「なんでそうなの!?」
 ガシャン、と肩からバッグが滑り落ちた。
 ……ううん。
 どっちかっていうと、自分から捨てたようなモノ。
 中身がコンクリートの床に少しだけ散らばって、その中に携帯も見えた。
「羽織はッ……羽織はねぇ……!! どんだけ祐恭先生のことが好きだと思ってるのよ!!」
「…………」
「ッ……な、んで……! なんで何も言わないワケ!?」
 ぐいっと両手で彼を引き寄せ、強く揺さぶる。
 何も言わずに、ただただ私を見下ろしている瞳。
 横一文字に結ばれた唇も、やけに目に付いて一層腹が立つ。
 だって――……その態度はまるで、聞きわけのない子どもに困っている大人そのもの。

「なのに、なんで羽織のこと忘れちゃったのよ――……!!」

 そんな態度が鼻について、ギリっと強く奥歯が軋んだ。

 あれは、今みたいに暑くなり始めたころだった。
 ……正確な日付だと、もう少し先。
 でも、今日とよく似た、青空が広いよく晴れた日のちょうど今と同じ……お昼ごろだった。

 絵里に、どうしても話があるの。

 普段よりもずっと息を切らせて教室に走り込んで来た羽織が、私を見つけるなり一目散に駆け寄ってきて。
 言いたいことがあるに違いないのに、『報告っていうのかな』とか『ええと、ええと』なんて、すごく困ったように……だけど、ものすごく嬉しそうな笑顔を見せた。
 憧れって言ってたっけ。
 年上で、教師なのに、いつだって体裁なんか気にしないで、飛んで来てくれる純也のこと、が。
 ……田代先生みたいに優しい彼が、私もできたらいいな。
 少しだけ顔を赤らめた羽織が言った言葉。
 私はそれが、ちょっとだけ誇らしくて、やっぱり恥ずかしくて……だけど、ものすごく嬉しかった。
 だから、羽織にだけは幸せになってほしかった。
 羽織はいつだって優しいから。
 自分よりも私のことばっかり、いつでも気にかけてくれていたから。
 ……だから、そんな彼女が頼って甘えられるような……そんな人が、彼氏として相応しいんだってずっとずっと願ってた。

 私……ね、瀬尋先生と……その……つ、きあう……っていうか……。

 何も言わずに椅子へ座った羽織は、俯いたまま顔を真っ赤にして、もじもじとようやく言葉を紡ぎ始めた。
 ホントに!? おめでとう! よかったじゃない!! やったわね!
 最初は、びっくりして何も言えなかったけれど、でも、羽織のその嬉しそうな……だけどものすごく照れてる顔を見てたら、じわじわと顔が緩み始めて。
 みんなの不思議そうな顔をよそに、思いっきり抱きしめてたんだよね。
 あのときは、ホントに嬉しかった。
 だって、念願叶って羽織にも『彼氏』ができたんだもん。
 純也と同じ、教師で、年上で。
 内面的なモノがどうかわからなかったけれど、でも、羽織が好きになった人。
 だからきっと、間違いはない。
 そう思って、私はホントに心から祝福していた。
 嬉しかったんだもん。
 ……確かに……ほんの少しだけ、寂しさもあったかもしれないけれど。
 お母さんみたいな感じかな。
 大事な娘が、ひとり歩きを始めたみたいで、もう私の力は必要ないんだな、ってちょっとだけ思ったっていうか……。
 でも、何もかもは結局私の思い過ごしで。
 羽織が祐恭先生と付き合うようになったからっていって、何も変わったことなんてなかった。
 それどころか、共通の話題が一層増えた。
 今までなんとなく話せなかった、『彼』との関係について。
 そんな、ベールに包んだままだった部分の話も、羽織と共有できるようになったことがものすごく嬉しくて、夜遅くまでメールしたり、ときには自習と称された授業中にこっそりと盛り上がったこともある。

