「……あの……」
閉め切られた、一室。
そこで口を開いた羽織は、予想以上に自分へ視線が集まるのがわかった。
薄ぐらい部屋。
少しだけ煙草の匂いが残っているように思えるのは、気のせいだろうか。
……でも。
羽織はこの雰囲気がさほど嫌いじゃない。
どきどきするし――……それこそ、ほんの少しだけ思い出すこともあるから。
「……えっと」
揃ったように表情を向けられて、思わず何も言えなかった。
代わりに、苦笑がほんのりと浮かぶ。
……みんなでそんな顔しなくても。
とは思うが、少しだけ申し訳なさと嬉しさとが入り混じったような、そんな不思議で曖昧な表情しか羽織も浮かばない。
「私のことなら気にしないでね?」
「っ……けど! アンタだって思うでしょ!? 純也の馬鹿さには!!」
「えぇ!? そ、そんなこと思ってないよ!」
さりげなく言ったつもりだった。
だが、絵里には思ってもなかったような言葉だったのかもしれない。
ダン、と強くテーブルを叩いたかと思いきや、眉を寄せてビシっと純也を指差した。
「でもね!? ふつー、こんな場所選ばないでしょ!?」
「え? ……そうかな?」
「そうなの! 絶対!!」
どうしてそんなにも強く断言するんだろう。
慌てて手を振るものの、絵里はまったく揺るがない。
……そこまで怒らなくても。
申し訳なさそうな顔をして、さっきから何も言おうとしない純也が目に入った途端、羽織は眉が寄せた。
…………すみません。
絵里の代わりに、頭を下げてしまいたいとさえ思う。
「……ったく。なんで、カラオケなんか選ぶのかしら」
よりにもよって、と付け加えてからソファにもたれた絵里は、ちらりと横目で純也を見つめた。
肩身の狭そうな……というより、居心地悪そうな姿。
……だからこそ、申し訳なくなる。
これもすべては自分のせいだ……と、羽織は思っているから。
「私、カラオケ好きだよ?」
「……そういう問題じゃないのよ」
「ぅ。あの、でも……」
「庇わなくていいの」
「……そういうわけじゃ……」
きっぱりと否定した絵里は、鋭い眼差しだった。
……怒ったオネエサンみたいな。
『はー』と額に手を当てて首をまた横に振られ、思わず口をつぐむ。
すると、そんな彼女がしばらくしてから顔を上げた。
――……もちろん、眼差しは変えないままで。
「ホント、馬鹿」
「……絵里ぃ」
「だって、そうでしょ? 覚えてないの?」
「え?」
「え、じゃないわよ!」
深いため息をついた絵里を見るものの、視線はすぐに羽織から純也へ向いた。
どうやらすっかり我関せずモードに入っていたらしく、視線が集まった彼は、どこか不思議そうな顔。
歌本と手近にあったデンモクを手に、きょとんとしたまま絵里を見つめていた。
「アンタってヤツは……!」
「うわ!? ちょっ……なんだよ、お前!」
「何じゃないわよ、お馬鹿!」
「っ……!」
「え……絵里!?」
そんな純也の様子がよほど気に入らなかったらしく、絵里は飛びかかるように彼の襟元をキツく締め上げた。
突然のことで呆気に取られて素早く動けなかったものの、葉月が慌てて動いたのを見てようやく羽織の身体も動いた。
……まさか、こんなことになるとは。
どうやら、絵里はホントに怒ってるらしいとわかる。
「ぐっ……くるし……!」
「ねぇ、絵里! やめて!?」
「絵里ちゃん!」
ふたりがかりで、説得と押さえとでがんばっているのに、絵里の力は緩まなかった。
ぎゅうっと握り締めた襟元が、一層強まっているようにさえ見える。
……でも。
そんな羽織と葉月の静止をものともせず純也に対していた絵里は、ようやく両手を離してから――……大きく肩で息をついた。
そのときの、顔。
その表情は、どこか少しだけ悔しそうにも見えた。
「こんなトコに来ちゃったら、思い出しちゃうじゃない……!!」
語尾が、少しだけ掠れていたように思う。
悔しそうで、歯がゆそうで。
そして……少しだけ切なそうに純也を見つめた絵里が、ゆっくりと羽織を見た。
