「アンタって、ほんっっっとうに馬鹿ね……!!」
「んなっ……!? おまっ……そこまで言うことねーだろ!?」
「言うわよ! 何回でも言ってやるんだから!!」
これでも、絵里の声は小さい。
…………いつもに比べれば、だが。
「……ったく、最低。ほんっとにホントに最低……! あーもー! やっぱ、アンタなんかに頼んだ私が馬鹿だったわ!」
『馬鹿』という部分を強調して『ぶぁか』と言ったのは、もちろんのこと。
相変わらず怒りの収まりそうにない絵里は、深々とため息をつきながら目の前の純也を睨みつけた。
「………………」
「………………」
「………………」
「な……んだよ……」
じぃいいい。
穴の開きそうなほど無言で顔を見つめ、口を横一文字に結んで今度は何も言わない。
すると、しばらく同じように口を曲げて見返した純也は、やはり先に耐え切れなくなって眉を寄せた。
「……はぁあぁぁあ……」
「っ……! だから! なんなんだって!!」
途端、絵里がまた大げさにため息をついたのは言うまでもなく。
「アンタって、ホント……どこまで馬鹿なのかしら」
「なっ……! 絵里、お前な!!」
額に手を当てて、首をふるふる横に振った絵里。
この瞬間、彼は見事彼女の中での第1位に返り咲いたらしい。
『気が利かない鈍ちん男 代表 田代純也』
そんな、決して栄冠ではないモノに。
ことの発端は、つい先日。
先日も先日、ほんの昨日のことだった。
昨日。
正確には、その昼休み。
今から数えれば、まだ24時間経ってすらいないとき。
場所はまた、例の如く大学の学食の窓際の席だった。
「……ねぇ、絵里ちゃん」
「え?」
まだ、羽織は姿を見せていない。
恐らく、2時限目が少し延びているのだろう。
ひと足先に場所取りを完了して早速昼食を広げていた絵里は、正面に座っていた葉月の声でようやく顔をあげた。
「ん? どしたの?」
すでに、手にはサンドイッチが握られている。
もう一方には、当然のように牛乳も。
最近、ほぼ毎日のように飲んでいるコレ。
この学食のすぐ後ろにある農学部の直販で売られている、ホンモノの生の牛乳である。
濃さが違う。
甘さも違う。
ついでにその、お手ごろ価格も。
魅力溢れる牛乳を手にした彼女は、毎日いつでも幸せそうだった。
「……あのね?」
だが、そんな絵里とは対照的に、葉月の様子はあまり芳しくない感じだ。
手にしたお茶のペットボトルを持てあますように弄りながら、伺うように絵里を見上げる。
「羽織……なんだけど」
ぽつり、と呟かれた小さな小さな言葉。
だが、それはよく響いた。
「……何かあった?」
ある程度の予想が付いてなかったと言えば、嘘になる。
それでも、これまで葉月がこんな表情で羽織のことを絵里に話すことはなかった。
今までは、まさに正反対。
いつでも葉月は、微笑ましい表情を絵里に見せながら『今日はこんなことがあったの』と教えていた。
彼女が羽織について話すことは、すべていいことばかり。
前向きに歩き出した羽織の、成長記ともいうべき徒然がすっかり、ここ数日の習慣になっていたというのに。
……それが、今日は違った。
葉月の表情が、重たく、そして暗い。
「……この前のこと、覚えてる?」
コトン、と彼女の手からペットボトルが滑り落ちた。
その途端、不意に頭に浮かぶ――……光景。
『この前』
彼女が言う時間と同じ時間が、頭に確かに思い浮かんだと確信した。
葉月は、羽織と一緒にいる時間が長い。
だからこそ、気づくこともわかることも多くて。
「……何があったの?」
それを踏まえた上で、眉を寄せた絵里はテーブルに少しだけ身を乗り出した。
「……怖かった……」
「え……?」
「ほんとはね? ……私……あのとき、どうしようって思ったの」
ベッドの上で羽織は、そう呟いた。
本人もかなり戸惑っているんだろう。
珍しく、ぎゅっとクッションを抱きしめているから。
「……あのとき、っていうのは……」
ベッドに座ってる羽織とは違い、床に座り込んでいる葉月。
手だけをベッドに乗せると、羽織のわずかな動きとシンクロするように小さく跳ねた。
「学食で……会うなんて、思ってもなかったの」
目の前の葉月に話しかけているはずなのに、なぜかその眼差しは遠い。