 ――……だから、信じてたのに。

 裏切られたなんて思ってるのはこっちの勝手な言い分かもしれないけれど、でも、よりにもよってそんな言葉が返ってくるなんて。
 私が欲しかったのは、そんなことじゃない。
 ただひとこと、彼から『羽織』の名前が聞きたかっただけなのに。
「思い出してよ!!」
 ダンっと踏み込むと、彼の背中が壁に当たった。
 壁と言っても、ここは外にある渡り廊下。
 見下ろせば簡単に景色が見える、ガラスの窓だ。
 ……だから、余計に声が響くのかもしれない。
 自分自身の理不尽な言い分が、やけに大きく。
「なんで忘れちゃったの!? 羽織のことだけは絶対に忘れちゃいけないんじゃないの!?」
「…………」
「羽織はねぇ、今もずっと苦しんでるのよ!? ……ッ……祐恭先生のせいじゃない……!!」
 掴みかかられても、何も言わない彼。
 理不尽だとは思うし、ひどいことを言ってるっていうのもわかる。
 でも、だからといって何もしないで居ることなんて、もちろんできなくて。
 ……悔しかった。
 ただ、そのひとことにしか尽きない。
「羽織はずっと喜んでたのよ!? 一緒に住める、って! 先生と一緒に暮らせるなんて、夢みたいだって!!」
 確かに、彼を苦しめてるのかもしれない。
 でも、羽織だって。
 ……彼女だって、もっとずっと悩んでる。苦しんでる。
 けど、そのことを彼は知らない。
 それがやっぱり、何よりもつらかった。
「あんなに喜んでたのに……!! あんなにっ……あんな、嬉しそうだったのに……!」
 彼は知らない。
 羽織が今、どうしようもなく沈んでいることを。
 誰が何を言ってあげたところで、どうにもならない足かせが邪魔していることを。
 ……彼じゃなきゃ、外せないのに。
 何もかも、ほかの誰かじゃ駄目なのに。
「知らないでしょ!? 羽織が今、毎日泣いてるってこと……!!」
「っ……」
 ぐいっと、ひときわ強くシャツを握り締めたとき、彼が少しだけ反応を見せた。
 それまでは、何も言わずにただ黙って私を見下ろしていたのに。
 ……羽織が泣いてる、って知ったからかもしれない。
 少しだけ、彼の表情が明らかに変わった。
「羽織は……まだ、祐恭先生のことが好きなの」
 そんな彼の顔を見て、少しだけ力が緩んだ。
 つらそうな、迷っているような……そんな目をしてから瞼を閉じた表情。
 わかってくれてる、んだろうか。
 私の訴えと、羽織の想いを。
 それならばまだ、余地があるということ。
 私がこうするのも、意味がないわけじゃないんだって思える。
「なのに、どうして――……」

「いい加減にしてくれ」

「……な……っ……」
 もう1度、彼が瞳を開いたとき。
 思ってもなかったような、言葉と表情が向けられた。
「俺が何をした?」
「……え……」
「わからないんだよ。……思い出せないんだよ……ッ! 仕方ないだろ!?」
「っ……!」
 眉を寄せて、睨みつけられる。
 ……こんな顔されるのも、こんな態度であしらわれるのも、今が初めて。
 掴んでいた手を簡単に片手で振り解かれて、思わず1歩後ろに足が下がった。
「どうすればいい?」
「……え……?」
「謝ればいいのか? 嘘で繕えばいいのか? ……ッ違うだろ……!?」
「ッ……!」
「もう沢山だ!!」
 まるで、吐き捨てるかのように彼が首を振った。
 心底、嫌そうな顔。
 鬱陶しそうで、嫌悪してやまないというような……そんな、見たこともない顔。
 ……だって初めて、だもん。
 彼がこんな顔で私を見るのも、こんな大声を出すのも。
 何もかもが初めて。
 ――……だからこそ、何も言えなかった。
 と同時に、羽織のことが頭に浮かぶ。
 なんで、羽織があんなにも怖がったのか。
 どうして、泣いて泣いて、尚も泣き止まないのか。
 その理由が――……わかったような気がした。

 ホントに、祐恭先生なの?