「祐恭先生……歌、うまいから」
「……絵里……」
「ったく……。いくら遊びのレパートリーがないからって、あのときとまったく同じお店使うことないのに」
せめて、もう少し考えなさいよ。
そう言った絵里は、両手を軽く払うように叩いてからソファにもたれた。
ほんの少しだけ、上下している肩。
口調は整ったものの、よっぽど力いっぱい思っていてくれたらしい。
…………あのとき、か。
そう思った途端、羽織は懐かしさを覚える。
“あのとき”、彼女は初めて祐恭の歌を聞いた。
「……ったく……。使えないんだから」
ぽつりと呟いた絵里が、テーブルを見つめてまた小さく息を吐いた。
そこでようやく、純也も思い当たる節があったらしい。
小さく『あ』と呟いてすぐに、口へ手を当てた。
「……もぉ」
そんな絵里の様子を見て、ついつい笑みが浮かんだ。
……絵里ってば。
相変わらず優しくて、まっすぐで……かわいいんだから。
田代先生にストレート過ぎる言葉をぶつけちゃったのは、私のせい。
……だけど、優しくて。
ホントに大切に想ってくれてる気持ちが十分すぎるほど伝わってきて、羽織は、もう何も言えなかった。
ありがとう。
ただ、そのひとこと以外にはもう、今は何も言葉が出ない。
「……ありがと」
「…………」
「でもね、私……カラオケ好きだし」
「けど……!」
「大丈夫だよ」
心配そうに見た絵里へ、羽織はできる限り精一杯落ち着いた笑みを浮かべながら深くうなずく。
……だから、あんまり心配しないで。
これでも結構がんばれるから。
……って、それは絵里も知ってるだろうけれど。
合わせた瞳にゆっくりと語りかけながら、彼女がもう1度笑みを浮かべる。
ゆっくりとはいえ、ちゃんと歩けるから。
そう、約束したから……と思いながら。
「……ね?」
わずかに首をかしげた羽織が、絵里と、純也と――……そして、葉月をそれぞれ見つめる。
みんな揃って心配そうな顔していて、思わず苦笑した。
……確かに、そんな顔されるだろうなというのも、羽織とてわかる気はする。
もしも自分の周りに今の自分と同じような子がいたら、どうしていいかわからないから。
一生に一度の人生で、この世界にいる何人の人が自分と同じ体験をするだろう。
不謹慎かもしれないものの、ふとそんな確率が頭に浮かぶ。
……きっと、いないだろうな。
だからこそ周りが戸惑うのは当然。
当人の自分とて、戸惑っているのだから。
……それでも。
だからこそわかる、ありがたさ。
優しさがこんなに身に沁みるなど、初めてかもしれない。
痛いくらいに気持ちが伝わってきて、嬉しくて……申し訳なくて。
……申し訳ない、なんて思ったらバチが当たっちゃうかもしれないけど……。
でも、それだけはいつも思ってることを、どうしたら伝えられるだろう。
それぞれの顔を見ながらふと、羽織は笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
3人に対して、もう1度微笑む。
自分がもう少し強くなれれば、変わるだろうか。
……いや。
ならなければいけない、と思う。
彼のことで、揺るがないように。
これから先、ちゃんと自分を保っていけるように。
……すべてを受け入れて、すべてを自分の力で運ぶ……勇気と力。
そのどちらをも、持てる強さを。
「じゃあ、最初は絵里からね?」
「……え……?」
「カラオケは、しんみりする場所じゃないんでしょ?」
以前、絵里が言っていた言葉を繰り返すと、瞳を丸くしてから葉月と田代先生とを見つめた。
「時間になっちゃうよ」
羽織が向けた、マイク。
それでも、絵里がそっと手を伸ばしてくれたのが、素直に嬉しかった。
……時間。
大切な、限りあるもの。
だから――……自分が、がんばらなくては。
膝の上で軽く手を握り締めると、ほんのり温かい力がみなぎったように思えた。
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