった。
 ……左手の薬指。
 アレほど、自分で否定したのに。
 あんなのは俺じゃないと、心底から嫌悪したのに。
 それなのに俺は、これを外すことができなかった。
 ……なぜだろう。
 正直言えば、どこか怖かったのかもしれない。
 何かコレだけには触れちゃいけないような……そんな、気がして。
「………………」
 見つめたままだった左手を握り、すぐに視線を外す。
 だが、探し求めていたものとともにあった、モノ。
 それを見て、また目が丸くなると同時に――……何も言葉が出てこなかった。

 うさぎの置物の首へかけてある、時計。

 それはもちろん、見覚えのある俺自身が祖父から受け取った時計だった。
 ……だが、コレは?
 こんな『いかにも』と思えるような置物は、記憶にない。
 しかも、この形。
 わざわざ何かを主張するかのようにかけている、腕時計。
 それが、無性に気に障った。
 まるで、何かを誇示しているかのような。
 ……そんなある種のイヤラシさを感じて。
「…………」
 一瞬止まった手を再び動かし、何事もなかったかのように時計を手にする。
 重たく、そして冷たいソレ。
 置物に目をくれることもなく腕にはめると、ひんやりとした冷たさが心地よくもどこか何も知らない自分を拒絶しているように感じた。

「おはようございます」
「……あ。おはよう」
 理学1号館に入った途端、純也さんと会った。
 今、明らかに彼の表情には“戸惑い”があった。
 だが、当然のことだろう。
 少なくとも、今の反応からして彼がすでに俺のことを知っているんだとわかる。
 ……いや。
 正確には、『俺たち』と言うべきなんだろう。
 彼女とも接点を持つ人なんだから。
「怪我、もう大丈夫なの?」
「ええ。お蔭さまで」
 話だけでは聞いている。
 彼もまた、俺と同じ冬女からここの研究室へ配属されることになったんだ、と。
 それ以外は、やはり詳しく覚えていない。
 ……知らない。
 俺が知っている彼という人物のことは、限りがある。
 同じように、自分のことでさえも当然そうなのだが。
「…………」
「…………」
 研究室へ向かう間、エレベーターの中でも、この廊下でも、互いにこれといった話題が出てはこなかった。
 以前も……いや。
 つい先週の金曜までも、こうだったんだろうか。
 何も話すことなく、互いに何かを探るような痛々しい雰囲気を持っていたのだろうか。
 ……答えは容易に想像がつく。
 それだけに、たまらなく何も言えない。
 きっと、彼だって聞きたいはずなんだ。
 本当に俺が何も覚えていないのか。
 特に――……彼女だったあの子に関することを、重点的に。
 これまで、少なくとも俺とあの子の関係を知っている人間からは、そのような質問をされた。
 こちらに応える気があるなしに関わらず、だ。
 だから……ある程度覚悟はしていた。
 たとえどんなことを聞かれ、問いただされたところで、俺の答えはひとつなんだと。
「それじゃ、またね」
「……あ。ええ、それじゃ」
 だが、こちらの予想に反して、彼は軽く手を上げるとすぐ、こちらに背を向けてしまった。
 あっけないほどの態度に、思わず面食らう。
 もしかしたら、本当に気にしていないのかもしれない。
 あるいは、彼女である絵里ちゃんからいろいろと聞かされているのかもしれない。
 だが――……どちらにしても初めての体験。
「………………」
 それだけに、しばらくの間ついつい彼の後ろ姿をまじまじと見つめてしまうほかなかった。
 てっきり、あれはどうなんだとか、これはこうなんじゃないか、とかいろいろ言われると思っていたのに。
 ……まさか、逆に何も言われないとは。
「……………」
 これを望んでいたはずなのに、なぜか落ち着かない。
 ……我侭というよりは、情けない人間ということか。
 なんだかんだ言いながらも、心のどこかでは被害者意識があって。
 それだけに、何か聞いてもらいたいとでも思っている自分がいたのかもしれない。
「…………」
 どうしようもないのは、俺のほうか。
 そう痛感させられたような気がして、なんともいえない気持ちの悪さがあった。
 もどかしさ、とでも言えばいいだろうか。
 曖昧な自分が情けなく、そしてヘドが出そうだとも思った。


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