「そういえば、瀬尋君さ」
「はい?」
「今日は、お弁当じゃないの?」
「……え?」
 その日の昼時。
 『いつも』とか『これまで』を知らない俺は、誘われるがままに学食へ出向き、当たり前のようにBランチのトレイを手にしていた。
 だが、これは学生時代の俺となんら変わりはない。
 だからこそ、むしろ同僚の何気ない『弁当』というひとことが、鋭く突き刺さった。
「ほら、いつも弁当を幸せそうに自慢するだろ?」
「……そう……なんですか?」
「何を人ごとみたいに言ってるんだよ。あ、わかった。喧嘩か?」
「……え?」
「ったく。早く仲直りしないと、かわいい彼女取られちゃっても知らないよー?」
 白衣を着たままの彼が、けらけら笑いながら箸を手にしてランチを食べ始めた。
 同じテーブルには、純也さんがいる。
 ……そして、相変わらず積極的に関わってこようとしない、孝之の姿も。
「…………」
 だが、そんなふたりは今のやり取りを目にしても、何も言ったりしなかった。
 ……いや、むしろ逆に敬遠しているというか。
 いかにも『我関せず』という態度が見え、だからこそ違和感を感じる。
 純也さんはともかくとして、孝之は一昨日、あんなにものすごい剣幕で聞いてきた。
 それなのに……今日は、短いあいさつを交わしただけ。
 こんなこと、学生時代にもなかった。
「…………」
 俺の、斜め前。
 そこで俺と同じようにランチを食べ始めたのは、純也さんと同じ研究室の准教授。
 ……彼は、知らない。
 俺がここ数日の間に、劇的な変化を遂げたことを。
 まぁ、無理もないだろう。
 わざわざ自分から話すようなことでもなければ、誰かに迷惑を――……かけるワケでもない。
 確かに、このことに関しては否定意見もあるだろう。
 だが、少なくとも迷惑なんてかけてないつもりだ。
 ……自分自身が、こうむっているとしても。
「…………」
 箸を取り、揚げ物に定める。
 ごくごく普通の、ありふれた白身魚のフライ。
 どこでも目にする、それこそこの学食では何度となく口にしてきた、一般的な品。
 ……なのだが。
「…………」
 それがなぜか味気ないように思えたのは、俺の中で唯一『昔』を知っている、本能だったんだろうか。
 結局、弱い箸の感触に食欲を掻き立てられることもなく、平凡な昼食はいつも以上にゆっくりと時間を刻んで行った。

「……それじゃ」
 トレイを手に立ち上がり、まだ残っている面々に簡単なあいさつを済ませる。
 無言の、圧力。
 まさにソレだ。
「ご馳走さまです」
 食器を返してから向かうのは――……なぜか、理学棟ではなく正面の中庭だった。
 俺にはあまり縁のない場所。
 なのにどうして足が向いたのかは、俺にもよくわからなかった。
 だが――……どこかで、やっぱり落ち着かない自分がいて。
 それはまるで、無意識の内に彼女を探しているように思えた。
「…………」
 食べている最中、ほとんど誰も何も喋らなかった。
 食べ終えてからは、なおのこと。
 以前までも、こうだったのか?
 ……答えは、否。
 知りはしないが、そうであるはずはない。
 純也さんも居心地悪そうにあちこちへ視線を飛ばしているし、孝之は孝之でライター弄ってるし。
 唯一何も知らない准教授だけが、あれこれと話題を振ってはいたが、結局最後には『なんだよ、みんなしてノリが悪いなー』なんて言いながら肩をすくめていた。
 ……冗談じゃない。
 何も言ってこないからとはいえ、それが俺にとって望んでた環境なんかじゃない。
 あんな居心地の悪さがこれからも続くのかと思うと、ひどく思い悩む。
 複雑、以上の問題。
 こんな精神的苦痛を受けるなど、聞いてない。
「…………」
 外に出てすぐ、涼しい風が当たった。
 同時に、学食内とは違う喧騒に包まれる。
 遠くから響いてくる声や物音が、外ならではだ。
 掲示板前に集まる者、中庭で寝転ぶ者、遊ぶ者、ベンチで話す者、図書館に向かう者、早々に3時限の教室へ向かう者。
 ここから眺めているだけで、様々な人間が目に入る。
 していることは、バラバラ。
 ……だが、共通しているのはひとつ。
 それは、全員が全員、昨日までの自分と同じ自分でいるということ。
 俺みたいに、『自分自身』と葛藤しているヤツなんて、そうはいない。
 ……記憶喪失、だと……?
 そんなモンが、現実に起こるとはな。
 しかも――……この俺が。
「…………」
 ただ、何をするわけでもなく。
 前を見すえたまま、時間が流れて行くのを感じるだけ。
 ……いや、感じてすらいなかったのかもしれない。

 このときすでに、あの子のほうが俺を先に見つけていたことにも、気づけなかったんだから。

「…………」
 さらり、と風が髪を撫でた。
 幾房も頬にあたり、目の前にまで流れてくる。
 ……だけど。
 私は、髪を手で払うことすらできなかった。
「羽織?」
 不思議そうな絵里の声が、背中にかかる。
 でも、そっちを振り返ることは愚か、視線が動くこともない。
 ……できなかった。
 だって、私の目の前には――……数日振りに見る、彼の姿があったんだから。
「……あ」
 応えない私を不審に思ったんだろう。
 肩を叩いた絵里が、小さく反応を見せる。
 彼女にも当然、見えているんだ。
 まっすぐ――……中庭を見つめている彼のことが。
「…………」
 なんでだろう。
 やけにどきどきして、息が少しだけ苦しい気がする。
 ……気のせい……じゃ、ないよね。
 だって、あのときと同じ感じなんだもん。
 あの――……病室で、彼と対峙したときと。
「っ……!」
 ほんの少しだけ、息を呑んだ……その瞬間。
 彼が、ゆっくりと私のほうに顔を向けて瞳を丸くした。
 ……気づいてなかったんだ。
 私が、ここから見ていたことに。
「…………」
 距離にしても、3mと離れていない場所。
 ちょうど、少し高い場所にいる彼のほうが、私を見下ろす形。
 ……なんだろう、この感じ。
 久しぶりに会えて嬉しいはずなのに、どうしてかすごく緊張する。
 笑顔も、言葉も、何も出てこない。
 ただ――……なんだか、不安で。
 彼をこのまま見ていていいものかどうか、すごく悩む。
 だって、私は……彼にとって、ただの“教え子”でしかなくて。
 親しげに話ができる、特別な存在なんかでもないんだから。
「…………」
 不安だった。
 どうしていいのか、迷っていた。
 ……そのせいかもしれない。
 いつの間にかぎゅっと握り締めた手が、じっとりと汗ばんでいたのは。


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