たった、数日。
その間見なかっただけなのに、なんだか随分と長い間会っていないように感じた。
「…………」
だが、戸惑っていることは手に取るようにわかる。
俺を見すえたまま、微動だにせず……表情を曇らせる。
ただ、俺だけを見て。
まるでこちらの動向を見守るかのように、彼女はまっすぐ身体ごと俺に向けていた。
「…………」
ゆっくりと足を動かし、徐々に間を詰めていく。
だが、一歩そちらへ近づいた途端、彼女が割と大きな反応をした。
そのせいで――……自分が揺らぐのがわかる。
……果たして、このまま彼女に近づいてしまっていいのか……と。
彼女にしてみれば、今の俺は彼女が知っているこれまでの『俺』ではない。
それどころか、ヘタすれば今の俺のことは何ひとつとして知らないんじゃないだろうか。
そんな思いが先によぎり、あと数歩を残したまま足が止まった。
……情けない話だが、もしかしたら怖かったのかもしれない。
彼女がまた、あんなふうに俺を見るんじゃないか……と。
大きな瞳いっぱいに涙を溜め、『どうしてそんなこと言うの?』という眼差しをするんじゃないか、と。
また――……俺が傷つけるんじゃないか、と。
ただそれだけが、怖かった。
「……こんにちは」
だが。
予想に反して、彼女はひと呼吸置いてから微かな笑みを浮かべた。
どう声をかければいいのか迷っていた俺に代わって、先にかけてくれた言葉。
何気ないあいさつ程度のモノながらも、キッカケと呼ぶには十分ふさわしかった。
「……体調は、どう?」
「え?」
「いや、その……元気、なさそうだったから」
自分でも、あまりに他人行儀すぎるというのはわかっている。
だが、いくら俺たちの関係が周知の事実だったとしても、その覚えがない以上、あからさまな態度を取ることなどできない。
軽薄すぎるだろう、それじゃ。
それに、少なくとも彼女とてこんな俺との関係を望んでいるとは思えないから。
「……え?」
別に、適当なことを言ったつもりはなかった。
それなのになぜか、彼女は――……笑った、のだ。
本当に小さくながらも、瞳を一瞬丸くしてから、くす……っと。
久しぶりに見た、彼女の笑顔。
…………久しぶり……?
いや、恐らく俺にとっては初めてのはず。
なのに、なぜだ。
コレほどほっとした気分になったのは。
まるで――……こんな彼女の表情を待ち望んでいたかのようだった。
「体調でしたら、私より……」
「……あ。いや、俺はもう平気なんだけど」
「そうなんですか? ……よかった」
きゅ、と両手を胸の前で合わせた彼女が、ほっとしたように俺を見上げた。
ちょうどイイ角度。
ちょうどイイ高さ。
……ふと……そんなことが浮かんだ。
ただ……いったい何にイイ角度なのか。高さなのか。
その理由は、ぱっと思い浮かばないが。
「…………あ……、その……」
「え?」
「いや、大したことじゃ……ないんだけど」
どうしたって、会話が途切れる。
詰まってしまう。
だが、それでは先ほど散々味わったつらい沈黙の時間と、なんら変わらない。
聞きたいことひとつ聞き出せず、言いたいことも言えず。
そんな時間は、もう願い下げだ。
「……そういえば……ひとつ、聞きたかったことがあるんだけど」
「はい?」
彼女を見据えたまま、ぐるぐると考えを巡らせていたとき。
ちょうど腕にはめていた時計が目に入って、話のネタが思い浮かんだ。
あまり、あと先考えずに口を挟むようなタイプじゃない。
……なのだが、今ばかりはイチイチ考えて選別している余裕もなかった。
「この、時計なんだけど……」
呟いてから、そっと右手で触れてみる。
すると、目の前の彼女も同じように視線をそこへ落とした。
……だが。
俺とは、少し違う眼差し。
どこか愛しげに……だけど、寂しげな。
そんな、なんともいえない狭間に揺れる瞳が見えた。
「どうして、うさぎの置物に……コレが?」
彼女とは、しばらくの間一緒に住んでいたと聞いている。
そして、それを裏付けるような証拠も沢山家にはあった。
だから、何に疑うこともなく彼女に訊ねただけ。
恐らく……俺の知らない理由を知っているんだろうと思って。
「……?」
――……だが。
彼女は、まじまじとその時計を見たまま、しばらく声を出さなかった。
……いや。
それだけじゃなくて、反応すら見せなかったというか。
眼差しがあまりにも深くて、思わず喉が鳴る。
「……羽織ちゃん?」
「っ……あ……。……ごめんなさい、ええと……」