 この人が、あの、祐恭先生なの?
 確かに、意地悪なところもあったかもしれない。
 でも、それは羽織と居るとき……すごく楽しそうにしていた。
 意地悪であったけれど、決して悪意はなかった。
 ……こんなふうに、本気の拒絶なんて受けたことはない。
 ホントに?
 ホントにこの人は、祐恭先生なの?
 いくら記憶がないからって、ここまで性格が変わってしまうモノなの?
 ……変われる、モノなの……?
 本当に?
 ただ言葉だけが、ぐるぐると頭を巡って。
 情けなくも、何も言えずにただただ首だけが横に振れた。

「もういいよ」

「っ!!」
 いつの間に、こんなみっともなく泣いてたんだろう。
 遠くから聞こえたつらそうな声で、思わず身体が固まってからゆっくりゆっくりとそちらへ顔が向く。
「……は……おり……!!」
 肩で息をしてるように見えるのは、気のせいなのかな。
 そして同時に――……泣いてるように見えるのも。
 笑ってる、のに。
 薄っすらと笑みを浮かべて、私を見ているのに。
 なのに羽織は、泣いていた。
 私と同じように………ううん。
 それ以上に、すごくすごくつらそうに泣いている。
「……もう、いいの」
「何言って……」
「だって、仕方ないじゃない。……言うとおりだもん」
 仕方ない、って本気で思ってるはずない。
 なのに羽織は、私の元までゆっくりと歩いて来てから……ぽつりと呟いた。
 切なそうに。
 つらそうに。
 その顔からは、『諦め』以外の感情を読み取ることができず、眉が寄る。

「……先生の、言う通り」

「ッ……!」
 ……初めて。
 彼が記憶をなくして以来、初めて――……羽織が彼を『先生』と呼んだのを聞いた。
 これまでは、何とも呼んでなかった。
 ……もしかしたら、呼べなかった、のかもしれない。
 先生とも、祐恭さんとも……彼のことを、何も。
 思い出してしまうから、だったのかもしれない。
 でも今は――……もう、違う。
 羽織は今、まっすぐに彼を見つめているから。
 …………ほんの微かな、笑みを浮かべて。

「……ごめんなさい」

「っ……!」
「羽織!?」
 しばらく見つめたままでいたら、ぺこっと少しだけ羽織が頭を下げた。
 さらりと髪が肩から滑り落ちて、長く下に伸びる。
「……嫌な思いさせて、ごめんなさい……」
 もう1度。
 やっぱり笑みを浮かべたままで、羽織は……彼に謝罪の言葉を口にした。
 ……なんで……?
 どうして?
 羽織が謝ったりする必要、ないのに。
 どっちかといえば、私のせいなんだよ?
 羽織にあんな顔をさせているのも――……きっと、私のせいなのに。
 なのに……っ……!
「……なんで……!!」
 乾ききって張り付いてしまった喉をようやく動かして彼女を見ると、私を見てから……また、笑った。
 まるで、『しょうがないなぁ』と言うような顔で。
「もう、いいんです」
 困ったように少しだけ首をかしげた羽織に、彼が少しだけ反応を見せた。
 ……手。
 片手を、彼女にまっすぐ伸ばしかけた、のだ。
「……え……」
 だけどそれは、一瞬で。
 私が瞳を丸くした途端、きゅっと握り締められた手は、すぐに下がってしまったけれど。
「っ……羽織!!」
 一瞬呆気に取られてしまったけれど、今、羽織が言った言葉が遅れて蘇ってきた。

 もう、いいんです。

 今確かに、そう口にしたのだ。
 ……もういいって、何が?
 どういうこと?
 何が、どういいの?
 そんな疑問がぐるぐると頭を巡って、羽織を見つめる眼差しが強張る。
「もういいの」
「ッ……だから、何が……!」
 どうして、そんなにも穏やかな顔をするんだろう。
 見ているこっちが、不安になる。
 儚くて、今にも崩れてしまいそうで。
 ……本当に本当に、つらい顔。
「だって……これ以上つらい顔するの、見たくないんだもん」
 ――……泣いて、いた。
 眉を寄せて笑った羽織は、確かに今、泣いた。
 大きな瞳からぽろぽろと涙が零れているのが、私には……痛いくらいハッキリと見えている。
「先生が、1番しない顔なの」
「……え……?」
「いつだって……先生は、私の前では楽しそうに笑ってたから。……いたずらっぽく、見せたこともあったけど」
 絵里も知ってるでしょ?
 懐かしむように笑った羽織は、何か……大切なものを手離したような。
 そんな、悔しさをぎゅっと抱きしめているようにも見えた。


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