「今の羽織を、ひとりにさせちゃいけないと思うの」
この間、すごく心配そうな顔で葉月ちゃんが言った。
「……すごく不安定でしょう? ……危ないと思う」
危ない、という言葉に思わず大きな反応をしたのを覚えている。
……危ない。
それは、どういう意味でだろう。
でも、なんとなくわかった。
羽織が危ない、という意味を。
そして、葉月ちゃんが『危うい』という意味も含めて言ったであろうことも。
「ちょっといいですか?」
カツン、と渡り廊下に響いた靴音。
今日は、この前買ったばかりのミュールを履いてきた。
踵の高い、白いモノ。
純也曰く『凶器』らしいヒールが、実は1番気に入っている。
鋭く、何物をも寄せ付けないような強さ。
それをしっかりと現しているように思えて。
コレを今日卸した朝、決めていた。
今日は絶対、彼の元へ行こうと。
「……何か用事?」
数メートル先。
そこに佇んだまま半身だけで振り返った、彼。
手には、プリントの束を挟んだ分厚いファイルと、教科書がある。
……こんなふうに間近で……しかも1対1で会うのは、いつ以来だろう。
「どうしても、お話したいことがあります」
なぜか、敬語になった。
……なんでだろう。
理由は、自分でもよくわからない。
だけど、どこかで自分も認識していたんだろうと思う。
何もかも対等だと思いこんでタメを張ってきた、これまでの彼とはやっぱり違うんだということを。
「…………」
まっすぐに私を見たままの彼から、今までは感じたことのなかった抵抗のような威圧感を感じる。
でも、今日こそは絶対にしてやるって決めてた。
今私の目の前にいる――……祐恭先生に話をしに行く、って。
……この間の、羽織の言葉。
表情。
眼差し。
何もかもから、私が動かなきゃいけないって気になったから。
「私のこと、わかる?」
息を短く吸ってから、1歩だけ彼のほうへ踏み込む。
揺るがないように。
怯まないように。
無意識の内にそんな思いを精一杯込めていたのか、彼を半分睨んでいた。
「…………」
微動だにせず私を見つめ返していた彼が、小さく息を吐いたように見えた。
と同時に、そこで初めて私から視線を逸らす。
……何もかも、彼と一緒。
ううん、それは当然だってわかってる。
だって、彼は今も昔も『瀬尋祐恭』という人に変わりないんだから。
…………でも、なんだろうこの威圧感は。
とてもじゃないけれど、あんまり好きこのんでお知り合いになりたいと思うようなタイプじゃない。
「…………」
こうして彼と対峙するのは、事故のあったあと初めて。
だから、今、ようやくわかった。
どうして羽織があそこまで恐れたのか、と。
なんであんなにも自信なさげに、瞳を揺らしたのか……と。
……当然よ。
だって、こんなふうに声をワザと大きく響かせて虚勢を張っている私でさえ、今すぐにでも『ごめんなさい』して帰りたくなるんだもん。
間違いでした、勘違いでした、すみませんでした。
さらりとそう言ってのけれたら、どれだけラクだろう。
正直、こんなふうに背を伸ばして立っているのがやっと。
精一杯。
まさに、それ以外の何ものでもない。
……だから……羽織が背を向けたくなるのも、痛いほどよくわかる。
まるで、違う人。
あまりにも雰囲気も喋り方も何もかも違いすぎていて、どこかでやっぱり『違う』と判断してしまっている自分もいるから。
「……私が誰か、知ってる?」
少しだけ、挑発的な態度だったかもしれない。
嘲るような笑みが浮かんで、瞳も少しだけ細まったから。
……だけど。
次の瞬間、思いがけないことが起きた。
もちろんそれは――……残念ながら、とても悪い意味で。
「純也さんの、彼女。……だろ?」
どこか、迷惑そうに私を見た瞳。
それにものすごく腹が立って仕方なかった。
「ッ……!!」
頭に血が上って、身体いっぱいに力がこもった。
ガツン、と1歩強く踏み込んで、ギリっと奥歯を噛み締める。
腹が立つって、こういうことか。
本気で今、彼に対して怒りが満ちる。
「ッ……んで……」
「……え?」
「なんで純也が基準なのよ!!」
もしも今、身近に何か物があったなら、迷わず彼へ向けて思いきり蹴飛ばしていたに違いない。
「どうして羽織が出てこないの!?」
声が響き、あたりにぶつかってこだまする。
今ここに、ほかの学生が通ったとしたら。
間違いなく私も彼も、明日から違う目で見られるだろう。
……だけど、そんなこと考えてる余裕はなかった。
なんで、って。
どうして、って。
彼に対して私は間違いなく――……落胆したから。
ガッカリしたの。本当に。
……本当に本当に……悔しかった。
あんなに、面白い男かもしれないって思ったのに。
この人なら、大事で大事でたまらない羽織の彼氏を許してあげてもイイかな、って思えたのに。
だから、羽織が泣いても許してあげられたのに。
「ふざけないでよ……!!」
つらかった。
悔しかった。
……切なくて、たまらなかった。
そんな答えが返ってくるなんて、これっぽっちも思っていなかったから。
彼ならば、って思ったのに。
……それなのに――……。
「あの子との付き合いのほうがずっと長いのに……! なんで出てこないのよ!!」
なんでこんなところで、裏切るんだろう。
残酷という言葉は当てはまらない、仕打ち。
信じることが、できたのに。
なのにどうしてこんな形で、裏切られなきゃいけないんだろう。
賭けてた部分もあったと思う。
心のどこかでは、絶対に違うって信じてた部分も。
……なのに、どうして?
なんで?
なんでこんな、全然望んでなかった結果になっちゃってるんだろう。
「なんでそんなこと言うのよ……っ!!」
いつの間にか、早足でツカツカと彼の元まで寄っていた。
両手には、皺の寄った彼のシャツ。
これまでに見たことがあるような色のそれが、なんだか妙に悔しかった。
「……なんで……っ……」
泣き声になっているのに気付いたのは、このときだった。
何も言わず、何もせず、ただただ私に揺さぶられているだけの彼。
……逃げてるんじゃないわよ。
そんな思いが真っ先に浮かんで、奥歯をかみ締めると同時に浮かんだ敵意にも似た感情が、なんだかすごく悲しかった。
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