少しだけ顔を覗きこむと、驚いた顔で俺を見上げた。
その瞳に、一瞬何も言えなくなる。
……心底、驚いていた。
ほんの少し、悲しそうな色を見せて。
「その……うさぎの置物は……買って来てくれたんですよ。私に」
「……俺が?」
「はい」
小さくうなずいた彼女に、今度は俺が驚く番だった。
あの置物。
形といい雰囲気といい、絶対に彼女が買って置いた物だと思っていた。
なのに――……まさか自分が買ったとは。
……しかも、彼女のために……など思いもしなかった。
「京都に出張したときの、お土産なんです」
「……京都」
当然ながら、まったく心当たりはない。
それでも彼女は、努めて冷静に穏やかな口調でひとつひとつ付け加えてくれた。
「田代先生と一緒に行ったんです。……それで、買って来てくれて……。あれって、ただの置物に見えるかもしれませんけれど、でも、ホントはオルゴールなんですよ」
「……オルゴール? アレが?」
「はい。……似てる、とも……言われました」
「え?」
「……私に、似てるって言ってくれたんです」
どこからどう見てもただの置物としか見えなかっただけに、正直驚いた。
……そして、今彼女が言った言葉。
俺がわざわざ『似てる』と言って、買って来たと言う。
彼女にたとえた、置物。
その首に、ある意味自分の象徴である腕時計をかけるのは、独占欲というか……顕示欲の現れに違いない。
自分の物、という主張。
まるで――……常に抱きしめてるかのような。
「………………」
どれだけ、以前の『俺』が彼女を想っていたのかが垣間見えた気がした。
……ホントに、変わったんだな。
彼女のお陰、なんだろう。
以前の自分なら絶対にしなかった行為。
と同時に、本当だったんだな……なんて思い始める。
それはもちろん、彼女が俺と一緒にあの家で暮らしていたということが。
「…………」
事実、か。
それが俺にとって何の意味を表すのかは、正直曖昧だ。
周りの人間にとっての『俺』の事実は、少なくともイコールにはなり得ない。
非難されようと、蔑まれようと、こればかりは仕方がないこと。
俺自身には、どうしようもないんだから。
……それでも事実は事実である以上、俺自身も対応していかなければいけないんだとも、思うようになって来つつはある。
本当に、微々たる進歩だとは思うが。
「……あの……?」
「え? ……あ、いや。ごめん、ヘンなこと聞いて」
「いいえ。とんでもないです」
不思議そうな顔をした彼女に軽く頭を下げると、彼女のほうがより慌てて手を振った。
と同時に見せる、穏やかな笑み。
それは、あの日見せてくれた表情を彷彿とさせることのない、温かいモノだった。
「…………」
まっすぐ俺を見る眼差しに、偽りとか、不信とか、そういった類のモノは見えない。
あるのは、絶対的な信頼と、敬愛。
……想い。
まっすぐに『俺』を見てきた彼女だけが持つ、強い想い。
それがわかるからこそ、申し訳なくてたまらなかった。
確かに、彼女はかわいいと思う。
客観的に見ても目を惹かれるし、どことなく周りが和やかな雰囲気になっているようにも見える。
……しかし。
彼女は、俺より6歳も年下。
尚且つ、今は立場こそ違えど、それでも数ヶ月前までは教師と生徒という恋愛感情があってはならない関係だった。
……それなのに、どうして俺が……?
しかも、話を聞けば限りなく俺から手を出したことが明らか。
だから信じられないんだ。
幾ら多くの人々の口から『事実』を持ち出されようとも、うなずくにうなずけないんだ。
年下で、生徒で、友人の妹で。
俺にとっては決してプラスになるはずのない要素ばかりに包まれている彼女を、どうして俺が自分のモノにしたいとまで考えたのか。
「……引き留めて、すまなかった」
「え……?」
「ありがとう。教えてくれて」
俺はこれまで、彼女にどうやって微笑みかけていたんだろう。
……そもそも、笑いかけていたんだろうか。
それすらも、わからないこと。
――……それでも。
「とんでもないです」
やっぱり彼女は、俺に対して始終変わらない態度だった。
にっこりとはいかないものの、穏やかな表情。
泣き顔じゃない、姿。
それを見せてくれていただけでも、正直やはりほっとしていた。
「……それじゃ」
「あ。……はい……」
軽く会釈してくれた彼女に習ってから、理学棟へ足を向ける。
そのとき。
一度たりとも振り返らなかった俺の背中を、彼女がしばらくの間見つめていたというのは――……ずいぶんあとで知った。
|