葉月の向こう……ずっと、遠い誰かを見ているような表情に、思わず眉が寄る。
「……あのときが初めてだったの」
「え?」
「いつも……見かけると、私……逃げてたから」
「っ……」
きゅ、と手を握り締めたのが見えた。
逃げるという言葉が、少しだけ霞んだような……小さくなったような。
羽織自身も悩んだのか、微かに声も震えていた。
「学内で彼を見かけるとね、怖……くて」
「……怖い……?」
「足が……すくむの」
握り締められた手が、胸に移る。
……結んだままの手を当てる。
つらい。
苦しい。
そんな彼女の率直な思いが、ひしひしと伝わってくるようで、たまらなかった。
「心臓がどきどきして、苦しくて。……こんなこと、今までなかったのに。でも今は、怖いの。……会うのが怖い。……目が合うのが……っ……怖い、の」
怖い。
その言葉が何度も何度も繰り返し使っているのを、羽織はわかっているだろうか。
うなずきながら言葉を受け止めるものの、彼女の表情の暗さと、話し方と。
すべてから戸惑いが伝わってきて、葉月自身も少しだけつらかった。
……不安だった。
大丈夫じゃないな、と。
日に日に、以前までの姿を取り戻しつつあったように見えたのは、過大評価だったんだ、と。
安心しつつあった自分が、少しだけ悔しかった。
「……羽織は……」
ぽつりと名前を呼ぶと、すがるような瞳で彼女が見てきた。
途端、喉まで出ていた言葉が止まってしまう。
……こんな顔、させた。
眉を寄せたまま見つめていると、申し訳なさがとめどなく溢れてくる。
私がしていることは……したことは、正しくなかったのかもしれない。
迷惑だったのかもしれない。
……勝手な思いこみだったのかもしれない。
そんななんとも言えない気持ちから、緩く首が横に動いた。
「羽織は、何がそんなに怖いの?」
ようやく出た言葉に一瞬瞳を丸くした羽織が、また寂しそうな顔を見せた。
「あのときみたいに、また……見られるんじゃないか、って……」
「……え?」
「なんでここにいるの、って。まるで……全然自分には関係ない相手を見るような……すごく、戸惑ってる眼差しだった」
あのとき、というのは……言うまでもなく、病室でのことだろう。
翌日自宅に帰ってきた羽織は、何ひとつ言葉をかけてはいけないような、そんな絶望を抱ききった顔をしていた。
……あのときほど、つらかったことはない。
何か言ってあげられたらいいのに、言っていい言葉が見つからなくて。
自分がどれほど無力なのかということを、まざまざと思い知らされた。
「……あんなふうに見られるかと思うと、怖くて……会えないの」
会いたくないのかもしれない。
少しだけ視線を落としたあと、羽織は小さくそう言った。
……こんなことを言うようになってしまった彼女。
言わざるを得ない、状況。
その気持ちを推し量ることは、誰にもできない。
つらさも、悔しさも、切なさも。
何もかもは、彼女自身にしか表せないもの。
体験しているのは、味わってしまったのは、彼女だけ。
この身体に、いったいどれだけ重たくて冷たいものを閉じ込めているんだろう。
つらくてつらくて耐えきれなくて、今、こうして口を開いた。
そうせざるを得ない状況にまで追いやられていると伝わってきて、だけど、何もできなくて。
申し訳なさと不甲斐なさとで、開きかけた唇がまた閉じた。
「……私……不安なの。っ……だって、否定されちゃうんだよ? 祐恭さん自身に……っ……今までのこともこれからのことも……っ……思い出も気持ちも、全部……っ!」
ぽつりぽつりと話し始めた言葉が、顔を上げた途端から急に勢いを伴って。
一気にまくしたてたかと思いきや、わっと顔を両手で覆ってしまった。
聞こえる、嗚咽。
響く、声。
……何もしてやれない、言ってやれない、自分。
「…………羽織……」
どうしようもできないようなやりきれない気持ちが悲痛なほど伝わって来て、涙が浮かんだ。
どうしたらいいんだろう。
何をしてあげられるんだろう。
……そんなことを自問しながら、泣き崩れた羽織にただただ葉月は両手を伸ばすしかできなかった。
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